第9話:流派とは継続の一言なり



 ◆◇◆◇◆◇



 それは、朝日が初めて剣を握ってから三年ほど経った頃の話だ。朝日が桜木流撃剣を学び始めたのは七歳だから、ちょうど十歳の時である。その日、道場で彼女と対峙していたのは父の大悟ではない。淡い藍色の着物を上品に着こなした白髪の老婦人が、その手に小太刀と同じ刃渡りの木刀を握っている。彼女は朝日の祖母、桜木ふみという。


「また負けたー。やっぱりおばあちゃんは強いね」


 木刀を床に置いてから、幼い朝日は足を投げ出して座り込む。


「そりゃあそうだよ。おばあちゃんは、朝日よりもずーっと長く剣を習っているんだからね。年は取ったけれど、ちっちゃな朝日に負けるわけがないよ」


 ふみの言う通り、今日も朝日はふみに木刀を届かせることはできなかった。


「ふん、いつか絶対におばあちゃんに勝ってやるんだから。待っててね」


 そもそも、ふみは朝日の刀を自分の小太刀で受けてさえない。ことごとく自分の攻撃をかわされてなお、朝日はそう言って息巻く。


「もちろんだよ。朝日がおばあちゃんを負かす日を、おばあちゃんは楽しみに待ってるからね」

「負けちゃうのに楽しみなの?」


 朝日は首を傾げる。


「ああ、もちろんさ。だって、おばあちゃんは朝日より先に死んじゃうからね。死んじゃったら、もう剣は持てないよ」


 死ぬ、という語をふみは当然のように口にする。まるで、明日出かける、とでも言わんばかりの語調だ。


「やだやだ。そんな悲しいこと言わないで」


 大好きな祖母に死ぬ、と言われたので、慌てて朝日は立ち上がりふみに縋り付く。


「いいや、人はいつか必ず死ぬんだよ。私たち人間も、私たち桜木流がずっと敵としてきた頭角も、必ず死んでしまう。だから、死ぬ前にきちんと、自分が習ってきたこと、受け継いできたことを次の代に伝えていかなくちゃいけないの。だって、伝えきる前に死んでしまったら、今までご先祖様が伝えてきたことがすべて無駄になってしまうからね」


 悲しそうに自分を見上げる朝日の頭を、ふみは優しく撫でる。小太刀を握ったときはあれほど霊妙不可思議に動くその手は、今はただの老女の穏やかな手でしかない。


「朝日がおばあちゃんに勝ったって事は、おばあちゃんより強くなったってこと。もう、おばあちゃんから習うことは何もない、ってことだよ」


 頭を撫でられたことで落ち着いたのか、朝日はふみの着物から手を離す。


「それでも、おばあちゃんは私と一緒に練習してくれる?」

「もちろんだよ。いつだって、足腰が立つ間は付き合ってあげるとも」

「やった! じゃあ、もう一回!」

「はいはい」


 たちまち笑顔になって木刀を拾う朝日に、苦笑しつつもふみは律儀に付き合うのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



 ――時間は現在に戻る。


 日曜の午後。昼食を終えた朝日は一人で道場にいた。練習着ではなく、動きやすいシャツとGパンという私服姿だ。こうして座していると、抜き身の刀剣という語がぴったりくるシルエットだ。手足は筋肉質で、当然のことながら無駄な肉が一片たりともない。上半身はやや女性としては平坦だが、その分引き締まっている。


 瞑目したまま、朝日は動かない。さんざんかヨワ系だの何だの言って空回りしている朝日だが、顔の作りは充分に美人だ。まっすぐな鼻筋に、迷いなく墨で描いたような眉と瞼と目、真一文字に結ばれた口元。むしろ凛々しいと描写したくなるだろう。桜木流撃剣という流派が丹誠込めて鍛え上げた自慢の太刀、それが桜木朝日という少女だ。


 ゆっくりと朝日は目を開く。見上げる先にあるのは神棚。そして掛け軸にかかる「乾坤一擲」の文字。その意味は、のるかそるかの大勝負。白刃を手に、頭角という異種と渡り合って来た桜木流撃剣が拠り所とするのにふさわしい文字だ。そして、朝日の脇にあるのもまた、一振りの太刀である。それを手に持ち、朝日は無駄のない動作で立ち上がった。


 見事な拵えである。そっけない黒塗りの鞘と、手を保護するだけの鍔ではない。鞘には桜の花弁と鳥の羽毛が精緻に描かれ、鍔にもまた桜花と隻翼が丁寧に彫られている。明らかにただの殺傷用の道具の域を超え、芸術品としての格さえも備えた名刀の類だ。左手で鞘を持つと、朝日は右手で柄を握りゆっくりと刀身を露わにする。


 厚い雲間から陽光が差し込むように、その刃が鞘から抜き放たれていく。強くわん曲した分厚い刀身だ。見るからに重々しく、そのくせまばゆい白銀の輝きを帯びている。触れただけで骨まで断つ剃刀の如き鋭利さと、岩をも砕かんばかりの豪放さとが両立する奇跡のようなバランス。中条安國やすくにによる渾身の一振り、「比翼安國」がその太刀の名だ。


 抜きはなった比翼安國を、朝日は切っ先からはばきまでじっくりと眺める。いつ見ても、魂を奪われんばかりの力強い刀だ。よく妖刀と呼ばれる刀があるが、それとは対照的な逸品だと思う。妖刀が魂を堕落させ腐らせる蠱惑の輝きを帯びているのならば、この比翼安國は魂を激励し、勇気と信念を鼓舞する正道の輝きを帯びている。


 まるで太陽のような、骨太で頼りがいのある力強い刀。それが朝日にとっての比翼安國の感想だ。その安定感と温かみが、朝日は好きだった。この一振りこそ朝日の愛用の得物であり、同時に桜木流撃剣が奉る宝刀のかたわれである。柄を握る右手に左手がやや離れて添えられ、朝日は構えを取る。正眼とほぼ同じ「赤鴉せきあの構え」。


 体が型をなぞれば、自然と体内に満ちていくものがある。筋力とも心力とも違う、力強く脈動するエネルギー。それは朝日の両足の裏を通じて地面から流れ込み、体内の気脈を通じて五体の隅々にまで通っていく。地脈と呼ばれる大地のラインに流れ、必要に応じて吸い上げることのできるそのエネルギーを、古来人は気魄と呼んだ。


 気魄は水のような無形のエネルギーだ。体内に通し、体表にまとわせ、さらに体外に放つこともできる。いずれの時も、気魄を用いることで武芸者は人外の力を得る。ヒトという小さな器に宿るなけなしの筋力や心力を振り絞るより、地脈を滔々と流れる膨大な動力を用いた方が遙かに効率がよい。


 余計な動作の一切ない、踏み込みからの幹竹割り。桜木流撃剣「烈風」。

 防御ごと切り捨てる袈裟斬り。桜木流撃剣「くろがね」。

 相手の攻撃を誘ってからカウンターの突き。桜木流撃剣「一瀉千里」。


 気魄の満ちた朝日の体が、流れるようにして次々と型を繰り出す。あたかも、熟練したピアニストが鍵盤の上に指を滑らせるかのように。


 気魄という力は、身体のみならず体外に放出することも可能だ。声に乗せればそれは雷声となり、視線に流せばそれはいわゆる邪視となる。器物に込めれば白布は鎖帷子よりも丈夫になり、小石がたやすく銃弾に変化する。それら器物の中で刀剣、特に日本刀は異常なまで気魄と相性がよい。気魄を流すという点で、日本刀に勝る道具はない。



 ◆◇◆◇◆◇



 下段から徐々に朝日は刀を上げていく。気魄が乗りきった今、握られた比翼安國は完全に手と一体化している。全身に満ちた気魄を丹田に込め、朝日は大上段に刀を振り上げる。


「桜木流撃剣奥義。――――開花白刃」


 その名を口にするのは、自らに対する引き金だ。朝日が十四歳の時に会得した、桜木流撃剣が行き着いた一つの型。


 爆発的に、ありとあらゆる要素が朝日の五感に流れ込む。太陽光を反射する、微細な一つ一つのほこりが見える。神棚に置かれた杯に満たされた、水の匂いが分かる。筋肉の収縮する音、血管を血液の流れる音が聞き分けられる。空気の厚みが肌で感じられ、舌にはその味までもが伝わる。五感が瞬時に研ぎ澄まされ、まさに花開く。


 桜木流撃剣「開花白刃」。これを会得した朝日は、その日から人太刀の称号を父から授けられた。剣と己を合一させ、超人的な身体能力を得るその技能は、理屈こそ単純だがそれ故に破られにくい。まさに人にして剣、剣にあらず人。古今の剣客たちが焦がれたその境地に、ごくわずかの間だけ朝日はただ一人在る。


 気合いの一声と共に、朝日は大上段から刀を振り下ろす。速さ、冴え、鋭さ、すべてにおいて会心の一撃だ。朝日の手には、白刃が空気を斬る手応えが伝わる。気魄が乗っていないと、刃は単に空気を掻き分けていくだけだ。だが、今は違う。研ぎ澄まされた比翼安國は、文字通り空気を切断し、二つに分けていくのだ。


 人はおろか甲冑、大木、岩壁さえも斬る無比の斬撃を繰り出した朝日は、しかし成し遂げた表情を浮かべることなく、振り下ろした刃を持ち上げた。ややあって、彼女は静かに比翼安國を鞘に収める。それと同時に、極限まで高まっていた五感の鋭さが、波が退くようにおさまっていった。呼吸が整うにつれて、体内の気魄もまた沈静化していく。



 ◆◇◆◇◆◇



(届かない……)


 それまで感じることのなかった焦燥感が、朝日の太刀筋に加わっていた。心技体。桜木という角折リとしての心構え。鬼さえ斬る研ぎ澄まされた武技。そして気魄を乗せる器として鍛えられた五体。すべてが揃っているのに、朝日の手にある比翼安國は言うのだ。この程度では無意味だ、と。あの男――當麻たいま狭霧には届かない、と。


「朝日」


 自分の名前を呼ばれ、朝日はポニーテールをなびかせて振り返る。そこにいたのはエプロン姿の陽子だ。


「どうしたの?」


 母親の気配に、朝日は注意を向けていなかった。剣と一体化しているとき、あらゆる他の要素は有象無象になり果てる。


「おばあちゃんが来たわよ」


 しかし陽子の言葉に、ぱっと朝日は顔を輝かせた。


「えっ? すぐ行く!」



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