第8話:宿神とは芸能の神なり
◆◇◆◇◆◇
総合体育館を後にし、校舎を横切り講堂に足を踏み入れた朝日たちが目にしたのは、創作ダンス部による演技の発表ではなかった。部長とおぼしき女子と、その背後で一列に並んだ六人の女子が、舞台に立たずに客席にいる。
「困ったな。俺は見学に来ただけなんだ」
部員たちに向かい合っているのは、あの狭霧である。
「そこを何とか!」
穏やかな否定の言葉を口にする狭霧に対し、勢いよくダンス部の部長は頭を下げる。
「私たち、今年こそ全国優勝を目指しているんです。絶対、
彼女が頭を下げると、後ろの六人が次々にそれを模倣する。
「します!」
「しますっ!」
「しまーす!」
直球のお願いにも、狭霧は穏やかなままだ。
だが、驚いたのか呆れたのか、それとも楽しんでいるのかはたまた蔑んでいるのか、内面が一切読めない。まるで、アルカイックスマイルの仮面だ。
「ちょっとでいいんです! 當麻さんのダンスを披露して下さい!」
再び部長は頭を上げてから勢いよく下げる。どうやら、當麻流舞踊の後継者である狭霧の演技が見たいらしい。
「皆さんも見てみたいですよね! 無形文化財の當麻さんの演舞を!」
七人で頼んでも埒があかないと思ったのか、部長はここで客席に座る学生たちに賛同を求める。この部長、なかなか肝が据わっている。彼女の呼びかけに返ってきたのは、賛同を意味する一斉の拍手だ。
「俺は伝統の舞踊で、君たちは創作のダンスだろう? ジャンルが違うよ」
「だったら、當麻さんのオリジナルのダンスでいいです!」
部長がそう言うと、かすかに狭霧の眉が動いた。
「オリジナル……?」
「はい! 當麻さんのオリジナルのダンスを是非見てみたいんです!」
その言葉のどこが琴線に触れたのか。しばらく狭霧は何やら考えていた様子だったが、やがて首を縦に振った。
「分かった。一度だけ、見せよう」
◆◇◆◇◆◇
舞台に狭霧が立っている。突如引っ張り上げられた舞台でありながら、彼は何事もないかのように落ち着いた様子だ。そのくせ、どこか抜かれた刀のような緊張感を発している。静と動。緊張と解放。まるで徐々に引き絞られていく弓だ。ダンス部の面々は、客席で一心に彼を見上げている。彼女たちと他の学生たちの視線が、ただ一人に集中していた。
その渦中にあって、狭霧は右手の扇をゆっくりともたげる。
「一差しの舞を、
狭霧の言葉は、誰にも向けられていない。宙に、空間に、虚空に、あるいはそこに満ちる何者かに向けられているのか。
あしはらの みずほのくにに たむけすと あもりましけむ いほよろづ
彼の唇が言葉を紡ぐ。節回しのある歌ではなく言葉を。
ちよろづかみの かむよより いいつぎきたる かむなびの
だがそれは、確かに歌でもある。
みもろのやまは はるされば はるかすみたつ
手にした扇が翻る。
あきいけば くれなゐにほふ
風に舞う落ち葉の如く軽やかに、艶やかに。
かむなびの みもろのかみの おばせる あすかのかわの みをはやみ
扇を手に、狭霧は舞う。決して動きは激しくはない。足運びはむしろゆっくりで重々しく、扇の動きもさして複雑には見えない。だがそれは、確かに舞だった。古い古い、この葦原の瑞穂の国と称される国の魂と精神、そして風景と空気を形にし、もどき、そして
むしためかたき いしまくら こけむすまでに あらたよの
舞台というさして広くない空間に、すべてが表し示されていた。當麻狭霧というただ一人の演舞と言葉によって、あたかも魔法のように。
さきくかよはむ ことはかり いめにみせこそ つるぎたち
波のように、舞は穏やかに始まり、密やかに盛り上がり、そして淑やかに終わりを迎える。
いはひまつれる かみにしませば
緩やかに狭霧が手を降ろし、姿勢を変えたのを見て、ようやく客席の学生たちは理解しただろう。舞が終わった、と。狭霧は扇をしまい、一礼してから舞台を降りる。
「つまらないものを見せたね」
卑下するような狭霧の言葉に、部長だけが返事ができた。
「あ、ありがとう、ござい、ます……」
残りの六人は、狭霧を呆けた表情で見つめるだけだ。
観客の学生たちも同じ反応を見せている。拍手すら忘れ、皆呆然としている。まだ、狭霧の見せた舞が甘い毒のように脳を麻痺させているのだろう。
「それじゃあ、これで」
去っていく狭霧に、誰一人声をかけられなかった。彼の背後で、狭霧を止めようと思ったらしい部長が椅子から立ち上がろうとして、よろけて倒れた。
◆◇◆◇◆◇
講堂の出入り口で、朝日は狭霧に向かい合っていた。見学云々言っていた狭霧だが、もう興味が失せたのだろうか。
「素人の遊び場に手練れがしゃしゃり出て、自分の凄さを見せびらかしたように見えたけど」
朝日は狭霧にそう言う。朝日からすれば、狭霧の行動は素人のチャンバラに免許皆伝が乱入したようにしか見えない。大人げないったらない。
「手練れ?」
狭霧はいぶかしげな顔をする。そんな顔を向けられたら、千人中千人の女性が、彼を笑顔にしたいと身を粉にするだろう。
「當麻流舞踊の後継者が手練れじゃなかったら何なのよ」
だが、朝日はその例外だ。彼女にとって狭霧の美貌は、闘争本能を焚きつける薪の一本に過ぎない。
「そうか。君には、あれが手練れの技法に見えるんだ」
かすかな失望の気配を、朝日は見逃さなかった。
「なんでがっかりした、って顔をするのよ」
「事実だからさ」
部長の懇願にも、衆目の集中にも、常に穏やかな表情のままだった狭霧が、朝日には失望を隠さない。その異常性が、彼女には理解できていない。
「もう少し、君には真実が見えていると思ったけど、俺の買いかぶりだったのかもしれないな」
「喧嘩売ってるわけ? こっちは月夜じゃなくてもOKだけど?」
朝日がするのは、狭霧に対して牙をむくことだけだ。
「君には得物がない」
「上等。桜木流撃剣が刃物なしでも角を折れること、見せてやる」
息巻く朝日に対し、狭霧の表情は徐々に普段の温厚なそれに戻っていく。また再び、彼の心に霧が立ちこめる
「気分を害したならば謝るよ」
形ばかりの謝罪と共に去ろうとする狭霧の背中に、朝日は声をかける。
「ちょっと」
狭霧は立ち止まらない。
「一つ聞きたいんだけど」
やはり、狭霧は立ち止まらない。
「言いたいことだけ言って逃げるな」
朝日が声を荒げてようやく、狭霧は立ち止まって振り返った。
「あんた、自分の舞に満足してないわけ? 説明してよ」
しかし、答えはない。
「君は、自分の剣に満足してる?」
「質問に質問を返すな」
「知りたいんだ」
朝日は一歩下がった。狭霧の美貌で頼まれると、その強制力は尋常でない。心を強く保たないとたちまち骨抜きされる。
「――それなりに満足してる。皆伝にはまだ程遠いし、極めるのは一生かかっても難しいけど、ご先祖に笑われないくらいの腕にはなれたと思う」
呼吸を整えてから、朝日は正直に告白した。腹芸は苦手だし、そもそも狭霧の美貌には通用しない。
「よかった。さすがは桜木の角折リ」
「……ふん。お世辞なんかいいよ」
朝日はそっぽを向く。だが、心臓が高鳴るのは隠せない。誰だって、心血を注いだものを誉められるのは嬉しい。それが絶世の美男子ならなおさらだ。朝日にとっては気に食わないが。
「じゃあ、あんたは自分の舞にこれっぽっちも満足してないわけ? つまらなくない?」
「つまらないとかつまらなくないとか、そういう問題じゃないよ。俺の舞はまだ未完成だ。當麻の目指す極致には程遠い」
朝日の追求に、狭霧は首を左右に振る。彼の表情に悲しげなものが混じり、朝日は驚いた。この人間にも、悲哀という感情があるのか。
「自分を卑下したところで無意味だよ。謙遜も過ぎるとただの嫌みだから。そんな弱気で當麻の舞い手が務まるわけ?」
だからだろうか。すかさず朝日は発破をかける。コイツは敵だと血が騒ぐ相手を、逆に力づけるような言葉だ。自分でも、何で狭霧を励ましたのか分からない。彼の顔に浮かんだ悲しみを、拭いたいと思ってしまったのだろうか。
「気遣ってくれるのか?」
「まさか。あんたみたいな超人に気遣いが必要?」
自分が狭霧の美貌に魅了されている大勢の女子の一人になってしまったようで、朝日は内心苛立ちながらそう答える。
「困ったな」
だが、狭霧には彼女の苛立ちなど恐れるに足らないらしい。話は終わったのか、一方的に彼はきびすを返した。
「君に十全でない舞を見られてしまった。少し、恥ずかしい」
その言葉を、いったいどんな表情で口にしたのか、朝日には見えなかった。案外、狭霧はその表情を見られたくなかったのか。
「…………そうか、こういうのを恥ずかしいというのか」
そう呟きながら去っていく狭霧の背に、朝日は吐き捨てた。
「一人で恥ずかしがってろ」
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「勝手なことばかり言って、まったく」
朝日は狭霧の背中が見えなくなってから、大げさにため息をついた。講堂の方では創作ダンス部の演技が始まっているようだが、完全に虚脱しているのがはた目から見て分かる。軽い気持ちで狭霧に演舞を頼んだ報いだ。
「ごめんね、エミリー。変なのに付き合わせちゃって」
「そんなことありませんよ」
一部始終を少し離れたところから見守っていたエミリーは、にこやかにそう答える。
「あの方とは浅からぬ因縁、という感じですか?」
「そんなところ」
古めかしい表現をするエミリーに、朝日は同意する。
「では、個人的にはどう思っておられるんですか?」
エミリーの問いに、しばらく朝日は考えてから答えた。
「あの作り笑いが無性にむかつく」
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