第3話:因縁とは回避不可なり



 ◆◇◆◇◆◇



 爽快な青空。ところどころにアクセントとして添えられた白い雲。そして華やかに咲き誇る桜花に囲まれるようにして、桜木朝日の新しき学舎はあった。


「うわぁ…………」


 坂道を登り終え、改めて私立初城台高校を目にした朝日は、子供のような声を上げる。受験当日はどんよりと曇っていたことも手伝って、今の校舎は輝いているかのように見える。


「すっごく素敵な校舎! ねえ、そう思わない? 思うでしょ?」


 朝日は勢いよく振り返ると、後ろにいたエミリーにそう言う。


「ふふっ。桜木さん、まるでクリスマスのプレゼントをもらった子供みたいなはしゃぎ方ですよ」


 少しへばっていたエミリーだったが、朝日の言葉にまるで保護者のような笑みを浮かべた。慌てて朝日はその場を取り繕う。


「かっこ悪かった?」

「そんなことありません。少なくとも、新学期が始まるというのにやる気が皆無な人よりはずっと素晴らしいです」

「ありがとう。フォローが上手だね」


 エミリーの相変わらず流暢な日本語と、豊富な語彙に朝日は少したじたじとなる。なんだか、保護者同伴で入学式に臨む気分だ。



 ◆◇◆◇◆◇



「あの人だかり……何だろう?」


 話題を逸らそうと周囲を見回した朝日だったが、早速妙なものを見つけた。講堂の方角、ちょうど桜並木が一番豊かに花開いているところに、大勢の生徒たちが集まっている。


「ご存じなかったんですか?」


 不思議そうな朝日に、エミリーが首を傾げる。


「ご存じなかったけど?」

「恐らく、あの人がいるんでしょうね」

「あの人?」


 エミリーは訳知り顔だが、朝日は完全に部外者だ。


「受験当日はこんなことなかったけどなあ。アイドルでも入学するの?」

「きっと、別の場所で試験を受けたのでしょうね。何でも、無形文化財の継承者らしいようですから。さぞかし、忙しいのでしょう」


エミリーの説明に、少しだけ朝日は興味がわく。


「ふ~ん。歌舞伎か能かな?」


 祭の縁日をのぞく感覚で、朝日の足はそちらへと向かった。


「…………ッ!?」


 しかし、桜並木へと近づき、もうじき人だかりの中に突入しようとした矢先、突如朝日の足が止まった。


「桜木さん?」


 エミリーの声にも、心配そうな感情が混じる。それほどまでに、朝日の立ち止まり方が急だったのだ。見えない壁にぶつかったかのような不自然さだ。


「この感じ…………ッ!?」


 だが、朝日は困惑するエミリーなどまったく目に入っていなかった。それどころではない。自然と、体の構成が組み替えられていくこの感じ。我知らず、体勢が変わり気脈が活性化するこの感じ。今いる場所は学校だ。それなのに、体がここを実家の道場と錯覚しているようだ。剣戟が交わされ、武闘が唱道される場所に。


 その元凶は、人だかりの向こうから漂ってくる気配だ。それに、桜木の血が異常なほどに反応している。気配、匂い、感覚、雰囲気。様々な言葉を使っても、それを言い表すのは難しい。とにかく、人だかりの向こうにいる存在それ自体に、朝日の身体と本能のすべてが牙をむこうとしているのだ。問答無用で、全身が臨戦態勢に移行する。


「えっ!? ちょ、ちょっと、桜木さん? どうしたんですか?」


 我知らず、朝日は走り出した。後方のエミリーの声など、右から左に抜けるどころかそもそも耳の穴に入ってさえいない。片手にエミリーのスーツケースを提げたまま、朝日は人だかりに飛び込む。それも全力でダッシュしながら。


 その勢いでは、絶対にぶつかるはずの生徒たちの背中。しかし、朝日は身を低くし、まるでヘビが石と石の間に滑り込むかのようにして体を入り込ませる。ついでにスーツケースも。


「な、何だよっ!?」


 突然の朝日の乱入に、生徒たちから驚きの声が上がり、場が乱れた。何人かが振り返り、人混みがばらける。


「ごめんねっ」


 一人の男子の肩に軽く手をかけ、朝日はそのまま大きく跳躍する。すべては、人だかりの向こうにいるあの異様な気配を視認するため。朝日は、ただそれだけを遂行する機械となっていた。それ以外のことは、何も考えられない。そして、人垣を飛び越え、一気に最前列に躍り出た彼女が目にしたのは――――。



 ◆◇◆◇◆◇



 風が吹き、桜の花弁が舞い散る。それはあたかも、その黒髪に花という名の彩りを添えようとするかのように。着地して立ち上がった朝日の目に最初に飛び込んできたのは、長い黒髪だった。烏の濡れ羽色、と表現するのが最も適切な、平安時代ならば宮中の女性すべてが嫉妬で身もだえするほどの、長く鮮やかな黒髪が風になびく。


 それの持ち主の身を包むのは、朝日と同じ初城台高校の制服だ。ただ、性別だけが違う。その黒髪の持ち主が着ているのは、男子の制服。ゆっくりと、彼の顔が振り返る。


「――――っ!」


 朝日が息を呑んだのは、二つの理由だ。一つは、桜木という家が伝えてきた、彼に対する無条件の敵意故に。そしてもう一つは――彼の美しさ故に。


(桜の精…………)


 などという陳腐極まる言葉が、朝日の脳裏に浮かんで消えた。息を呑むほどの美貌、というものを朝日は今日、初めて目にしていた。しかも同性のそれではなく、異性のそれを。彼の目鼻立ちも、立ち居振る舞いも、かもし出す気配も、すべてが「美貌」という言葉に集約される。だがしかし、彼は桜の精などではない。


「頭角…………!」


 朝日の唇が動き、その名が紡がれる。目にしたことは数度しかない。刃を交えた回数もそれと同じだ。だが、この気配は間違えようがない。その猛々たけだけしい気魄を忘れるはずがない。彼こそが、頭角。桜木の家が長きにわたり宿敵としてきた、この日本における最強の人種。より一般的な語で言い表すならば――鬼、だ。


「そう言う君は――」


 人だかりを飛び越えて突如乱入してきた朝日を見て、彼は静かに呟いた。声音自体は穏やかで声量も小さいのに、不思議と誰の耳にも届く声だ。何よりも、神経を愛撫されるかのような艶やかな響きで構成されている。こんな声を耳元で囁かれたなら、たとえミイラであっても頬を染め、潤んだ吐息をもらすことだろう。


「――角折リか」


 一目で、彼は朝日の家の生業を見抜く。彼もまた、朝日の気配と滲み出る気魄を読み取ったのだろう。彼女こそが、角折リ。文字通り、鬼の角を折る家系。すなわち人に仇なす鬼を狩り、鬼を斬る家の末裔だ。桜木流撃剣とは、頭角を討つ流派。今が現代でなく平安時代ならば、朝日と彼との間柄は正真正銘の殺し合う仲だ。


 朝日の右手が、スーツケースを地面に置く。腰を落とし、帯刀しているかのようにして身構える。対する彼の方は、緩やかな動作で朝日の方に向き直る。あくまでも緩やかだが、それ故に得体が知れない。朝日の動きは反射的なものだ。我知らず、桜木の血がうずく。目の前の彼を敵性と認識し、自らの武威を示せと本能の領域から朝日に命じている。


「なんだなんだ?」

「何あれ?」

「何? 撮影?」

「今から?」


 対峙する二人の内、剣呑な感じは朝日だけだ。だが、その異常な感じに気圧されて、周囲の人だかりはざわつく。しかし、同時に誰一人として声をかけられない。人だかりは彼を見に集まったのだろう。しかし朝日の目には、烏合の衆もエミリーも入っていない。ただ、彼だけを見据える。


 緊迫した空気を乱したのは、人垣から抜け出してきた一人の少女だった。おかっぱ気味の髪型をした、小学生と間違えそうな程に小柄な少女だ。彼女は朝日を露骨に睨みつつ、彼の隣に立つと背伸びして何やら耳元で囁く。囁きつつも、少女は朝日を横目でにらむのをやめない。


「……そうか」


 かすかに、彼は笑った。それだけで空気が甘く香る。


「スーツケースを持って駆け込んでくるから、何かと思えば」


 彼は制服の内ポケットに手をやり、何かを取り出す。それは扇だった。


「名乗りを」


 開くことなく、彼は扇を剣のように朝日に向ける。鷹揚な物言いにも動じず、朝日は速やかに答える。


「桜木流撃剣、桜木朝日」


 自分の口が自分のものではなくなったかのような感覚を、朝日は覚えていた。


 朝日の名字を聞いても、彼の笑みは消えなかった。あの少女が、朝日の素性について彼に何か教えたのか。


當麻たいま流舞踊、當麻狭霧さぎり


 そして、彼もまた名乗る。合戦で武将同士が名乗りを上げるかのように、彼もまた自らの流派と本名を口にする。武道を修める桜木の末裔と、舞踊を修める當麻の末裔。角折リと頭角、人と鬼とがここに交錯する。


「一差し、俺と舞うか?」


 狭霧は扇を開く。そこに描かれたのは牡丹の花だ。


「ここで鬼が舞うならば――――」


 舞が文字通りの舞でないことを、朝日は直感で理解している。それは舞の形を借りた戦闘だ。手の内に気魄が集中する。朝日の体が抜刀の姿勢を取るのもむべなるかな。桜木は無手であっても、己の気魄を凝集させて白刃を作り出せる。


「――――今私が斬るッッ!!」


 頭角が闘争を求めるならば、角折リの返答は一つ。腹腔に力を込め、気魄と共に朝日は一喝する。彼女の大音声に、周囲の生徒たちが感電したかのように跳び上がった。


「それも一興」


 狭霧だけはまったく動じない。


「続きはまた、叢雲の迷う月夜にでも」


 くるりときびすを返し、狭霧は隣にあの少女を連れて去っていく。


 朝日はその背中を睨みながら見送る。狭霧は彼女の視線を無視していたが、少女は時折振り返り朝日を睨み返していた。かくして、初城台における桜木と當麻の初戦は、双方共に手を出すことなく終わる。朝日は最後まで、狭霧の後ろ姿から視線をはずさなかった。おかげで彼女は、周りが完全に退いているのに気づかなかったのであった。



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