第15話:学食とは戦場なり(後編)



 ◆◇◆◇◆◇



「視線が痛い……」


 狭霧と差し向かいで席に着いたまま、朝日は周囲に目をやる。既にエミリーも琲音もいない。狭霧が朝日に関心があることを感じ取ったのか、二人とも席を外してしまったのだ。おかげで朝日は学食中の生徒たちから注目を浴びている。


「でも君は席を立たない」

「あんたに遠慮する筋合いはないから」

「それでいい」

「嫌みな奴」


 朝日は狭霧をにらむ。この位置ならば無理に立ち上がらず、居合の要領で相手を斬れる。手の内に放出した気魄が白刃の代わりだ。


「俺を斬りたいか?」


 しかし、朝日の予測は狭霧には筒抜けだったようだ。体の微妙な動きや、気魄の流れを読まれている。


「だけど残念ながら……」


 瞬間、狭霧の手が動くと、朝日のトレーに添えた手にそっと重ねる。


「斬れるかな?」


 狭霧が囁く。男子の手とは思えない艶やかな感触で、朝日は気づいた。狭霧に触られている。その事実にぞっとするのと同時に、さらに朝日は驚愕した。


「っ!?」


 鉛を流し込まれたかのように、体が重くなっていく。体の軸と気脈を押さえられた。触れられただけで、こちらの動きが完全に封じられている。


「気安く私に触るなッ!」


 音を立てて朝日は立ち上がると怒鳴る。全身の気脈を一度に活性化させ、どうにか朝日は狭霧の束縛から脱することができた。狭霧に触られただけでも鳥肌が立つのに、片手でこちらの五体を封じた事実が輪をかけて肌を粟立たせる。


「動けたのか。それは意外だった」


 息を荒げて身構える朝日に対し、狭霧は鷹揚なままだ。



 ◆◇◆◇◆◇



 当然のことながら、朝日の行動で周囲は本格的にざわつきだした。


「触るなだって……」

「嘘、王子が……?」

「手を繋ぐつもりで……?」


 などなど、生徒たちが囁きあっている。はた目には、狭霧が好意から手を繋ごうとしたのに対し、朝日が断ったように見えるだろう。しかも、朝日は照れ隠しできつい言葉を使った、と脳内で補正を入れて。



 ◆◇◆◇◆◇



「あ、あ、あんたは……まったく! まったく!」


 湯気が出そうな程に顔を赤くして、朝日はなおも声を張り上げる。どうしてこんなに恥ずかしいのか、自分でもよく分からない。


「座って。目立つよ」

「誰のせいでこんなに目立ってると思って……」


 そう言いかけたものの、諦めて朝日はがっくりと腰を下ろした。もう、どうしたらいいのか分からない。



 ◆◇◆◇◆◇



 しかし、その後狭霧は朝日にちょっかいを出すこともなく、淡々と箸を進めていた。朝日はとうに食べ終わっているのだが、席を外すと逃げたように思えるので座ったままだ。


「不思議だ、こういうのも結構楽しいものだね」


 狭霧がそんなことを口にしたのは、トレーが空になってからだった。焼き鮭は丁寧に骨から身を削がれ、茶碗には米粒一つない。


「楽しそうで結構だな」


 男女を問わず学食中の生徒から注目される朝日は、うっとうしそうに答える。


「君は?」

「あんたと差しで斬り結べるなら、きっと楽しいだろうね」


 物騒なことを言うが、狭霧は薄く笑ったままだ。


「そもそも、何が目的だ」

「目的?」

「わざわざ私の目の前で食事をする必要はないだろ。狙いは何だ?」

「君と話がしたかった」


 狭霧の即答を、朝日は鼻で笑う。


「本当だよ、君と話がしたい。それだけだって」


 狭霧は珍しく食い下がるが、朝日には解せない。


「なぜ私を構うんだ。あんたがちょっと声をかければ、学校中の女子が周りを取り囲んで選び放題だぞ。いくらでもいる」


 この美形が誘えば、女子が長蛇の列を作って並ぶのは想像に難くない。入れ食いである。


「いくらでもいる、と本気で思っているのかい?」


 狭霧はそう答えた。


「どういう意味だ?」


 意味が分からず、朝日は狭霧の顔を見る。本当に、彼は不気味なくらいにきれいな顔をしている。鮮やかな目も、鋭利な鼻筋も、妖しく誘うような唇も、どれもこれも男性の造作だ。それなのに、この少年はどんな少女よりも美しい。あってはならない異形の美だ。


「いないのか?」

「いない」

「本当に?」

「いないよ」


 しかし、常にその口元には謎めいた微笑が仮面のように浮かべられている。彼の本性は、すべてペルソナで覆い隠されている。


「試してみたのか?」

「いいや」


 狭霧の言葉を、朝日はゆっくりと頭の中で反芻する。


(こいつ……もしかしてまともに話せる相手が誰もいないのか?)


 朝日は頭角ではない。だから想像する。混血としての自分。周囲の人間とは種族からして異なる存在。朝日は入れ食いと評した状態など、よくできた人形に取り囲まれたようなものだ。それは決して、優越でも至福でもないに違いない。


「……やってみなくちゃ分からないだろ、とは角折リとして言えないね」

「ありがとう」


 素直に狭霧は礼を言った。



 ◆◇◆◇◆◇



「……取り繕っても、所詮は鬼か。人に混ざれないなら、なぜ人の中にいる?」


だが、狭霧に素直にされると、ついひねくれてしまうのが朝日である。群集の中の異質である狭霧に対し、朝日は率直に尋ねる。


「学校。学生。教室に生徒に先生。普通に登校して、普通に授業を受けて、普通に部活に励んで。学友と学んで、笑って、楽しんで――」


 狭霧はうたうように口にする。本心から、彼が口にする平凡な生活を愛している口ぶりで。


「――時には恋をして」


 そっと告白するかのような「恋」の一語に、朝日の心臓が大きく脈打つ。慌てて彼女はその語を脳内で「鯉」に置き換えて平静を装った。


「素敵じゃないか。平凡と笑うなかれ、そこに確かに人としての大切な生が輝いている」

「つまりあんたの目的は『学生ごっこ』ってわけか」

「正解」

「ふん、だったら決定的に、あんたはあんたが憧れている普通の連中とは違うよ。普通の学生はそうやって平凡に生きるのが当たり前で、そこが自分の住むべき場所。でもあんたは違う。あんたは全然違う場所から、普通とか平凡に執心しているだけだよ。鬼が人になれるはずがない」


 朝日は狭霧の憧憬を切って捨てる。そう、それはしょせん憧憬だ。しかも的外れの。凡人は凡庸な世界に生きている。それが彼らの居場所であり、時には脱しようと足掻く苦界ですらある。しかし狭霧は違う。彼はそもそも初めから脱した存在なのだ。逸脱した存在が、ただ単に自分と違うという理由から凡俗を愛でているはた迷惑な理屈でしかない。


「手厳しいね」

「当たり前のことを言っただけ」

「それは、君自身の経験を踏まえて言っているのかな?」

「…………っ!」


 予想外の狭霧の言葉に、朝日は言葉を失った。斬りつけた刃が、そっくりそのまま自分に返ってきた気分だ。


「卒業すれば、恐らく俺は本格的に當麻流舞踊の仕手として活動するようになる」


 狭霧は淡々と呟く。


「だから、これは最後の学生生活になるかもしれないんだ。悔いのないように過ごしたい」

「そうなんだ」


 朝日は気づかなかった。


「実家を継ぐんだ」

「そういうものだからね」

「私も、そういうものだから」


 この頭角は、當麻流舞踊という伝統の中に生まれ、生き、死ぬのだ。桜木流撃剣という伝統の中に生まれ、生き、死ぬ自分とまったく同じように。


「俺と君は似た者同士、ということかな」

「冗談はよしてよ」


 だが、たとえ自分の中で狭霧との共通点が見つかったからと言って、それを彼に指摘されるのは嫌だ。即座に朝日は否定してしまう。


「いいや、本心だよ。だから、俺は君を結構気に入っている」

「私はあんたが気に食わない」

「そのようだね。見れば、いや見なくても気配でよく分かる」


 狭霧に気に入られる。この学校の女子ならば誰もが熱望するその立場であっても、朝日の殺意は変わらない。


「それは角折リとして、頭角という存在が許し難いという意味かな」

「それもある。でも、何よりも……」

「何よりも?」


 しばらく朝日は言葉を選ぶ。選ぶために考える。そして考えれば考えるほど、自分でも不思議なほどに腹が立ってきた。


「あんたのその、得体の知れない笑い顔が見ていて腹が立つ。どいつもこいつも、あんたがちょっと笑えば尻尾を振る腰抜けばかり。でも、私は違う。あんたのその、素顔に化粧を塗りたくったみたいな顔を見ると不愉快だ。気色悪い。絶対に嫌だ!」


 なぜそんなに狭霧の微笑が気に障るのか、自分でも分からず朝日は激情に任せてそう叫ぶ。



 ◆◇◆◇◆◇



「あれ? 喧嘩してるの?」

「本気で怒ってるみたいだけど……」

「なになに、浮気?」

「修羅場?」

「危険度高め?」


 学食のあちこちで、朝日の行動についての感想が囁かれる。朝日はそんな、益体もない空想の数々をあざ笑った。今の自分を見ろ。私はこの鬼と仲良しなんかじゃない。私とこいつとは犬猿の仲そのものだと理解しただろう、と。


 だが、現実は彼女の予想を上回る。


「いやいや、昔から言うでしょ、喧嘩するほど仲がいいって」

「あ、そうか」

「ただ照れてるだけじゃん」

「王子相手じゃね~」

「案外かわいい」


 誰か一人の意見で、自分の行動が好意的に解釈されてしまう。


(なんでそうなるの!?)


 朝日が周囲に抗議したいのをこらえている向かいで、狭霧は一度静かに息を吐く。



 ◆◇◆◇◆◇



「――――ならば、“私”の素顔を見たいか?」


 朝日は目を見張った。狭霧の顔から、あの謎めいた笑みが消えていた。その表情。どう形容すべきなのか、朝日には分からなかった。あえて言うならば、狭霧の表情は「空虚」だった。どんなに目を凝らしても、その先には何もないぽっかりと空いた穴だ。


「見たい、と言ったら?」


 朝日は唾を飲み込み、辛うじてそれだけ言う。


「それなら、近いうちに」


 狭霧はそう囁く。


「ありがとう、わざわざ時間を取ってくれて。感謝するよ。一度、君と話してみたかったんだ。想像以上に楽しかった」


 だが、次の瞬間彼の顔は、またいつもの謎めいた笑みに装われているのだった。


「また、こうしてご一緒できることを願うよ」



 ◆◇◆◇◆◇



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