♪14 赤を一滴

 ドアを開けたあきらの目の前にあったのは、彼女の全身をしっかりと収められるほどの大きな姿見だった。確かに、眼鏡屋だからといって、顔だけ見れば良いというわけではないのだろうから、ファッションアイテムを取り扱う店としては当然の設備とも言えるだろう。


 そこに映っているのは、シンプルなグレーのカットソーに黒のロングコート、そしてストレッチ素材のスキニーパンツ姿の――


 女の姿であった。

 

 しまった、と後悔しても時すでに遅し、である。


「いらっしゃい」


 背中の曲がった人の良さそうな老婆が、品の良い金縁眼鏡越しに優しそうな笑みを向ける。晶もつられて少し笑った。


「お客さんなんて久し振りだわぁ……。ほら、いまは向こうの通りにお洒落なお店が出来たでしょう? 若いお客さんは皆あちらに」

「……そうなんですね」


 かすかに聞こえるクラシックの中で、ゆっくりと話す店主の声は、客を取られてしまった割には悲壮感の欠片も無い。


「まぁ、ここは趣味でやってるみたいなものだから。だから、別に買ってくれなくたって良いの、見るだけでも。ゆっくりしていってくれたら嬉しいわ」


 この御時世に何とものんびりした人だと、晶は思った。


 実はもしかしたら自分と同じで、いま流れているのが彼女の曲だったり……? 


 そこまで考えて、晶はまさかな、と笑った。

 狭い店内をぐるりと回る。安価なのは外から見えるものだけで、店内に並べられているものはどれもそれなりの値段である。一昔前は眼鏡といえば高価なイメージだったが、昨今は5000円でおつりが来てしまうような安価なものも多く出回っている。それによって、シーンやファッションによってさまざまに使い分けるのが『普通』になっているのだった。

 そう考えると、この店はかなり昔から時が止まってしまっているような印象を受けた。――それほどに、一つ一つが高価で、洗練されていた。


 確か章灯しょうとさんの眼鏡もそういうお店で買ったのだと聞いた。


 別にチェーン店を低く見てるわけじゃないけど、と前置きした上で、彼は愛用の眼鏡を手入れしながら言ったのだ。「俺は仕事の時にしかかけないからさ、ちょっと良いやつを長く使えればそれで良いんだ」と。

 

 確かにそういう考え方もある。

 せっかくだから、私も――、


 そう思って、銀色に輝くフレームに手を伸ばした時――、


「お嬢さん」


 柔らかな声だった。

 振り向いてみると、店主が小さなトレイを持って立っていた。


「あなたはきっとこれだわ」


 内側が別珍素材になっているトレイの中にあったのは赤いフレームの眼鏡だった。レンズは楕円で、フレームはやや太めである。


 晶はほとんど初めてと言っても良い「お嬢さん」という呼ばれ方に虚を衝かれ、そして、『きっとこれ』と差し出されたのがいまの自分には似つかわしくないとも思える真紅の眼鏡であったことにも驚いた。


「いえ、でも、そんな明るい色は……」


 確かに赤は彼女が一番好きな色ではある。あるのだが、ファッションアイテムの中にそれを取り入れることはほとんど無い。


 絶対に似合わない、そんな鮮やかな赤は。


 頭を振って辞退しようとする晶に、店主は穏やかに笑ってそれを否定する。


「あら、かけてみなくちゃわからないじゃない。さ、さ、かけるだけはタダなんだから」


 ぐいぐいとトレイを持たされ、それが晶の手の上に乗ったことを確認すると、店主は彼女を先ほどの姿見のところまで引っ張った。こうも強引に勧められては一回だけでもかけてみないと逃れられないだろう。そう思い、晶は観念して一度前髪を掻き上げてからトレイの上の眼鏡をかけた。


「――ほぉら、やっぱり良いじゃない!」


 店主は顔の前で手を合わせ、少女のような声を上げた。


「あなた、肌も白いし、髪も真っ黒艶々だから、絶対に似合うと思ったの」


 肌が白くて髪が黒ければ赤い眼鏡が似合うのか?


 そんな疑問も浮かんできたのだが、それでも、ついつい納得してしまうほど、その眼鏡は彼女によく馴染んだ。


「あなたとっても黒が似合うわ。スタイルも良いし、モデルさんみたい。短い髪も良く似合ってる。そこにね、赤を一滴ひとしずく垂らすと素敵よ。一滴で良いの。口紅だとか、パンプス、マニキュアでも良いし、小ぶりのバッグでも良い。だけど、あなたならきっとそういうものより眼鏡これなんじゃないかしら」


 

 それは全て『女』を前面に押し出すアイテムだ。


 この店主はきっと見抜いている。自分が女になりきれない――それを避けていることを。そしてきっとそれを残念に思うのではなく、尊重してくれている。


 尚もにこにこと笑う老店主に向けて、晶もまた微笑んだ。


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