第6話:入浴とは沐浴なり



 ◆◇◆◇◆◇



 當麻狭霧たいまさぎりの思考と記憶は、およそ常人のそれとは異なっている。彼にとって思考とはあらかじめ整然と並べられた手順のようなものであり、記憶はいつでも望めば閲覧できる書庫のようなものだ。故に彼の思考はぶれや迷いや乱れが非常に少なく、彼の記憶は生涯のほとんどの場面を参照できる異様極まるものだ。


 もちろん、いくら頭角といっても肉体はとりあえず人間である。當麻の頭角とは言え間違いもするし忘れもする。角折リにとって安心できることに、狭霧だって老化もするしいつかは死ぬのだ。だが、彼の頭の中身には、本質的に常人とはかけ離れたものが詰まっている。だから今日も、狭霧は一人、丁寧に保管された記憶の殿堂の中を見て回るのだ。



 ◆◇◆◇◆◇



「狭霧、お前は當麻の最高傑作だ」


 羽織袴姿で父母の前に正座する狭霧。これは十歳の時だ。狭霧の隣には、彼を少し幼くしたような少年が同じようにして座っている。その髪型や顔形は、何から何まで狭霧とそっくりだ。「お前と弟の夕霧。二人は我が家の誇りだ」しかし、父の言葉に誇らしげな響きはなく、また狭霧の顔にも同様の感情はない。


 ここで記憶の場面は切り替わる。大刹の如き古びた木造建築の中を、優美な狩衣姿の狭霧が歩いている。これは十二歳の時だ。不思議なことに、狭霧本人は自分自身を少し離れた視点から見ている。まるで、自分を映した映像の記録を見ているかのような感覚だ。ここは京都。日本に住まう頭角たちが一堂に会する建物の内部だ。


「あれが當麻の仕手してか」

「若干十二歳であの姿か……」

「正真正銘の鬼か……」


 彼が歩を進める度に、周囲の頭角たちが囁き交わす声が聞こえる。


「あの男とは思えない美貌……」

「まさにこの世のものではないな……」


 そのほとんどはほめそやす声。あるいはほめはやす声。さらにはほめたたえる声。だがいずれも、彼の外見と才能に触れるだけだ。


「だが知っているか?」


 ふと、賞賛の唱和の中に不協和音が混じる。


「あの仕手には、決定的に足りないものがあると聞くぞ」

「何だそれは?」

「そんなものがあるのか?」


 たちまち、屍肉に群がるカラスのようなお喋りがそちらに集まる。


「あるともあるとも。だから、次期当主としての座はもしかすると危ういかも知れん」

「まさか?」

「あれほどの頭角が?」

「いったい何だそれは?」


 一斉にカラスたちの嘴が屍肉をついばむ。関心を独占できたその頭角は、得意げに胸を張る。


「それはだな…………」


 だが、その言葉は最後まで発せられることはなかった。なぜならば、狭霧が立ち止まったからだ。狭霧が首を曲げて、その頭角の方を凝視していた。


 たちまち周囲は黙り込み、凝視された頭角は恥じ入った様子で下を向いてしまった。恐れている。正真正銘恐れているのだ。この、當麻の家に生まれ落ちた至純の鬼を。狭霧は一部始終を目と耳で知覚しつつ、何も感じなかった。憎らしいとも、疎ましいとも感じず、怒りも悲しみも何一つ湧いて来なかった。彼はまさに、人を演じる鬼だった。



 ◆◇◆◇◆◇



「また溺れてる」


 記憶の殿堂を巡る狭霧の歩みは、そんな一言であっけなく終わりを迎える。目を閉じていたためか、声だけがはっきりと脳に達した。ゆっくりと目を開く。ぼやけた視界の端に、自分にやや似た顔が映っていた。長い黒髪は濡れないように上に結われ、多少心配そうな顔をしている。ただ、こちらの顔は狭霧に比べてさらに女性的だ。


 狭霧は目だけを開き、口は動かさない。何しろここは湯の中、湯船の中だ。つい先程まで、彼はずっと温泉の湯の中に全身を浸すだけでなく、仰向けに沈んでいた。見ようによっては、湯あたりして溺れたように見えないこともないだろう。しかも身動き一つせず、口から息の泡一つもらすこともなくそうやっていたのだ。


 緩やかな動作で、狭霧は水中から浮上する。顔だけが水上に達し、同時に彼は息をつく。数分間水中に潜っていたが、まだまだ体内の酸素は潤沢だ。頭角の、特に狭霧の体は常軌を逸したレベルで頑丈である。たとえトラックがぶつかってきても、トラックの方がへこむだろう。ここまで酸欠に追いやっても、狭霧は溺れる気配さえ見せない。


 ここは狭霧の家ではないが、當麻の所有する土地に立つ温泉だ。結節と呼ばれる、地脈の集中視点に沸く湯である。気魄を蓄え己の力とする者たちにとっては、まさに命の水と言ってもいい。そこに設けられた総檜の湯船を贅沢に借り切っているのが、狭霧と彼の弟である。二人は家の舞踊の修練を終え、ここを訪れていた。


夕霧ゆうぎり、心配したか?」


 狭霧は湯船から立ち上がる。白い絹のような肌の上を、湯が珠となって滑り落ちる。背筋の寒くなるような裸身だ。肩幅、骨格、そして筋肉。いずれも確かに男性のそれなのだが、同時にそのたおやかさ、優美さ、そして美しさは女性のそれを上回っている。彫刻家が彫り上げた神代の英雄が、そのまま生を得たかのような肉体だ。


「まさか。兄さんのいつもの癖だよ」


 彼が立ち上がると、ひょいと身を退いて湯船の縁に腰掛けた者がいる。先程狭霧の視界に写った、彼よりもやや女性的な外見の少年だ。彼の名は夕霧。中学二年生の弟だ。彼もまた、頭角としての異能を色濃く外見に反映している。細かな容貌の差異こそあれ、あたかも狭霧の写し絵だ。


「怖い顔をしてるよ、兄さん」


 立ち上がって窓の外をじっと見ている狭霧を見て、夕霧はそんな感想をもらす。一見すると無表情だが、夕霧には狭霧の表情の変化が分かるらしい。


「すまない」

「別にいいよ。あんまりやるとお湯の温度が下がるけど」


 揶揄とも言えない言葉にも、狭霧は表情を変えない。


「あ、今度は笑ってる」


 しばらくして、再び夕霧がそんなことを言う。


 明らかに、彼の方が人なつっこいようにも見える。朗らかな顔をして笑いかければ、たとえライオンでも逆にすり寄るに違いない。もっとも、狭霧が同じことをしたら、そのライオンはひっくり返って腹を見せることだろう。


「顔に出ていたかな」

「他の人は分からないだろうけど。僕は弟だからね」


 そう言うと、夕霧は湯船の中を歩いて彼の隣に立つ。


「そうだね……。ネズミを捕まえたネコの雰囲気に近いかな?」


 深々と兄の顔を覗き込んだ夕霧の感想が、これだ。


「生かさず殺さず、弄んでから壊す顔だ。とても怖い顔だよ、兄さん」

「言い得て妙だ」


 楽しむような狭霧の言葉通り、狭霧の口元は薄く笑いを浮かべていた。確かにそれは、ネズミを捕らえたネコが見せる表情に似ているのかも知れない。



 ◆◇◆◇◆◇



「士道不覚悟……」


 一方その頃、もう一人の人間が同じようにして湯に浸かっていた。こちらは総檜の立派な温泉ではなく、ごく普通の家庭の湯船だ。


(ああもう、なんであんなのと一緒になっちゃったんだろう)


 しっかりと膝を抱え、裸身を口元まで湯の中に沈めているのは、桜木流撃剣の人太刀こと桜木朝日である。あんなの、とは當麻狭霧のことだ。


 今日の受難を思い返して我が身の不幸をかこつ朝日だが、率直に言えば自業自得である。そもそも、きらびやかな高校生活に憧れて初城台を選んだのはほかでもない朝日だ。そこが頭角の巣窟であることを知らなかったとは口が裂けても言えない。


(いっそ、本気で斬りかかってやればよかったかな)


 単に悲運を嘆くだけでなく、即座に武闘方面へと思考を切り替えるのが、朝日らしいといえば朝日らしい。朝日の脳裏に、今日の狭霧との対峙がイメージされる。現実では、朝日は斬りかからなかった。しかし、と彼女は想像する。自分が気魄を白刃に変え、狭霧へと抜きはなったらどうなるか。狙うのは相手の首筋。一撃で首を落とす斬撃だ。


 けれども、その刃は届かない。当たらない。ならば、と次々と朝日は目標を変える。肩口、心臓、胴体、足、そして何より額。そのすべてにビジョンの中の狭霧は対応して見せた。


(負ける……!?)


 まるで相手にされない自分をありありと想像してしまい、朝日は湯に浸かっているというのに背筋が寒くなる。


(あり得ないから、そんなこと!)

「桜木流とは、ずいぶんと軽い剣だね」


 そう、想像の中の狭霧が口にするのを、朝日は耳元で聞いた気がした。


「うるさいっっっ!」


 音を立てて朝日は湯船で立ち上がった。目が据わっている上に息が荒い。我知らず、朝日の体は正確に桜木流撃剣の形を取っていた。体を引き、あたかも弓を引くような「白画びゃくがの構え」。


 それは単なる型の反復ではない。彼女の手は確かに、一振りの刀を握っている。その材質は風呂の湯だ。気魄を体外の器物に通し、ありとあらゆるものを即席の刀剣に変える「桜木流撃剣・万象一刀」。無意識に透明な刀を作り出して構える朝日に、突然声がかけられる。


「おい朝日、何かあったのか?」


 風呂場の戸の向こうに大悟がいるらしい。


「な、何でもないよ」

「風呂場で殺気をそんなに垂れ流すなよ。湯が死ぬ」


 どうやら、通りがかっただけらしい。


「ご、ごめんねっ。ちょっとゴキブリが……」

「あぁ? そんな虫一匹でびびるような神経してないだろ、朝日」

「いいから。絶対こっち来ないでよ」


 朝日がそう言うと、手の内の刀はぬるま湯に戻り、腕を伝って流れ落ちた。


「そんなへまをするわけないだろ、安心しろ」

「ごめん……」


 朝日は何となく体を手で隠しながら、小さく謝る。


「なあに、常在戦場なのは感心感心」


 大悟の気配が遠ざかっていくの確認してから、朝日は湯船に戻る。


 ――しかし、彼女は気づいていなかった。感情を昂ぶらせたその時の構えが、常日頃よりもさらに冴え渡っていることに。



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