♪25 ダメですか?

「じゃレコーディングルームに行こうか。英梨ちゃん、良いかな?」


 小出町こいでまちが声優とスタッフ達に囲まれている千石英梨に声をかけると、彼女ははち切れんばかりの笑顔で元気よく「はぁいっ」と答えた。そして自分を取り囲んでいた人々に頭を下げると、軽い足取りで小出町の――いや、章灯しょうとのもとへと真っ直ぐに駆けてくる。


「すみませぇん、お待たせしちゃってぇ。小出町先生、こちらの方は?」


 英梨は右手を胸の辺りに置き、呼吸を整えるような素振りをした後でそう尋ねた。こんな短い距離、例え全力疾走したところで息なんか切れるはず無いというのに。

 かくして、小出町は再び『昌明』を紹介することとなった。


「僕が押しますよ」


 レコーディングルームへと向かう廊下を歩く。あきらの車椅子は、介助役を買って出た章灯が押している。


 下手に隣を歩かれれば、顔を覗き込まれないとも限らない。そう思えばひとまず安心と言ったところなのだが、どこも悪く無いというのにあたかも重病人でもあるかのごとく慎重にゆっくりと押してくれる章灯を思うと胸が痛んだ。自分で押しますと言いたかったが、さすがに声を出せばすぐにばれるだろう。だから晶は複雑な思いでじっと座っていた。


「――あぁごめんごめん、鍵をさっきの部屋に置いてきちゃった。すぐに取ってくるから、悪いけどここで待ってて」


 レコーディングルームに辿り着いた時、ポケットをまさぐった小出町が、しまった、という表情で頭をかく。章灯は当然のように「取りに行きましょうか」と申し出たのだが、「たぶん口で説明してもわからないと思う」と返され断念した。一体どこに置いたというのだろう。


 人通りの少ない廊下に3人、しばらくは無言で立っていた。沈黙を破ったのは英梨である。


「ほんっと、光栄ですっ! 憧れのSHOWさんと一緒に仕事が出来るなんて!」


 ぴんと伸ばした指先を顔の前で軽く合わせ、英梨は弾んだ声を上げた。二人に背を向けている晶には彼女がどんな表情や仕草をしているのかはわからないが、その声のトーンからは嬉しくて仕方がないといった感情が溢れまくっていた。さすがに色々な感情に疎い晶でも、彼女が章灯に大なり小なりの好意を抱いていることは推測出来る。


「そう言ってもらえると嬉しいよ。僕もまさかトップアイドルさんと仕事が出来るなんてね」


 章灯はハハハと軽く笑った。これは間違いなくリップサービスだ。まだ『僕』のままの一人称にホッとする。


 章灯さんは自分のことを好きだと言ってくれるけれども、現役のアイドルと真っ向から戦って勝てる気はしない。庇護欲を煽る華奢な身体に可愛らしい声。笑顔泣き顔怒り顔どれをとっても完璧と言わざるを得ない器量としなやかな仕草。自分は一体何敗すれば良いのだ。白旗なら戦う前から握っている。


 そう考えると顔が熱くなる。じわりと涙が込み上げてきて、晶は慌ててそれをぬぐった。


「あの、SHOWさん」

「出来れば『山海やまみさん』の方で呼んでもらえるとありがたいかな。ほら、SHOWだとそっちのスイッチ入っちゃうから」

「あっ、すみません! 私ったら気が利かなくて!」

「いやいや、そんな頭下げないで! 僕が下手なだけだから、そういうの」


 あぁきっとお辞儀合戦になっているな、と晶は思った。こういうやり取りは挨拶に行った楽屋内で良く見る光景である。


「……あの、『章灯さん』じゃダメですか?」


 何度目かの「すみません」「こちらこそ」の後で、至極言いづらそうに英梨が伺ってきた。思わず肩がぴくりと反応する。そのわずかな揺れが、ハンドルを握る章灯に伝わってしまっただろうかと彼女は気が気ではない。


 良いじゃないか別に。


 そう思う。


 たかが下の名前で呼ぶだけだ。コガさんもオッさんも、それに自分だって出会った時からそう呼んでる。あぁでも白石しろいしさんやかおるは苗字で呼んでいるけど。


 どう返すのだろう、章灯さんは。

 断る理由なんかない。

 だけど、それは自分にとってはあまり好ましくないことに思えてしまう。

 だってこんなに胸がざわつくのだ。


 どう返すのだろう、恋人である『自分』がいない時の章灯さんは、一体――。

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