♪13 重大なミス

「今日はありがと。食レポ、勉強になった」


 午後3時。デートと位置付けるにしてはかなり早い時間ではあったが、用事があるのだと言って、渋る明花さやかを納得させた。


「どういたしまして。私ならいつでも空いてますから、練習、いつでも付き合いますよ!」

「そんなこと言って……、みぎわは飯が食いたいだけだろ」


 呆れ声で指摘すると、彼女は頬をパンパンに膨らませた。


「そんなことないです! 私はただ――」

「わかったわかった。ピンチの時は頼むわ」


 はははと笑って彼女の頭に手を乗せる。明花の頭はあきらよりもずっと低く、小さい。


「わ、私も、色々勉強させていただきました……今日は……」


 さっきまでの威勢はどこへ行ってしまったのか、明花は頭頂部に章灯しょうとの手の温もりを感じ、その重みに軽く俯く。


「……だっ、だからまた! こうやって……教えていただけると……その……」


 言葉尻が弱くなっていくのと反比例して、顔の赤みはどんどん強くなっていく。


「そうだな。お互い勉強になるし」


 頭上で聞こえてきた優しい声に、彼女は零れんばかりの笑顔を作って上を向く。


「でも、次からはもう少し人を増やそう!」

「――へ?」


 期待に膨らんでいた胸は穴の空いた風船のように一気にしぼんだ。


「汀の食レポはいまや日のテレウチの財産だからな! 俺にだけレクチャーするなんてもったいなさすぎる! ワンツーマンで御指導賜っておかしな噂が立てられてもお互い迷惑だろ?」


 張りのある声であっけらかんとそう告げる。明らかにがっかりしている明花の頭をぽんぽんと優しく叩き、章灯は一度咳払いをしてから腰を落として彼女の耳元で囁いた。


「――それに、俺には悲しませたくない人がいるから」

「――せっ、先輩? やっぱり……」


 いるんですね、彼女、と呟いた明花の声は震えていた。

 その言葉には答えなかった。ただ笑うだけに止め、「気ィ付けて帰れよ」という言葉を残してUターンした。


 彼女じゃねぇよ。婚約者だ。

 だけどいまは俺の一方的な片想いになってしまっているけど。

 あんな態度を取られても、もしかしたら別のやつに傾いているのだとしても、俺はやっぱりアキが好きだ。


「惚れた弱味ってやつか」


 ポツリとそう漏らし、苦笑した。


 

 一方その頃、晶はというと、ここ数ヶ月間彼女を捕らえて放さなかった『彼の声』の呪縛から逃れるために外へ出ていた。後ろ髪ならさっきからずっと引かれまくっていて、きっと寝癖のように固まってしまっているだろう。


『もっと聞いてよ。ねぇ、僕のためにもっと曲を作ってよ』


 部屋の中にいれば、そんな甘い声まで聞こえて来そうで怖かったのだ。だから、財布とスマホだけを持って逃げるように家を飛び出した。


 とはいえ、予定も目的も無い。自分の店に顔を出しても良いのだが、逃げて来た姿をかおるにだけは見せたくない。


「面倒なことになるから、出掛ける時はサングラスくらいはしろよ」


 いつも章灯から口酸っぱく言われていたのを思い出し、まずは眼鏡屋に行こうと思った。行き先が定まると、あんなに重かった足が少しだけ軽くなった気がした。

 

 三軒茶屋にある老舗の眼鏡屋で足を止め、ショーウィンドー越しに眼鏡を見る。サングラスは店の奥に陳列しているらしく、外から見えるのは客寄せの安価なフレームばかりである。もう少し歩けば全国展開しているような大型の眼鏡屋があるのに、扱う種類も少ない個人店を選んだのは、ここの店主が恐らく自分のことを知らないであろう老婦人だったからだ。晶にとっては幸いなことに店内に客の姿は無く、店主はパイプ椅子に腰掛けて新聞を読んでいる。その様子からすると、案外店主の方でもこの状況で満足しているのかもしれない。


 ちょうど良かったとガラス張りのドアに手をかけた。


 レバー式のドアノブに体重をかけ、ゆっくりと押す。ちりん、というベルの音が聞こえた。良く言えばアンティークな狭い店内に足を踏み入れた時、晶は気付いたのだ、自分が重大なミスを犯していることに。

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