5月第2日曜日 母の日・前編
これまで自分が信じてきたことが崩れた。
いや、信じてた――なんて大袈裟なものでもない。自然と呼吸をするように、産まれた時から心臓が休みなく働くように、それが当たり前のことだったのだ。
俺は――産まれた時から
父さんと母さんの子どもで。
だけど、俺を産んだ母さんはもうこの世にいない。
そんでもって、俺が母さんだとずっと思っていた
弟妹達は父親が同じだから血の繋がりがある『家族』だけれど、母――彼女だけは他人なのだ。
「お前に大事な話がある」
夜はいつも酒を飲んで酔っぱらう栄助が、その日は珍しく素面だった。
いつになく真剣な父の眼差しに、さすがの勇助も胡座を止めて座り直す。
――俺、何かやらかしたっけ?
そんなことを思いながら、その『大事な話』とやらをじっと待つ。栄助はチラチラと台所にいる妻――紫歩を気にしている。やがてその視線に気付いた紫歩が口の動きだけで「もう終わる」と言った。
そう大して待たされたわけでもないのに揃ってそわそわしだした父子に苦笑いをしながら、紫歩はやって来た。まだ少し水気の残る両手をエプロンで拭き、栄助の隣に正座をする。座卓を挟んで二対一の構図。
これは完全にお説教モードだな。
勇助はそう判断し身構えたが、両親は苦い顔をしたままチラチラと目配せをするばかりで一向に話し出す気配がない。
しびれを切らした勇助が思わず口を開く。
「何なんだよ、父さんも母さんもさぁ」
怒るんならさっさとしてくれよ、こちとら謝る準備は出来てんだからさぁ、と。
これから説教を受けると結論付けた割にデカい態度――いつの間にやら再び胡坐をかいていたのである――で勇助は座卓に肘をつき、わざとらしくため息までついて見せた。
すると両親は顔を見合わせてからほぼ同時に首を振った。「何言ってんだ、説教なんかじゃない」そう言ったのは栄助である。
「じゃあ何なんだよ。俺だってな、一応ベンキョーとかするんだからな」
「勇助の口から『勉強』なんて言葉が出るなんて……」
「明日は嵐か……?」
声のトーンを落とし肩をすくめ、恐ろしいものでも見るかのような目で見つめてくる両親に向かって、今度は『振り』なんかじゃないため息をつく。
「ちょっと待てよ。何で俺がベンキョーしたら嵐になるんだ」
「だってお前、受験もないじゃないか」
「そうよ。高校出たらプロのミュージシャンになるから東京に行くって言ったじゃない」
「それともやっぱりアレか? 受験するのか?」
「しねぇよ! 何度も言ったろ、俺はベースで食ってくんだよ!」
「じゃあ何で勉強なんか……」
「テストが
「まぁそれもそうなんだけど」
「いい加減言い飽きたんだな、お前の場合は。言っても聞くタマじゃなかっただろ」
「ま……、まぁ、そうだけど。――っだぁ! もう、だから何なんだよ!」
勇助が声を荒らげると、一体何事かと、居間から一番近い部屋にいた末の弟の陽助がドアからひょこりと顔を出した。
「何でもないからお前は部屋に戻ってろ」
栄助はそう言って陽助を追い払ったが、その去り際、勇助が説教を受けるところだろうと判断した兄貴思いの弟は、彼に向かって拳を強く握りしめ心の中でエールを送った。
――勇兄ちゃん、頑張れ、と。
再び3人だけになった居間はしんと静まり返っていた。ここまで来るとさすがに勇助もおかしいと思い始める。
もしやこれは説教では無いのではないか、と。
長男である俺にだけ話す内容とは一体何なのだろう。
も、もしかして父さんと母さん、離婚するのか? あいつらに話す前に、まず俺からってことか? そうなのか? 何だよ、俺達の前ではめっちゃ仲良かったじゃん! 仮面夫婦ってヤツかよ! 畜生、騙された!
勝手な想像で理不尽な怒りを覚えていた時、栄助が観念したように大きく息を吸った。
「――勇助、あのな」
「何だよ!」
短時間で急激に膨らんだ怒りが一気に爆発し、かなり荒れた声が出た。栄助も紫歩もあまりの剣幕に目を丸くしている。その目は、『まだ何も話していないのに』と語っていた。勇助の方でも予想外の声量に我が声ながら驚く。
しかしびびってばかりもいられない、と父としての威厳を取り戻そうと、栄助は身体を軽く揺すりつつ大きな咳払いをした。さぁ、ここからは俺が主導権を握るぞ、という合図のようなものである。勇助もそれで我に返り、座り直して背筋を伸ばした。
「勇助、実はお前はな――」
――俺は、
俺だけは母さんの子どもじゃないんだそうだ。
母さんっつーか、え――……っと、紫歩さん?
俺を産んだ母さんは、俺が物心つく前に死んじまったんだって。名前は
ちなみに、俺の弟妹は梗子、
きっと俺に気を遣ったのだ。
当たり前の話だが、今後、紫歩さんとの子どもが産まれることはあっても、母さんの子は俺しかいないのだ。バレるにしろ打ち明けるにしろ、この事実を知った時、ほんの少しでも疎外感を覚えて孤独を感じるような要素を作りたくなかったのだろう。その後、あまり間を空けずに弟達が出来たが、俺と同じように父さんの『助』で揃えたのみだった。
そんなことを考えて黙りこくっている勇助に対し、栄助は「お前は俺の子であることに変わりは無いし、母さんだってそのつもりで接してきた。これからもそれが変わることはない」と言い切った。涙目の紫歩もそれに大きく頷く。
だから勇助は――、
「いっ……、いまさら継母だって知らされても、俺は全然気にしねぇし!」
精一杯強がってそう言った。
それでも一応本心ではあるのだ。気にしたって仕方がない。事実は変えられないのだし、どうせ自分はもうすぐここを出るのだ。
栄助と紫歩は心底複雑そうな顔をしていた。勇助からすれば迫真の演技だったのだが、大人にはそれが単なる虚勢であることなど一目瞭然である。
「話はもう終わりだろ? さぁーって、ベンキョーすっかなぁっと」
縮こまっていた背中を伸ばし、無駄に大きな声を出した。とにかく大きな動きで誤魔化さないと、何だか泣きそうだったのだ。
そして、勇助はなるべく紫歩の顔は見ないようにして、努めて明るく言った。
「テスト終わるまで夜食よろしくな、『母さん』」と。
嗚咽混じりの「わかったわ」という返事が聞こえ、ホッと胸を撫で下ろす。どうやら上京を機に自分を切り離すつもりで打ち明けたわけではなかったらしい、ということに一応安堵した。
あれから何年経っただろうか。
どんなに「全然気にしねぇし」と自分に言い聞かせても、実は赤の他人だったという事実が棘となって身体のどこかに刺さったままである。どこかはチクチク痛むというのに、それがどこかわからず、いつまでも抜くことが出来ないのだ。このままでは皮膚の中に入り込んで、体内から刺し続けるだろう。
しかしもちろん、それほどの痛みごときで死ぬわけもなく、それ以外は至ってすこぶる健康である。仕事もまぁまぁ順調。給料は安いものの、自分の夢で飯が食えるというのはかなり有難いことだ。
ただ、目下、彼を悩ませているのが――、
「なぁ、もちっと飯食ってくれって。人間しっかり食わなきゃ治るもんも治らねぇだろ?」
不服そうに頬を膨らませ、揃って首を横に振る二人の天使達の食事情なのであった。
何だ? 何が良くない?
料理の腕には自信があるんだ。
味見だってした。
大人の舌には少々薄い味付けではあるが、子どもには充分なはずである。
皐月が死んでもう3年。
立派に父親代わりを務めて来たつもりだった。
子ども達も『死』というものを理解し、むやみに皐月の名を呼ばなくなった。無理やり押し込んでいるようにも見えるのが痛々しいが、きっともう少し時間が経てば、もっと母を身近に感じるようになるだろう。皐月はお前達の心の中にいるだとか、いつも見守っているだとか、勇助からは言わないようにしていた。それはきっと彼女達自身が気付くだろう。
だから彼は『皐月は天国にいる』としか言わなかった。さすがにどこにもいないとは彼自身が思いたくなかったからだ。暖かくて、柔らかくて、明るい、そんなところでふわふわ漂いながら過ごしているのだと、そう無理やり思い込んだ。
双子の天使――
熱も大してあるわけではなく、咳と鼻水が少々。さほど心配するレベルでは無い。
ただとにかく食欲が無い。
下しているわけでも、吐き戻したりしているわけでもない。
ただただ食欲が無い。
そのせいなのか、彼女達の風邪は一向に治らなかった。低空飛行のまま飛び続けること早一週間。
もしかして既に治っているのでは、と疑いもした。
しかし、ケホケホと可愛らしい咳をし、ずるずると鼻を啜る姿を見れば、やはり彼女らの身体にはいまだ風邪の野郎が我が物顔で居座っていやがるらしい。
とにかく旨くて栄養のあるモンをたらふく食わせりゃ――と意気込んでみたものの、2人の食は遅々として進まないのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます