6月第3日曜日 父の日・中編

「そこでなぜウチなんだ」


 と言いつつも、可愛い姪の逃げ場所であることを嬉しく思わないでもない。


「お祖父ちゃん家は色々教育に悪そうだから」


 育ての親をさらりと下げ、郁はうふふと笑った。


章灯しょうとさんにも相談しないと」


 とりあえずそう言ってみる。あの章灯がNOと言うわけはないし、もちろんあきらとしても可愛い姪なのだから断るつもりはない。ないのだが、ここであっさりと承諾してしまうのは癪に障る。かおるは「もちろん、そうよね」と目を伏せてから――、


「だから、先に許可は取っておいたわ」


 と言って、無料通話アプリ『COnneCTコネクト』の画面を見せた。

 とうとう章灯も(かなり)遅ればせながらスマートフォンを購入したのである。そこには、晶の了承を得さえすれば、自分はもちろん構わないという旨のメッセージが表示されている。


「……随分手回しの良いことで」


 そういえばこいつはそういうやつだったと、晶は憎々し気に呟いた。



 出先で章灯からの着信があった。

 マナーにして鞄に入れていたために気付かず、「晶君、電話だよ」と遼に指摘されてから慌ててそれを取る。鞄はちょうど遼の耳の近くにあったため、振動音が聞こえたのだろう。


「――おぉ、アキ。郁さんから聞いたか? 遼、そっちにもういるのか?」


 電話口の声はかなり焦っているようだった。確か今日は来週に放送されるクイズ番組の収録があったはずだ。恐らく、それが終わったタイミングでかけてきたのだろう。


 彼の声は、何年一緒にいてもつい聞き惚れてしまう。歌声はもちろんのこと、こうやってただしゃべるだけでも。出会った頃はその歌声にのみ惹かれていたはずなのだが、気付けば平常時の声にもかなりやられてしまっている自分がいる。


 ――つくづく恐ろしい人だ。


 そんなことを思いつつ。


「はい。いま一緒に夕飯の買い出しを」


 そう返してから視線を落とす。遼は晶の腰のチェーンをしっかりと握っている。手でも、シャツの裾でも、こういった装飾品の類でも、何でも良いから絶対に『何か』を掴むこと。それが2人で出掛ける時の『約束』である。遼はそれをしっかりと守っていた。今日はこのチェーンをじゃらじゃらと振りながら歩くことに決めたらしい。


「そうか。気を付けて帰れよ。俺ももうすぐ終わるから」

「章灯さんも気を付けて」

「わかってるって。電車かっ飛ばして帰るから」


 ニヒヒ、と笑ってから「そんじゃ」と言って通話は途切れた。


 さて、今晩はどんな野菜料理にしてやろうかと売り場を睨み――やはり今日くらいは少し甘やかしてやるかと、その視線をカボチャへと移した。



 幸運なことに、イベントやら撮影やらがたまたま無い週だった。


 章灯は自分がMCを務める朝の情報番組と深夜の音楽番組に、あとはバラエティー番組のナレーションの収録くらいしか仕事がなかった。

 晶も晶でスマートフォン向け恋愛ゲームアプリの曲やら、半ば強制的に面倒を見ることになってしまった男性アイドルグループ(しかも全員30代)のデビュー曲、そしてもちろん自分達の新曲作りのみである。自分達のもの以外は正直気が進まないのだが、ライブ以外のイベントや撮影に比べればまだ気が楽だ。


「晶君、ちょっとだけ向こう見てきても良い?」


 会計を待つ列に並んでいた時、控えめに腰のチェーンを引っ張られた。視線を落としてみると、遼がこちらを見上げながら出入り口近くの休憩スペースの方を指差している。


 そこには2人掛けのテーブルセットがいくつかと、紙パック飲料の自動販売機に手のひらサイズのぬいぐるみが詰まったクレーンゲーム、それから懸賞チラシやら簡単レシピ、講演会のお知らせが陳列されたワイヤーラック、お客様アンケート等が置かれた長テーブルといったものがところ狭しと並べられている。

 その日は父の日間近ということで、自由に似顔絵が描ける特設スペースが設置され、風船配りの店員が笑顔を振り撒いていた。


「良いよ。ただし、そこからは絶対に移動しないこと」


 きつく言い付けて優しく背中を押すと、遼の目当ては配っている風船だったらしく、店員のもとに駆けていった。やがて会計の番が来て、商品をスキャンしている間もチラチラと様子を伺っていると、遼は女性店員から青い風船を手渡されていた。


「お待たせ」


 会計を済ませた晶が休憩スペースに行くと、遼は約束通りそこにいた。クレーンゲームの正面に立って、中のぬいぐるみをじっと見つめているようだった。 


 章灯さんなら取れるかもしれないな、などと思いながら近付く。生憎こういうのは苦手で――と呟くと、遼はただそこに立っているというだけで、クレーンゲームの中にはさほど興味が無いようだった。その証拠に彼女の視線は筐体ではなく、手元にある一枚の紙に落とされていた。



「たっだいまぁ~」


 上機嫌の章灯が手土産を片手に帰宅した。

 きちんと揃えられている2足の靴に視線を落とす。遼の来訪に合わせ、わずかにある女物は一番上の棚にしまわれている。だからそこには大小2足の『男物』のスニーカーが並んでいるのであった。


 遼が自ら男物の衣服を選ぶようになったのはいつからだっただろう。


 彼女がまだ郁の腹の中にいて、性別もわからなかった頃はどちらでも対応出来るようにと、薄いクリーム色の肌着が大量に用意された。

 やがて、どうやら女の可能性が高いとわかってからも、もしかしてということがあるために、産まれるまではそれらしい色を買うことはしなかった。


 そして遼が産まれ、女児であることが確定してからは、彼女のワードローブにはピンク色が飛躍的に増えた。


 少なくとも3歳くらいまでは、髪も長く伸ばしていたし、大人の勧めるものに異を唱えることもなかった。

 しかしある日――それは幸運にも七五三の記念撮影を終えた後の事だったが――その髪をキッチンに置いてあった料理用のハサミでばっさりと切ってしまったのである。長さの揃わない不恰好なおかっぱ頭のままでいるわけにもいかず、千尋と共に彼の行きつけの美容室に行ったところ、実に晴れやかな顔で言ったのである。


「おとこのこみたいにしてください!」と。


 確かに最早選択肢はショートしかない、という長さではあった。

 しかし、それでも女児向けのヘアスタイルが不可能なわけでもなかったため、千尋と女性美容師が2人がかりで説得を試みてみたものの、遼は頑として譲らなかった。あまり刺激しては意固地になって坊主にするとまで言い出すかもしれないぞ、という店長の助言により、辛うじてショートボブと呼べなくもないヘアスタイルに落ち着いたのである。


 そしてその日を境に、女の子らしい服装を一切拒否し始めたのだった。

 郁に似ているということは、その双子の片割れである晶にも似ているということだ。だから、つまり――、


 似合うのだ、男児の恰好が。

 さらさらと風になびく短い髪が。


 AKIの身内だから、という理由で、アイドル事務所のスカウトマンが来たこともあるし、その逆で、素性を知らずにスカウトしてみたらAKIの身内だった、というパターンもあった。しかしそのどちらも遼が女児と知ると目を向いて驚く。それほどまでにしっくりと『男児』だったのである。


 両親はもしや心と身体の性別が異なるのではないかと心配した。だとすれば、自分達は我が子の望まないことをし続けていたのかもしれない。そう思い、話し合いの場を設けてみたものの、遼自身は自分の事をしっかりと『女児』として認識していたのである。その上で男の子の恰好をしたいのだと。


 こうなるともう何も言えない。少なくとも千尋には。そしてもちろん、晶にも。


 幸いなことに――というのか、保育園のお友達の中には遼と同じようにボーイッシュな女の子が数名おり、その逆に髪を伸ばしている男の子もいた。正に十人十色なクラス内で遼が悪目立ちすることはなかったのである。


「ただいまぁ~」


 再びそう言ってリビングのドアを開ける。玄関にまで漂っていたカレーの香りはより一層強く彼の鼻腔を刺激した。遼がいるということは甘口だな、と思いつつ、部屋へと入った。


「お帰りなさい、章灯さん」

「章灯君、お帰りぃ~」


 晶はソファに座り、自身の膝の上に遼を乗せた状態で少し照れたように笑った。そして遼の方はというと、精一杯背中を伸ばして大きな絵本の上からひょこりと顔を出している。章灯が帰ってきたのが嬉しかったのか、足をばたつかせはじめ、晶から「遼、それは痛い」と窘められていた。



「章灯君、おうた歌ってー」


 夕食後、ラグの上に足を投げ出して座っていた章灯の膝の上に、遼がちょこんと座った。章灯の胸を背もたれにし、側に置いてあったリモコンに手を伸ばす。

 しかしその状態では届かないことに気付き、「取ってぇ」と甘える。どうやらそこから降りる気は無いらしい。

 苦笑しながら「はいよ」と言って手渡すと、遼はそれを使ってテレビの電源を切った。


「何歌えば良いんだ?」


 リビングは余計な音がなくなり、しんと静まり返っている。さっきまでは晶もいたのだが、作りかけの曲を仕上げてしまいたいと言って地下に降りてしまったのだった。


「『ミュジカ・ニーニャ』!」


 そう言いながらテーブルの上にあるDVDを指差す。


「いま人気だよなぁ、ミュジカ」


 パッケージを手に取り、まじまじと見つめる。『ミュジカ・ニーニャ』はシャッポミミズクのラルゴと人間の女の子ヴィヴァーチェがさまざまな事件を解決していくという推理アニメである。事件といっても幼児向けのアニメなので血生臭いものではなく、大体が大なり小なりの失せ物捜索ではあるのだが。


「オープニングか? それともエンディング?」


 主題歌は出演している声優がその役のまま歌っており、オープニングはヴィヴァーチェ役の花山あづさが、そしてエンディングはラルゴ役の氷室千秋が担当している。だから章灯は、出来れば、エンディングの方でありますように、と願った。


 パッケージの中のヴィヴァーチェはトレードマークの猫耳に肉球付きのロンググローブ、そして尻尾付きのフリルエプロンを纏い、こちらに向けて可愛らしく片目を瞑っている。

 その恰好から読み取れる通り、ヴィヴァーチェは大の猫好きで、興奮すると語尾が『~にゃん』になるのだ。

 そんな彼女が歌うわけだから、歌詞についてもお察しである。誰かに似ている。ふとそんなことを思う。


 ――頼む、『ラルゴリズム』の方でありますように!


「えっとね、『ヴィーのにゃんにゃん行進曲マーチ♪』!」


 見た目とは裏腹にガーリーな曲をチョイスされ、章灯は快諾しつつ、遼には気取られないように小さくため息をついた。

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