第16話:お説教とは駄目出しなり



 ◆◇◆◇◆◇



 涼風の吹く早朝。日課である太竹たたけ山巡りのランニングを終えた朝日は、一人で道場にいた。日々当然のようにして行われる桜木流撃剣の朝練は、ただ走って筋力を鍛えるだけではない。太竹山は地脈の集中する地点、即ち結節のある山だ。結節の気魄は、朝日の両足を通じてその気脈へと流れ込み、一人の少女の肉体を角折リにふさわしいものへと変える。


 体にフィットしたトレーニングウェア姿の朝日は、はた目から見ればバスケ部かバレー部の花形にも見えるだろう。もっとも、それは太竹山の山道を走っている時だ。今の朝日は、片手に黒塗りの鞘に収められた打刀を持っていた。触れれば切れる本物の真剣を、朝日はボールペンのキャップをはずすかのような無造作な仕草で抜刀する。


 滑らかな動きで体が構えを取り、次いで白刃が振り下ろされる。道場の床が踏まれる、小気味よい音。白刃は一撃で終わらない。次々と刃が跳ね上がり、振り下ろされ、払われ、突かれ、まさに踊る。朝日の周囲にかりそめに配置された、見えざる敵の姿。それが舞うようにして刀を振るう朝日の下に、次々と倒れ、切り払われる。


 後方に振り返ることなく突きを繰り出した後、朝日はおもむろに刀身を鞘に収める。呼吸を整え、瞑目。気脈を巡る気魄が、緩やかに手を伝い、鞘と柄、そして何よりも刃へと染み込んでいくのを感じつつ、集中力を高めていく。まるで今か今かと、雲間から太陽の光が差し込むのを待つようにして。そしてついに――――。


 一刀。


 弾けるかのようにして解き放たれた白刃は、朝日の目の前の空気を両断していた。神速の居合。角折リの家の内、居合に特化した桐生片陰流には及ばずとも、その一撃は頭角の角を切断するのに充分の気魄を帯びている。これぞ「桜木流撃剣・しのヲ突ク村雨」。だが、それまで凜としていた朝日の表情が、かすかに曇る。


(しっくりこないな……)



 ◆◇◆◇◆◇



 彼女がそう思ったのと同時。


「なってないね」


 突然の叱咤に、朝日は目をそちらに向ける。道場の入り口に、いつの間にか祖母のふみが立っていた。


「……おばあちゃん」


 朝日の口調は柔らかい。いくらふみが天性で刀を振るう桜木流撃剣の申し子であり、朝日にとっての師匠であっても、何よりも彼女は朝日の祖母なのだ。甘えるのも無理はない。


「貸しな」


 そっけなくふみは言うと手を出す。朝日の目が細められた。強い気魄がふみの全身を覆っている。臨戦態勢ではないが、防御に余念はない。気魄を知る剣客が、互いに斬り結ぶときの基本的な体勢だ。ならば、と朝日は右手を振りかぶるや否や、何とふみに向かって手の打刀を投げつけた。


 当たれば肉を貫き、骨を割って体の反対側にまで抜けるほどの威力の投擲だ。ふみが気魄で身を覆っていなければ、絶対にしない暴挙である。だが。


「遅いね」


 何食わぬ顔で、ふみは朝日の投げつけた打刀を二本の指で挟んで受け止める。


「鞘も」


 難なくあしらわれ、朝日はさらに力を込め鞘を回転させて投げつけた。


「なんだいそのへっぴり腰は」


 だが、こちらもふみは顔色一つ変えずに受け止める。気魄を用いているとは言え、老女が平然と行ってよい離れ業ではない。


「やれやれ、刀にべったりと雑念がこびりついているよ。これじゃ頭角の角はおろか、畑の大根だって斬れやしない」


 朝日から受け取った打刀の刀身をじっと眺め、ふみは呆れ果てたと言わんばかりの声を上げる。


「朝日、なぜこの型に『篠ヲ突ク村雨』という名前がついているのか、それをきちんと考えているのかい」


 そう言うと、ふみは静かに刀を鞘に収め、腰をやや落とす。


「抜く前は曇天の如く重く動かず――――」


 ふみは動かない。ただの老いた女性が立っているだけなのに、その立ち居には太い支柱の如き安定感が漂っている。


「しかし一天にわかにかき曇り、たちまち小笹原に驟雨しゅううが降る如く――――」


 けれども、あまりにも自然にふみの手が刀の柄に添えられた瞬間、刀は抜かれていた。まさに一刹那。銀の光芒が、彼女の目の前の空間を薙ぐ。


「抜けば必中にして必定。静と動が厳然として入れ替わり、その両端を結ぶのは――――」


 ここでようやく、ふみは朝日の方を見る。


「どこだい?」

「鞘」


 朝日は即答した。


「それは分かっているようだね」

「ありがとうございます」


 本物の達人の妙技を目にした朝日は、ただかしこまって一礼する。


「いつもすごいね、おばあちゃん。そんなに速くないのに、どうしても目で追えない」


 しかし、朝日の好奇心はそれでおさまらない。


「ただ速ければいいってもんじゃないよ。もし速さだけで勝負が決まるのなら、永遠に剣は銃に勝てないね」


 朝日の賛嘆を、ふみは眉一つ動かさずに受け取る。朝日が誉めるのも無理はない。ふみの今の抜刀は、朝日の目では追えなかった。まるで原因と結果、因果の一部を切り抜いたかのように、どんなに目を見張っていても抜刀の瞬間は不明瞭なのだ。


「この世界というものは、隙間なくぴったりとできあがっているように見えて、実際は空所だらけなんだよ。それが見える人もいれば、感じる人もいる。大事なのは、気魄の流れに沿ってそれに触れ、動きに加えられるかさ」


 そう言うと、再びふみは刀を構える。ゆっくりと、目で追える速度で。いや、たとえ子供であろうとも分かる身のこなしで。


「方術では反閇へんばい、仙術では縮地と呼ぶものに近いね。〈間隙〉が分かればこのように――――」


 だが、次の瞬間その動きは豹変し、刀の切っ先が朝日に突きつけられる。


「力においても体格においても速さにおいても上回る相手にさえ、太刀筋は読まれず防がれない」

「精進します」


 朝日は再び頭を下げる。やはり、ふみの抜刀の瞬間は目で追えなかった。



 ◆◇◆◇◆◇



「それにしても、お前の剣はいつだって動くより先に思いがほとばしっているんだねえ」


 刀を鞘に収めてから朝日に返し、ふみはそう言うと大きく息を吐く。やや呆れたような仕草だ。


「そう?」

「ああ、鞘に収まっているときだってそうさ。動きで斬るより先に、思いで斬っている。手に取るように分かる」


 ふみに指摘され、改めて朝日は考える。少なくとも、自分に自覚はない。わざわざ好きこのんで、動作の前に思考を発していることはしていない。


(でも、それってまずくないかな?)


 ふみのカンは異常レベルだが、相手にこちらの考えが漏洩するのは考えものだろう。次にどう行動するのか分かる相手など、まるで素人同然だ。


「それって、相手に私の動きが完全に読まれるってこと? 直さなくちゃ駄目かな?」


 慌ててふみに訪ねる朝日だったが、返ってきたのははっきりとした否定の言葉だった。


「やめておきな。朝日、それはお前の特性さ。生まれついての性分を変えようとしたら、いずれ取り返しがつかなくなるくらい、心身の根っこをおかしくしてしまうよ」


 ――実はふみは、ここで非常に大事なことを口にしていた。だが、朝日が彼女の言葉が今の自分の正鵠を射ていることに、この時点では気づいていない。


 「そもそも、強い思いはそれ自体が武器さ。抜く前から発意だけで相手を倒せるなんて、なかなか剣客としてはよい境地だよ」


 ふみは朝日のくせを否定するのではなく、武器として活かそうとする。


「斬るのは最後の手段。その前に争いを避けられるなら、それに越したことはないよ。抜けば斬るのが刀の道理だからね。抜かないのが一番さ」


 ふみにそう言われ、ようやく朝日は安堵する。気合いで相手を圧倒するのは、朝日にとって得意技だ。どうやら、自分は今のままでも安心らしい。


「ありがとう。おばあちゃんにそう言われると自信がつくよ」



 ◆◇◆◇◆◇



 しかし、ふみはじろりと笑顔の朝日をにらみつける。


「だがね、朝日。ここからはお説教さ」


 一瞬で表情を硬くする朝日に、さらにふみは追い打ちをかける。


「朝日。お前、やる気がないね」

「そ、そんなことないよ!」

「ならば、さっきまでのあの情けない気魄は何だね?」


 ふみの指摘に、たちまち朝日の顔は青ざめる。


「言ったろう? お前は意志が動作より先んじている。だけど、その強い意志そのものがお前の武器さ。そのはずだったのに、意志がなまくらじゃ、お前の動作は凡夫の宴会芸にも劣るよ」

「……すみません」


 朝日は謝るしかない。確かに、このところ剣に身が入らない。いつも、心のどこかが剣とは別のところでさ迷っていて身が入らないのだ。


「いったい、何が気掛かりなんだい。いや、何が頭の中でうるさくさえずっているんだい?」


 少し口調を和らげて、ふみは朝日に尋ねる。詰問するのではなく、思いやっているのが分かる口ぶりだ。


「……分からないよ」


 けれども、朝日は首を振る。しっくり来ないのは分かる。何かが心の雑音となっている。でも原因は不明だ。


「分からないはずはないだろう? ついこの間までは、急に腕を上げたんだと思ったんだけどねえ。今じゃ五里霧中そのものさ」

「本当に分からないんだ。逆に、どうして腕が上がったのかも分からないし。私はただ、いつも通りに練習していただけで、特別何かしたってわけじゃないのに…………」


 そう言ってうつむいてしまった朝日を、ふみは眼鏡の奥の目で見つめていた。自分の心の奥まで見通しそうな眼力を感じ、朝日はただ身を委ねる。いっそ何もかも見抜いて、と思いつつ。


「まったく、若いって言うのは、ままならないものだねえ。同じ刀が、殺人剣にもなれば活人剣にもなるようなものだよ」


 ややあって、ふみは苦笑しつつそう言った。



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