The Event 7(19××~20××)

6月第3日曜日 父の日・前編

「家出するんですって」


 困り顔のかおるの手を引き、頬をぱんぱんに膨らませたはるか山海やまみ家のインターフォンを鳴らしたのが、昨日のことである。


 あらかじめ連絡を受けていたあきらは、他ならぬ姉の――というより姪の頼みとあらば、ということできちんと『身仕度』をし、2人を出迎えた。


 突けば破裂しそうなほどに膨らんだその頬は、小さく可愛らしい唇できっちりと栓をされているために萎むことはない。



 今年4歳になる遼は小林夫妻の一人娘である。


 ぱちりとした大きな瞳にキリリとした眉毛。雪のように白い肌とは対照的にぷくりとした唇は色素が濃い。例え男児用のオーバーオールに青と緑のボーダー柄ポロシャツ、そしてギリギリ女児ととれなくもないショートボブのヘアスタイルであることを差し引いても、まごうことなき美少女である。

 そして、その隣に座っている郁も、三十路を迎えても尚、その美貌に衰えはない。そしてもちろん、その向かいに座る晶も同様である。


 とりあえず遼のためにと作っておいたプリンを差し出すと、ようやく頬の空気を抜き、礼のつもりなのかぺこりと頭を下げた。


 それをぺろりと平らげると、ようやく落ち着いたのか「美味かったか」という晶の問いに対して笑みを返す。


 幾分かリラックスした様子に大人達はホッと胸を撫で下ろした。



 見つかっちゃったのよねぇ。


 持参したお気に入りのDVDを流すと、遼は足をばたつかせながら機嫌良く画面に見入っている。


 郁は自分の分のプリンを空にしてから声を潜めてそう切り出した。


 それはさらに数日前にさかのぼる。

 好んでボーイッシュな出で立ちをしている遼だが、お洒落そのものには興味があるようで、両親のクローゼットを度々チェックしていたのだという。子どもと違って毎シーズン服のサイズが変わるわけでもないので、その中はそうそう変化などしないのだが、それでもやはりそこは『大人の空間』であり、彼女の興味を強く引いていたのだ。


 父である千尋の女装趣味については、さすがに教育上好ましくないだろうと遼には内緒にしていた。彼自身、娘の前では頼もしい父親として振る舞うつもりだったらしいのだが、生まれ持った性質はどうにも変えがたく、なよなよした物腰は健在である。それでも精一杯、彼の考える『男らしさ』を前面に出していたのだという。


 彼が女物に袖を通すのは、大ファンを公言する『ORANGE ROD』のライブでのみ。その度に「またナンパされちゃったー」とまんざらでもない様子で報告してくるのだが、それも頷けるほどまぁ可愛らしく仕上がるのである。悔しいけれど、20代と言っても通用するだろう。


 大人用の収納家具がおませな女児にとって宝箱でしかないことは、遼が2歳の頃に起こした『郁のドレッサー半壊事件』で痛いほど経験した。だから千尋の衣装に関してはかなり厳重にしまい込んでいたのだという。


 それなのに。

 ファンクラブ限定イベント。

 限定200名のシークレットライブ。

 場所は都内の隠れ家風ライブハウス(とはいえすぐにバレるのだろうが)。


 そんな激レアなイベントを、もちろん義兄などというコネクション無し(さすがに晶が首を縦に振るはずがない)に引き当ててしまったのだ。

 あまりの興奮に仕事帰りのスーツ姿のまま晶に抱き付いてそれを報告した時、章灯しょうとよりも先に義父である湖上こがみの拳が飛んだ。

 突然のことに呆気にとられていた晶は、酷い、と足元にしゃがみ込む千尋を蹴り飛ばしたあとで、いますぐ辞退しろと冷たく言い放った。

 章灯は「女装してても完全アウトなんだからな」と厳重注意した上で、帰宅した父が頬を腫らしていたら妻子が心配するだろうと保冷剤を渡す。それを受け取りつつ「章灯さん、やっさしぃ~い」と返す辺り、反省も何もしていないようだったが。


 しかし純粋な運の強さで当ててしまったものを身内だから辞退せよというのは、さすがにアンフェアではないのかと章灯に諭され、晶は渋々了承した。千尋が彼らの熱烈なファンであることには変わりなく、会費も当然払っているのだ。


 そして帰宅後、2人が寝静まったを見計らって、ひいきにしているブランド『PINK POISON』の通販サイトから、『勝負服』を大量に購入したらしい。


 ――で、それが到着したのが一昨日のことなのだと、郁は言った。


「いつもはね、絶対に家では試着なんてしないのよ」


 晶の淹れたアイスコーヒーに口をつけ、郁は何度目かわからないため息をつく。

 晶は、砂糖もミルクも入らない真っ黒な液体が、あっという間に減っていくのを恐ろしいものを見るような目で見つめた。コーヒーは砂糖もミルクもたっぷりと入らないと飲めない。いや、『そうまでしないと』というのは語弊がある。彼女はそういう状態のコーヒー(と呼べるのかは別としても)をこよなく愛しているのだった。


「だけど、色々嬉しすぎたんでしょうね。シークレットライブが当たったことも、久し振りの『超』一目惚れらしいワンピースも」


 さすがに2人が起きている時間は我慢した。


 郁に対しては別に内緒にしているわけではなかったのだが、最近は遼を寝かしつけるついでに寝てしまうのである。だから、どちらかだけが起きているというケースはほぼ有り得ないのだった。


 娘の母親という肩書きが追加されてもまだまだ恋愛の対象であり続ける最愛の妻に、その最愛の妻から産まれた天使。その2人の寝顔をさんざん堪能してから、千尋は納戸に置いてあった段ボールを居間へと運んだ。


「居間に?」


 眉間に深い皺を刻み、首を傾げながら聞き返す。


「お前のトコって確か――」


 確か居間を通らないとトイレに行けないんじゃなかったか?


 それを言う前に郁は頷いた。


 小林不動産が所有する3LDKのマンションは、中央のリビングで左右に分断されており、右側には各自の部屋、そして左側にはバストイレキッチンという配置になっている。遼が小さいうちはその方が安心なのではないか、という判断によりそこを借りているという状況である。


 つまり、今回はそれが仇になったと、そういうわけなのだった。


「せめて自分の部屋でやれば良かったのに……」


 そう頭を抱える郁に、晶も「馬鹿か、あいつは」と呟く。


 確かに居間には大きな姿見がある。


 元々は大人達が出勤前に確認するためにと玄関に置いてあったのだが、最近になって遼がテレビを見ながらダンスをするようになり、居間に置いてほしいとせがんだらしい。自室にも姿見はあるものの、どうせなら余裕を持って全身を映したい。そう欲を出した結果だった。ついでに言うと、ごくごく控えめなヴォリュームではあったが、ORANGE RODのアルバムをかけていたのもまずかったかもしれない。


「パパ――……?」


 鼻唄混じりに上機嫌でくるくると回っていた千尋は、抜群のタイミングで目が合った遼に「なぁ~に?」と答えた。


 ――そして気付いたのである。あ、俺いま女装中だ、と。


 それでも半分夢の中にいた遼は寝ぼけ眼を擦りながら「おしっこ」と呟き、すたすたと居間を突っ切ってトイレへと向かった。自分の問い掛けに答えた謎の『女性』について、例えば二度見するだとか、「あなた誰?」と尋ねることもなかった。「パパ?」と聞いて「何?」と返したのだ。ならばそれはパパである。それはもう遼にとって疑いようもない事実なのだ。


 千尋は遼が用を足している間に急いでワンピースを脱ぎ、メイクをする前で本当に良かったと冷や汗をかきながらそれを段ボールに突っ込むと、ソファに投げ捨ててあった部屋着を纏った。

 そして何食わぬ顔でソファに座り、新聞を広げる。トイレから出て来た遼は一瞬不思議そうに首を傾げたが、やはり千尋に先ほどの人物について問いただすことも無く、「パパ、もう寝よう」と彼の手を取った。


 良かった。これなら。


 千尋はそう思いながら「ちょっと待って」と新聞を畳み、それを段ボールの上に置いて郁のいる寝室へと向かった。


 そして翌朝、誰よりも早く起きて段ボールを片付け、素知らぬ顔で朝御飯を作ったのだという。


「だったら何で」


 晶は眉根を寄せたまま腕を組み、画面に見入りながら挿入歌を口ずさみ始めた遼に向かって顎をしゃくって見せた。


 だったら何で家出という話になるのだ。


 夢か何かだと思ったにせよ、遼は遼なりに納得しているようだった。なのになぜ、母親の手を引いて叔母――いや、遼は叔父だと思っているわけだが――の家に避難してきたのか、ということである。


「それがね――」


 その日は何事もなく始まった。


 いつものように千尋の運転で保育園に行き、帰りは郁が迎えに行く。

 そうして、平穏無事に一日が終わるはずだったのだ。


 パパ、お仕事頑張ってね。


 そんな言葉をかけられ、お世辞にもたくましいとはいえない力こぶを作ってそれに応える。担任の保育士が「今日、父の日の似顔絵を描くんです。楽しみにしていてくださいね」と言って、千尋は「はい!」と元気よく返した。


「と、いうことは――」


 さすがにその後の展開は晶にも読めた。


 さすがに鈍感すぎるでも察しがついたらしいと読み取った郁は、ここ一番の疲れ切った表情で頷いた。


「上手に描いてくれたわよ。、ね」


 大人達が揃って深いため息を吐き出す中、当の本人は呑気に振り付きで歌を歌っている。


 4歳にしては――。


 晶はその無邪気な歌声に耳を傾けながら思った。


 ――4歳にしてはかなり上手い。

 やはり母の孫だ。とも。


 憧れて止まない『天才』の血を引いているという事実を、いまさらながら実感すると共に――、


 もしかしたらただの『身内びいき』かもしれないな、と心の中で苦笑した。



 そしてその後はもう、大体の想像は出来たのだが――。


 様々な家庭環境を考慮して、あえて『父親の似顔絵』ではなく、『好きな人の似顔絵』というテーマだったらしいのだが、それくらいの子どもの『好きな人』などテレビの中のキャラクターか、保護者が大半である。

 そしてもちろん保育士の方で巧妙に『保護者』の方へ誘導して描かせるので、最終的には父親か母親、もしくは祖父母辺りの似顔絵が出来上がることとなるのだ。


 それに、さすがにそれくらいの年になると、もうすぐ父の日だということも例えば母親と共に立ち寄ったスーパーの吊り下げ広告などから気付いているのである。

 また、そこでは、ちょうど彼らの目に留まるよう、低い長テーブルの上に『おとうさんのにがおえをかこう!』などといった用紙も準備されていたりもするため、この時期に描く『人』=父親と刷り込まれている園児も多かった。


 その御多分に漏れず――というわけではないものの、遼は数日前から「パパの絵を描く!」と張り切っていたらしい。それは恐らく、千尋の涙ぐましいアピールの賜物だろう、と郁は冷静に分析していたが。


 保育士の話では、とにかく遼は張り切って描いたのだという。途中、お友達から「はるちゃん、だれを描くの?」と尋ねられると、それはもう元気良く「パパ!」と答えながら。

 そのため、その周りに座っていた子達は、遼が自分の父親を描いているということを知っていた。


 だから――なのだ。


 だから、描き上がったその絵を見て、お友達の一人が声を上げたのだ。

 悪いことに、なかなかに影響力のある――それはつまり、ただ声が大きいというだけなのだが――男の子だったという。


「はるか、おとーさんを描くんじゃなかったのかよ!」と。

 それはそれは元気よく。一切の悪気も無く。


 遼もそれに返した。


「そうだよ! これ、パパだよ!」と。

 それはそれは元気よく。一切の迷いも無く。


 腰まである長い髪に、『PINK POISON』の新作ワンピース姿の。――最も、遼が描いたのはただの真っ赤なAラインワンピースだったが。


 その後は――言わずもがなだ。

 真正面から否定されたのである。


 おとーさんは女じゃないぞ。

 はるか、下手くそー。

 お姫さまが描きたかっただけだろ。

 ちがうよ、これ、はるちゃんのおかーさんだよね?

 そうだよ、はるちゃんのママ、髪が長くてきれいだもん。


 否定する声も擁護する声も、遼にとってはそのほとんどが間違いだ。


 だって昨日のパパは女の人だった。

 絵はいつも上手って皆から褒められているし、お姫さまなんか描くつもりも無い。

 ママなんて描いてない。ママの絵は前に描いたもん。ママは確かに髪が長くてきれいだけど。それだけは本当だけど。


 保育士が慌てて止めに入るまで、遼は泣きながら「パパだもん! パパを描いたんだもん!」と繰り返していた。


 郁が店長を務める晶の店『turn off the love』に保育園から着信があったのは正午を少し過ぎた頃だった。

 私共の監督不行き届きで――と何度も謝罪の言葉を述べながら、学年主任の保育士から、遼が興奮しすぎて鼻血を出し、給食も全く受け付けなくなってしまったという連絡を受けたのである。


 郁が紗世に店を任せ、遼を迎えに行くと、彼女は泣き腫らした顔で膝を抱えていた。背中を擦っていた保育士が至極申し訳なさそうな顔で会釈をし、郁もそれに応える。


 母親が来たことで安心したのか、遼は少し食欲が戻ったようで、『おばあちゃん先生』と呼ばれ親しまれている園長先生と応接室で給食を食べることになった。いつも朗らかで聞き上手な園長先生は園児達から大人気である。遼ももちろんこの『おばあちゃん先生』が大好きだった。何やら楽しげに会話をしながら食べているのを見て、郁はホッと胸を撫で下ろす。そしてその隣の園長室で保育士から事の顛末を聞き、がくりと肩を落とした。


 車に乗り込み、家へと向けて走らせたところ、遼がぽつりと言ったのだという。


「晶君のおうちに家出する」と。


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