♪8 彼が泳ぐ条件
何とか尻餅をつくのは免れた
「どうしたんですか、章灯さん」
しかし彼は答えない。
「水、飲まないんですか」
届かないとわかってはいるのだが、一応手を伸ばしてみる。やはりボトルにはかすることすら出来ない。あとほんの少し身体を起こせば良い。そうすれば――、
「いらねぇ」
起こしかけた肩を強く押される。何だか怒っているような表情の章灯の顔が迫って来る。
「ダメです」
「いらねぇって」
「ダメです。私が同じ状態だったら、章灯さんは絶対飲めって言うじゃないですか」
「俺はお前みてぇに弱くねぇし」
「いまの状態では説得力ありません」
「話があるんだ」
「飲んでから聞きます。飲まないなら聞きません」
断固として折れない晶に章灯は「わかったよ」と呟き、彼女の肩を抑えていた手を離した。彼の拘束から逃れると同時に身体を起こしてテーブルの上からボトルを取った。蓋を開け、グラスに注ぐ間、ちらりと章灯の方を見る。話があると言った彼は、相変わらず眉間に深いしわを刻んでいる。
何で怒ってるんだろう。
そう思いながら、グラスを渡すと、彼は素直にそれを受け取り、ほんの数秒それを見つめた後、一気に飲んだ。
「お代わり」
空になったグラスを返され、渇いてたんじゃないかと心の中で突っ込む。
話とはもしかして、ここ最近の自分の態度だろうか。
鈍感すぎる晶でも、さすがにいまの自分の行動が好ましいものではないことぐらいはわかる。わかった上でしているのだから、自分でも質が悪いと思う。
しかし、その予想は大きく外れた。
「――声優ですか」
渡された台本をぱらりとめくり、配役一覧の中に章灯の名前を見つけた晶は、意外そうな声を上げた。
「アナウンサーって、大変ですね」
これではタレントと大差ない。そう思い、台本をぱたんと閉じる。そしてそれを返そうとしたところ、章灯は首を横に振って再びページをめくった。
「そこじゃない」
クエスチョンマークを宙に浮かべた晶が成り行きを見守っている中、パラパラと休みなくページをめくっていた彼の手がぴたりと止まった。
「ここ」
指差されたところを覗き込む。
『主題歌:CHANGE FOR YOU (歌
「歌もですか」
晶はぽつりと言った。感心したような、呆れたような、そんな声だった。
「――何とも思わねぇの?」
「何とも――って、何がですか?」
「アキの曲じゃねぇんだけど」
「そうですね。小出町さんはかなり有名な方です」
「そういうことじゃねぇよ」
「かなりのベテランの方ですから、章灯さんが気持ちよく歌える歌をきっと――」
「――そうじゃなくて!」
突然上げられた声に晶の身体はびくりと震えた。
「何……ですか……」
「アキは何とも思わねぇのか? 俺が、アキ以外の曲を歌うんだぞ? 俺が!」
「それは……」
「俺の本業は歌手じゃねぇ。いまでもそう思ってる。俺はあくまでもアナウンサーだ。だけど、アキが曲を書いてくれて、コガさんとオッさんがサポートで入ってくれるっていう条件でのみ、俺はヴォーカリストになれるんだよ」
「章灯さん……?」
「それを特別に思ってたのは俺だけだったのかよ……」
明らかに失望したとわかる台詞とトーンに晶はどきりとする。
彼はヴォーカリストとしての有り余る才能を持っていたから、何の恐れも苦労も無く、悠然と大海を泳いでいるとばかり思い込んでいたのだ。
しかしそれは彼が自分よりも大人だったから。惚れた女の前で弱いところを見せられるかと恰好をつけられる大人の男だったから。
泳ぎ方なんて基本しか知らないというのに、先も底も見えない大海にたった一人で放り込まれたという状態で、それでもどうにかやって来れたのは、自分がいたから。コガさんとオッさんが支えてくれたから。
その条件でやっと彼なりの泳ぎ方をつかみ、大事にしてきたというのに。
自分は……、自分は何をやっているんだ。
そう思い、晶は俯いた。
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