第10話:祖母とは同時に師匠なり



 ◆◇◆◇◆◇



 タオルで軽く汗を拭いてから、朝日は道場を後にした。いったん自室に戻り、身支度を調えてから、改めて彼女は客間に向かう。今の朝日はただの桜木大悟の娘ではない。人太刀として認められたれっきとした角折リであり、ゆくゆくは桜木家を背負って立つ存在である。作法に細やかな祖母のふみを迎えるのに、着の身着のままではいけない。


 もっとも、礼儀とは別にもう一つの理由もあるのだが。今の朝日はGパンにシャツではなく、きちんとしたスカート姿だ。長いポニーテールをただ簡単に結ぶのではなく、花結びを模した髪飾りをつけている。一見するとちょっとおしゃれしたようだが、一つ普通のおしゃれとは違うところがある。左手に打刀を持っているという決定的な点が。


 かすかな緊張を表情に加え、朝日は襖の前で正座した。鞘に収めた刀を床に置き、続いて朝日は襖をできるだけ音がしないように開ける。やや薄暗い客間にいたのは、朝日の祖母のふみだ。相変わらず、着物を本当に上手に着こなしている。ごく稀に洋服姿になるが、その時のふみは何となく別人に思えるくらいだ。


「おばあちゃん、お帰り」


 襖を閉めてから、朝日の口が自然とそんな言葉を発する。ふみは朝日たちとは別の家で一人暮らしだ。それでも、朝日にとっては「よく来たね」という言葉は適切に感じない。ふみがこの家に来るとき、彼女にもっともふさわしい挨拶は「お帰り」なのだと思う。


「おや、朝日かい」


 ふみの眼鏡の奥の目が、ゆっくりと朝日に焦点を結ぶ。


 襖の向こうの朝日の気配とその体が発する音を、ふみは感じ取っていたに違いない。しかし、あくまでも彼女は今ようやく朝日の存在に気づいた、と言わんばかりの態度を崩さない。


「本日はよくお越し下さいました」

「こちらこそ、恐れ入ります」


 続く二人の挨拶は、他人行儀なものだ。何しろ、これはただの祖母と孫娘の再会ではない。


 朝日とふみ、双方の目が合う。老境に入って長いというのに、ふみの目はしっかりとし、油断がならない。朝日はそのまま、徐々に徐々にふみへと近づいていく。立ち上がるのではなく膝行に近い姿勢だ。極端なまでに動きを抑えているのは、単にふみが礼儀作法にうるさいからではない。朝日の動きは完全に、間合いを推し量る剣客のそれである。



 ◆◇◆◇◆◇



 それは完全に、朝日の予想通りだった。ふみの周囲に描かれた見えざる円。彼女のテリトリー、間合い、そして自分にとっての死線。それに自分がごくわずかに侵入した、と朝日が認識したまさにその刹那。ふみの手が動いた。恐ろしいことに、こちらを見るその両眼と向けられた顔、さらに上半身すら動かさずに、彼女の手だけが動く。


 鞘から自ら飛び出すかのようにして、飛沫の如き白刃が朝日に真横から襲いかかる。ふみが側に置いていた刀を抜刀するや、躊躇なく朝日に振るったのだ。常人ならばこめかみを通り抜けて両目を上下に断ち、次いで反対側から抜ける一撃だ。即死は免れない。もっとも朝日ならば、気魄の通る気脈を励起させ、肌で刃を弾くことくらいはできる。


 だが、それは刃を受けることだ。とっさに朝日は首を曲げて避けようとする。しかし、すぐにそれでは足りないと悟り、体を横倒しにして刀の軌跡から逃れた。頭上に彼女の刀が巻き起こす風の音を感じ、朝日の首に寒気が走る。もう少し遅かったら確実に斬られていた。こちらが首を曲げる動作を完全に読まれていたのだ。


 つくづく、ふみの刃は神がかっている。彼女の刀に極端な力、速度、勢い、殺意はない。けれども、なぜかその刀はこちらが避けようとする方向にあらかじめ向けられている。まるで予知だ。こちらが回避したその先に既に刃があるなど、滅茶苦茶にも程がある。ふみと何度も渡り合った朝日だから、今の斬り付けをかわせたようなものである。


 しかし、これで終わったわけではない。何食わぬ顔でふみは振り抜いた刀を続いて振り上げ、真っ向から振り下ろす。畳に横倒しになった朝日を、その体勢のまま真っ二つに割る一刀である。手元の刀を抜く暇はなく、かわすこともできない。ただ刀を振るっているだけなのに、自然と相手を四面楚歌の状態に追い込むふみの技量は恐ろしいものだ。


 快音一つ。手を打ち鳴らす拍手のような音が客間に響く。ふみの振り下ろした刃は、朝日の額に触れることなく止まっている。彼女が手加減したからではない。その刃は、朝日の両の手の平にしっかりと挟まっていた。白刃取り。ぎりぎりで朝日は半身を起こし、振り下ろされる刀身を手の平を合わせて見事に受け止めたのだ。


 数秒間、朝日もふみも動かない。力比べならば朝日の方に分がある。あの相手の回避をあらかじめ塞ぐような異様な太刀筋も、こうして刀を封じてしまえば繰り出せなくなる。その代わり朝日の方も手を離したら、額を豆腐のように両断される位置なのだが。気魄を両手にみなぎらせ、じっと朝日はふみの次の一手を見極めようとする。


 ややあって、朝日は自分が挟んでいる刀から気魄が抜けていくのを感じ取った。水が低きに流れていくように、刀身にみなぎっていた気魄がふみに戻っていく。つまりそれは、これ以上刃を交えることはない、という意思表示だ。朝日が両手を離すと、ふみは刀を鞘に収める。


「……ふん」


 刀を脇に置き、改めてふみは何やら考えているようだ。


「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ」


 朝日は尋ねるが、ふみは答えようとしない。いきなり斬りかかられた朝日だが、それを問いただすことはない。ふみが朝日と再会すると、こんなことはしょっちゅうだ。常在戦場、という言葉の実践だろうか。斬り合いこそが、この祖母と孫の挨拶であり、スキンシップであり、コミュニケーションである。


「その髪飾り、やっぱりお前にはよく似合うね」


 しかし、一度実践を終えれば、もうふみは朝日の祖母だ。


「ふふっ、ありがとう。私も気に入ってるよ。みんなレトロだって言うけど」


 朝日は自分のポニーテールの結び目に手を当て、嬉しそうににっこりと笑う。この少し古風な花結びは、何を隠そうふみから教わったものなのだ。



 ◆◇◆◇◆◇



 やがて夜になり、桜木家一家はふみを交えて食卓を囲んでいた。


「それにしても、来るなら来るって言ってくれよ」


 晩酌に缶ビールを空けつつ、大悟がふみに文句を言う。相変わらず、ふみは事前に連絡もなくふらっとやって来るのだ。


「悪いね。少し、胸騒ぎがしたからね」

「母さんの天眼は未だに健在だからなあ……」


 大悟は参った様子だ。


 天眼。それはふみの持つ天性の異能だ。一種の未来予知に近いそれは、朝日に対して見せたあの「相手の避けようとする方向に斬り付ける」回避困難な剣の正体だ。だが、天眼はそれだけでなく、ふみの普段の行動にも影響を与えているらしい。彼女の神出鬼没な振る舞いは、多分に天眼を持つ故だ。


「一方で、お前の方はどうも腕がなまっているようだね」


 実の母にじろりと睨まれ、大悟は慌てて缶ビールを置く。


「ま、まさか。そんなことないさ。なあ、朝日」

「知らない。後でおばあちゃんに稽古してもらえば?」


 話題を向けられた朝日だが、彼女は平然と取り皿に唐揚げを置き、レモンを大量にかけている。


「いや、それは……いい」

「情けない。勝負に応じなくて何が桜木流撃剣の師範だい」


 稽古を断る大悟に、ふみは大きくため息をつく。しかしここで、掩護が入った。


「ふみさん。あんまり大悟さんをいじめないで下さいな。何でしたら、力不足ですが私がお相手仕りましょうか?」


 大悟の隣に座る陽子が、そんな申し出をしたのだ。


「陽子さんがかい? それもいいかもねえ」

「待て! 陽子が出るんだったら、俺がやる。いいな?」


 妻に助けられてたまるかとばかりに、大悟は二人の会話に割ってはいる。


「お父さんって相変わらず見栄っ張り。そんなに見栄って大事?」


 うろたえたり虚勢を張ったりと忙しい大悟に、すっかり朝日は呆れた様子だ。


「おうよ。見栄も張れない男なんて男じゃねえ。逆に言えば、男なんてみんな見栄で装ってるんだ」


 得々と大悟は朝日に力説する。


「いいか朝日、男の見てくれに騙されるなよ。虫も殺さない顔した色男が、とんだ女泣かせってのはよくある話だ」

「大悟。年頃の娘に下らないことを吹き込むんじゃないよ」


 何やら妙な方向に話が行きそうになったからか、ふみが大悟に鋭い釘を刺す。


「下らなくはないだろ。今のうちにきちんと言っておかないと、手遅れになってからじゃ遅いぞ」


 言い争う祖母と父をよそに、朝日は箸を置く。


「色男、か……」


 色男と聞いて、朝日が想像できるのは一人だけだ。脳裏にあの、同じ人間とは思えない整いきった容貌がありありと再現される。


 ――狭霧の顔が。


「誰かいるのか!? そんな奴が!?」


 思いを巡らす朝日の変化を、大悟は見逃さなかったらしい。勢い込んで彼女の方を向いて叫ぶ。


「斬りたい奴なら、一人」


 まさか彼氏ができたのか!? との大悟の邪推を、朝日は一言で斬って捨てる。


「そ、そうか…………」


 まさかそんな反応が娘から返ってくるとは思わなかったのか、大悟はあっけにとられていた。だが、朝日の言葉に嘘偽りはない。狭霧に対するあの感覚は殺意に近い。斬りたい、という胸の高鳴りは、確かに本物だ。


「朝日」


 不意に、ふみが朝日の方を向く。


「なに、おばあちゃん」


 その視線の鋭さに、かすかに朝日は身構えつつ返事をする。


「お前、急に腕を上げたね」


 突然誉められても、朝日には思い当たる節がないので首を傾げる。


「そう?」

「ああ、だから私はここに来たのさ」


 そう言うと、何やらふみは一人で納得した様子で、味噌汁の碗に口をつけるのだった。



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