5月第2日曜日 母の日・中編

「はい、湖上こがみで――、って、兄ちゃんかよ。こっちにかけてくるなんて珍しいな」


 電話に出たのは上の弟の隆助りゅうすけだった。記憶が確かなら、今年16歳のはずだ。


「おい、隆。お袋はいるか?」

「母さん? いま買い物に出てるけど。何? 母さんに用?」

「まぁ――、用ってほどでもねぇんだけど」


 実家にかけたのなんてもう何年ぶりだろうか。弟妹達の携帯にかけることは度々あるのだが。


「はっはぁ~ん、わぁ~かったぞぉ」


 隆助は小憎たらしくねちっこいトーンでそう言った。顔もそれに見合った小憎たらしい表情をしているに違いない。


「何だよ。何がわかったんだよ」

「いやいや、だって今日、『母の日』じゃんか」

「――へ?」


 そういえばちょっと前になじみの花屋で母の日用のメッセージ付き花束を注文したんだった……。まさか今日がその日だったとは。母の日ってやつは毎年日にちが変わるのが厄介だ。


「日頃の感謝の言葉を――、ってやつだろ? いつもは花束と印刷済みのメッセージカードだけだもんな。今年は直接だなんて、やるじゃん」

「いや、別に俺は――」

「本当はさ、こっち帰って来てくれりゃ良いんだけどなぁ。俺はまだ良いけど、陽のやつはいまだに寂しがってんだぜ?」

「まぁ、陽はまだ子どもだから……って、えっと、あいついまいくつだ?」

「14だよ。兄ちゃん弟の年ぐらい覚えとけよ。イベントのプレゼントとか小遣いとかはマメに送ってくれるくせに」

「ハハハ悪い悪い」

「兄ちゃんまたライブ出ないの? また見に行きてぇなぁ、俺」

「ばぁっか、隆は俺のライブに行きたいんじゃなくて、東京こっちに来たいだけだろ。バレバレなんだよ、お前は」

「へへへ、バレてたか。でも陽はマジで喜ぶって。あいつ最近ギター始めたからな」

「ほぉ、そいつは感心感心。俺の弟だからさぞかし飲み込みも早ぇだろうな」

「ぐはっ、まっさかまさか。すっげぇ下手くそだぞ。っつーか、陽は音痴だしな」

「あれ? あいつそうだったっけ?」


 勇助は末の弟である陽助の顔を思い浮かべた。笑うと目が無くなる、と揶揄される切れ長の瞳は母親譲りである。いつも勇兄ちゃん勇兄ちゃんと後ろをくっついてくるやつだった。昔は鬱陶しいと思っていたが、いまとなっては微笑ましい思い出である。


 そうかそうか、あいつも音楽に興味を持つようになったか。


 父はもうすっかり楽器を弾かなくなった。陽助辺りは父親が三味線の名手だったなんてことも知らないだろう。ただの飲んだくれだと思っているはずだ。だからきっと、あいつが音楽を始めたのは俺の影響だろう。そう思うと可愛さもひとしおである。最も、そう思えるのは離れて暮らしているからかもしれない。


 そう思ってしまうほど、陽助は勇助にべったりだったのだ。


「母さん帰ってきたらかけ直すように言っとこうか?」

「んー、まぁイイや。大した用でもねぇし」

「大した用って……。何だ、母の日のじゃなかったのか」

「ついでだ、ついで。そんなのは。今年もちゃんと花束送ってるし」

「まぁ、母さんはそれでも満足そうにしてっけどさぁ。たまには兄ちゃんの生声聞きたいと思うけどなぁ」


 それはそうだろう。

 最後に言葉を交わしたのはいつだっただろうか。


 さすがに家を出た日、ではない。その後も何かの折につけて電話をかけたりしていたし、親戚の見舞だか何だかで両親がこっちに寄ったこともあるのだ。

 それでも、母『宛』に電話をかけたことはなかった。いつも何かのついでにちょっと代わってもらって近況をざっくり伝えるのみ。やはりあの日から、壁を感じてしまう。


 だってアンタは俺の母さんじゃないんだろ。


 気を抜くと、そんな言葉がつるりと飛び出しそうになる。

 怒りに任せてでもなく、本当にいつもの、軽い、茶化すような感じで。

 何せ怒りなんてこれっぽっちも感じていない。18年間内緒にされてたのは確かに堪えたが、もっと若い時に話されれば自分の性格上ぐれていただろうし、かといって良い年したおっさんになってから話されても「なぜいまさら?」である。だからきっと、あれがベストタイミングだったのだ。


 それでも一応、最初はよくわからない『怒り』のようなものは込み上げて来た。どうして俺だけなんて思ってみたりもした。他の弟妹きょうだいと比較して、不当に扱われた出来事が無かったかと、無理やりに記憶を掘り起こしてみたりもした。


 しかし、そこで改めて気付いたのは、何をどう見ても、わざと斜から覗いてみても、紫歩は――継母は、自分を実の子としてしか扱っていなかったということだった。


 確かに、ガツンと叱られたこともある。

 尻をぶたれたこともあったし、物置小屋で一晩明かしたこともある。


 でもそれは自分だけではなかった。


 梗子も隆助も一番幼い陽助でさえも、悪いことをすれば同様だった。

 良い意味でも悪い意味でも、俺だけ特別ということはなかった。


 だからこそ、18年間何も疑わなかったのだ。


 卒業後はミュージシャンになると言った時、一番に賛成してくれたのは、音楽の楽しさを教えてくれた父ではなかった。いつもいつも勉強しなさいと口酸っぱく言って来た継母だった。だから、上京後、やっぱり手元に置いておきたくなかったんだな、なんてぼんやり考えていた。


 そんなある日のこと、狭いアパートで退屈を持て余しつつ、皐月と彼女の子ども達をどうやって楽しませようかと次のイベントを考えていた時だった。


「ちょっと兄ちゃん聞いてよ!」


 既にぐつぐつと煮えたぎった状態の梗子から電話がかかってきたのである。

 どうやら進学を反対されたらしい。へー、とか、ほー、と適当な相槌を打ちながら、東京近郊の旅行ガイドブックをペラペラとめくっていると、さすがに片手間なのがバレ、危うく怒りの矛先を向けられそうになった。仕方ねぇな、と雑誌を閉じる。


「何で兄ちゃんは好きなことやってるのに、あたしはダメなのよ!」


 序盤を話半分で聞いていたために詳しいところはわからなかったが、海外がどうとか、というのは聞こえた。


「そりゃあお前は女だし、危ねぇって思ったんだろ」


 やはり適当なことを返したわけだが、心の中では「そりゃ実の子は手元に置いときてぇだろうさ」などと思ってみる。


「かもしれないけど~。母さんはオッケーだったのにぃ~」


 ――何?


「何だ、お袋は良いっつったのかよ」

「当たり前でしょ。兄ちゃんの上京だって反対しなかったんだから。母さん、今回も父さんに何度も何度も頭下げてお願いしたんだよ? それなのに父さんったら!」

「おい、ちょっと待て。何だ今回も頭下げるって」

「え? 兄ちゃん知らなかったの? 兄ちゃんが上京するって言ってから、父さんと母さん毎晩毎晩話し合いよ。何とかお願いしますって母さん毎晩土下座してたんだから」

「知らねぇよ、俺」

「あー、兄ちゃんの部屋、居間から一番遠いからねぇ。あたしあの頃、陽助とこっそりゲームしてたからさ」

「何でそこまでして」

「え~? あたしに聞かれたって知らないよぉ。でも、母さん、兄ちゃんがベース弾いてる時いっつも楽しそうだったよ。お尻ふりふりしてリズムなんかとってて。あたしはボンボンうるさいだけだと思ってたけど」

「てめぇ梗子」

「あっははー。あたしベースなんて知らないもん。せめてギターならさぁ」


 話しているうちに怒りは少しなりを潜めたらしい。梗子はケラケラと笑って「何かすっきりしちゃった。またね」とこれまた一方的に電話を切った。相変わらず自分勝手なやつだと苦笑して、勇助はベッドに寝転んだ。


 ――何だ。

 なぁんだ。


 すとんと肩の力は抜けた。

 それでも身体のどこかに刺さった針はそのままだった。


「――お? 兄ちゃん、ラッキー。母さん帰って来たぞ。ちょい母さん、電話電話。――あ? 兄ちゃん。早く早く。良いって、それは俺がやるから。はい」


 スーパーのビニール袋を受け取ったのだろう、耳障りなガサガサという音の後で、コホン、と小さな咳払いが聞こえた。


「――勇助?」

「……おう」

「久し振りねぇ、元気だった?」

「お、おぅ、そこそこな」

「珍しいわね、こっちにかけてくるなんて」

「ん。まぁ、ちょっとな」

「何? お金? あれ? ナントカ詐欺の話?」

「いやいや、ここまでがっつり隆と話しといてオレオレ詐欺もねぇだろうって」

「それもそうよね。じゃあどうしたの?」

「いや――……、まぁ、なんっつーかさぁ、その、経験者? の? 知恵っつーのを拝借出来ねぇかなぁって」

「経験者?」

 

 

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