♪9 もういねぇやつ
「あの、
特別に思わないわけなんてない。
しかしいまさらそれを自覚したところでどんな言葉をかけたら良いのか。
「わかってる。意地悪言ってごめん。けど、俺だって言葉にしてくれなきゃわかんねぇこともある」
「……はい」
膝の上に肘をつき、両手で顔を覆う。何だか声が震えているのは、もしかして泣いているのだろうか。
「……誰の曲作ってんだよ」
それは消え去りそうなほど、弱い声だった。
「えっ……」
「作曲の依頼なんか来てねぇだろ。あんなにたくさん、誰のために書いたんだよ」
「それは……その……」
「やっぱり言えねぇか。そうだよなぁ」
「いえ、その……」
章灯の背中の上にあった晶の手が離れる。体重をかけていたわけではないというのに、急に身体がふっと軽くなったような気がして、章灯は立ち上がった。
「ごめんな。俺、うぬぼれてたみたいだ」
緩めていたネクタイをむしり取るようにして外し、ポケットにねじ込む。
「――あのっ、章灯さん?」
「寝るわ。俺、明日も仕事あるから」
「でも、明日は土曜日で――」
「『シャキッと!』はねぇけど、それだけじゃねぇから、仕事は」
晶の方を見ることも無く、突き放すようにそう言って、章灯はすたすたと自室へと引っ込んでしまった。
一人リビングに取り残された晶は、何とも言えない息苦しさと胸の痛みに立ち上がることもままならず、しばらくの間そこから動けないでいた。
誰の曲作ってんだよ。
章灯さんはそう言った。
誰のために書いたんだよ、とも。
そんなの。
そんなの自分だって知らない。
「アキに良いものやろう」
数ヶ月前、そう言って
「何ですか?」
「めっちゃ良い声のやつ」
「良い声、ですか。でも……」
もう自分には章灯さんがいる。それに、自分達以外の作曲の依頼もあるのだ。これ以上は要領の悪い自分にはキャパオーバーだろう。
でも、もし本当に自分が気に入るような『良い声』の持ち主だったとしたら?
自分が探していた『理想の声』だったとしたら?
突き返そうか悩んでいる晶を見て、湖上は片頬を上げてニヤリと笑った。
「まぁ、とりあえず持っとけ。聞かねぇなら聞かねぇで捨てちまって良いから」
仕事のついでに寄っただけだからと、湖上はくるりと背中を向け、ひらひらと手を振ってその場を去ろうとした。その背中に晶は声をかける。
「あの、ちなみにコレって、誰なんですか」
湖上はその言葉でぴたりと足を止めた。そして振り向き様にこう言ったのだ。
「――もういねぇやつ」と。
受け取ってからしばらくはそれを見ないように見ないようにと意識していた。かといって捨ててしまう気にもなれなかった。
1回だけなら、いや、でも。
気の進まない依頼をやっとの思いで片付け、一息ついたタイミングで何気なく、本当に何気なくそれを聞いてしまった。
あんなに葛藤していたというのに、それほど――そんな判断を下してしまうほど自分は疲れているのだと、都合よく自分に言い聞かせて。
ヘッドホンから聞こえてきたのは瑞々しい少年の声だった。
曲はBILLY THE COWBOYの『call my name』。確か20年以上前にかなりの高視聴率を叩き出したドラマの主題歌に起用された、ミドルテンポのラブソングである。どこか物悲しいサビのメロディが印象的な曲で、世代じゃないはずの10代の若者でも、BILLYの曲の中でこれが一番好きだと挙げる者は多い。
学祭などのイベントなのだろうか、伴奏の方は眉をしかめたくなるほどの腕前だったのだが、そんな中でも彼の声は――いや、そんな演奏だったからかなおさらに際立っていた。テクニックなんてほぼ無いに等しいというのに。
たぶん当時流行っていたバンドの受け売りらしき中途半端なフェイク。ところどころ乱れるテンポ。……まぁテンポに関してはリズム隊のせいだとは思うが。
それでも、そんな粗を補って余りあるほどに魅力的な声質である。
伸びやかなビブラート。ぞくりとするようなファルセット。トレーニングをすれば、間違いなく一級品になる。
でも、彼は『もういねぇやつ』なのだそうだ。
こんなにも将来有望だったヴォーカリストがいまこの世にいないという事実に、その音楽的損失に晶は愕然とし、一人泣いた。
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