6月第3日曜日 父の日・後編
さすが
最初は照れながら控えめに歌っていたのだが、ギャラリー(一人)の声援に押され、だんだんと本気の歌唱モードに切り替わっていた。そうでなくとも女性のキーはある程度声を張らないと難しい。ハイトーンに定評のある章灯とはいえ、なかなかに厳しい戦いだったのだ。
「
結局、遼が聞き飽きる前に章灯の方が根を上げた。
「しかたないなー」
遼の方は至極御満悦である。
テーブルの上のミネラルウォーターで喉を潤し、一息つく。
「遼はヴィヴァーチェが好きなのか?」
『ミュジカ・ニーニャ』の登場人物はもちろんラルゴとヴィヴァーチェだけではない。
幼馴染のアレグロに双子のフォルテとピアノ、それから、物知りなレントおじさんがレギュラーメンバーだ。
特に、アレグロはヴィヴァーチェとは真逆で、ちょっと無口でボーイッシュな女の子である。ボーイッシュな恰好が好きな遼であれば絶対にこっちだろうと思ったのだが。
「うん、好き!」
「こっちの、アレグロじゃなくてか?」
「うん。アリーも良いけど、やっぱりヴィーの方が好き! だって、可愛いし!」
元気いっぱいにそう言ってから、遼は少し表情を曇らせた。
「……やっぱりおかしい?」
「おかしい? 何でだ?」
「だってね、みんなそう言うんだ。はるはアリーの方に似てるから、って」
「ほぉ」
「似てる人を好きにならないとおかしいの?」
「おかしくはないと思う。だってそれだったら、世の中のパパママはみーんな双子みたいにそっくりになっちゃうだろ」
そんな極端な話じゃないのだが、4歳児にならこれくらいじゃないと伝わらないだろう。
「遼のパパとママってそんなに似てるのか?」
「うーん……。似て……ない……かも」
「だろ? だから、遼がヴィヴァーチェを好きだって、全然おかしくねぇって」
「そうだね」
そう返す遼の顔は何だかまだ強張っている。
「なぁ、はる……」
「――章灯君」
被せ気味に名前を呼ばれ、章灯は「おう?」と気の抜けた返事をした。
「あの、あのね……」
そう言いながら、もじもじと身体を揺する。
「はるのパパって、変なの?」
――ついに来たか、と章灯は思った。
変なの?
そう聞かれれば、うっかり「うん」と答えてしまいそうな男だ。小林千尋というやつは。
しかし、女装趣味というのが、声高に「変だ!」と糾弾されるべきものなのかというと、どうなんだろうという思いもある。だって個人の自由じゃないか。何を着たって。何が好きだって。
ただ、世間一般で、受け入れられ難いものだということも何となくわかる。しかし、それでは『世間』とは何か、という話にもなる。
少なくとも自分達の回りでは彼を『変』と評価しつつも、そこに彼のその趣味を丸ごと否定する者はいない。
それが好きなら好きにしろ。
ただし、俺に迷惑をかけてくれるな。
つまり、そういうことである。
「――変だよ」
それをどうマイルドに伝えたものかと頭を悩ませている章灯の背後から、凛とした声が聞こえた。
「アキ?」
「変だ、遼のパパは」
追い討ちをかけるように重ねられたその言葉に、遼はしゅんと項垂れた。
仕事を終わらせたばかりらしく、彼女の足元には依頼人に渡すものだろう茶封筒の束が詰まった紙袋が置かれている。
「でも」
そう言いながら遼の前に立つ。そしてゆっくりとしゃがみ、目線を合わせるように首を傾げた。
「変じゃない人なんていない」
「え?」
「誰にでも変なところはある」
「
「……ある。……遼には絶対に内緒だけど」
「章灯君にも?」
くるりと後ろを向いた遼の、そのくりくりとした瞳でじっと見つめられ、章灯は少し背中をのけ反らせた。
「……ある、な。そういや……。でも、遼にはぜぇ――ったい内緒にするけど!」
そう答えると、晶はその『変』が何に該当するか察したようで、うんうんと頷いている。
――何だよ! ホラーが苦手だって悪かねぇだろ!
「そうなんだ……」
遼は呆けた顔でそう呟いた。
「皆、変なところは持ってる。だけど、普通は隠す。だって、他の人から見れば『変』なんだから。千尋――パパはそれを遼にも見せてくれたってだけだ」
「見せてくれたの?」
「そう。遼は特別だから。だけど皆には内緒だろ? だったら、遼もそれを守ってやらないと」
「でも、描いちゃった……。みんなの前で……」
どうしよう、と遼は涙を浮かべ、再びもじもじと身体を揺すり始めた。晶はそんな彼女の頭を優しく撫でる。
「だったら描き直せば良いじゃないか」
「でも……」
それよりもさらに小さな声でぽつりと、おどうぐが無いもん、と言って俯いた。
一応、遼のためにと一応は簡単なお絵描きセットくらいは常備してある。とはいってもB4サイズのスケッチブックに12色の色鉛筆程度だが。保育園のような水性マーカーや絵の具なんてものは無い。
「無いものは仕方がないだろ」
そう窘める章灯に、晶はぱちんとウィンクをしてみせた。その表情にどきんと胸が高鳴る。
畜生、何でこんな時にお前は……!
「もし遼がパパのためにもう一回描きたいなら……、こういうものがあるんだけど」
そう言って、足元の紙袋の中から使い込まれた絵の具セットを取り出した。
「えのぐ!」
「
「うん!」
「クレヨンとマーカーもある。これなら描けるな?」
優しく語りかけると、遼はさっきまでの沈んだ表情を一転させた。ごしごしと頬の涙を拭い、ずりずりと尻を移動させて章灯の膝から降りた。
「晶君、ありがとう!」
早速描く! と意気込む遼を「でももう遅いから、明日」と制す。
当然遼は抵抗した。確かにこれから描き始めれば、消灯時間が遅くなってしまう。それでも、せっかくいまやる気になっているのに、と章灯も残念に思わないでも無かった。晶はそんな章灯の視線をしっかりと受け取ってから、いま描きたいとぐずる遼と向き合って言った。
「明日、朝から付き合ってやるから」
低く落ち着いた声と、ファン垂涎ものの微笑み(最近では『王子スマイル』などというベタな名前が付けられているらしい)で、遼は一瞬きょとんとした顔をしてから、こくん、と頷いた。
「晶君、何時に起きる? 大丈夫?」
「絶対に遼より先に起きる。任せろ」
「だな。アキはすっげぇ早起きだもんなぁ」
感心したように頷くと、なぜか晶は頬を赤らめた。
「はるるん! ありがとう~!」
翌朝、晶から「大丈夫だから迎えに来い」という連絡を受けた千尋は、遼から渡された『もの』を見るなり、親父の威厳を保とうとぎりぎり涙を堪えた状態で愛娘をぎゅうと抱き締めた。
その手には『おとうさん いつもありがとう!』というタイトル付きの紙がある。それは、昨日行ったスーパーの休憩スペースに置いてあった父の日用の似顔絵台紙で、早朝から晶と共に描き上げた力作である。
そこに描かれていた父の姿とは――。
「まぁ、丸く収まって良かったな」
「収まったんでしょうか……。あれで……」
遼を肩車した状態でにこやかに手を振る千尋を見送った後で、晶はその場に呆然と立ち尽くしたまま章灯へ電話をかけていた。
「え? だって遼が自分から帰るって言ったんだろ?」
「そうなんですけど……でも……」
「でも? 何だ?」
「結局、遼が描いたのは『女』の千尋だったんです」
「――はぁ?」
「写真に撮ったので、後で画像送ります。赤いワンピースでした」
「赤い……ワンピース……」
「たぶん、保育園で描いたのと同じやつかと」
「描き直した意味……」
「無かったですね……」
「ねぇ、はるるん。パパの絵なんだけど……」
肩に遼を乗せたまま、千尋は彼女に尋ねた。
「赤いお洋服だったよね。あれって……」
「夜、パパが着てたやつ!」
「あ、やっぱり……?」
父の日の日似顔絵を描いてくれたのは嬉しいのだが、郁の話では『女装した自分』を描いてしまったことで今回の家出事件に発展したのだと聞いていたのである。
そして晶から、それを描き直したという報告を受け、意気揚々と迎えに来たのだ。それなのに、渡された似顔絵はやはり女装した自分なのだった。
「あのね、はるはパパが女の子でも大丈夫!」
「へぇっ?」
「それにね、女の子のパパも、とっても可愛かったよ!」
「そ、そう……?」
「うん! ヴィーみたいだった!」
「えぇ~? 本当~? パパ照れちゃうなぁ~」
「だから、ちゃんとみんなにはナイショにするね!」
「えっ? う、うん。ありがと……? あの、はるるん、向こうのお家で何があったの……?」
「あのね、みんな、ナイショの『変』があるんだって。晶君が言ってたの。女の子のパパは、パパのナイショの『変』なんでしょ?」
成る程、そういうことか。
「ありがとうね、はるるん。パパ、たまーに、女の子に変身するけど、内緒にしててね」
「任せて!」
晴れやかな顔で胸を叩く遼を肩から下ろし、千尋は正面から彼女を強く抱きしめた。
晶君、ありがとう!
ライブ、めっちゃ楽しみにしてるね♪
新作のワンピ、楽しみにしててね♪
そしてその高揚感のままに送った上記のメッセージは、
『しない』
の一言で片付けられてしまったが。
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