♪20 何もしないとは言ってない

 しんと静まり返ったリビングにコチコチという時計の音が響く。一気に飲んでしまったビールのせいか体温は上昇してしまっており、首振りの扇風機なんかでは対応しきれない。


 隣にはいつも以上に寡黙なあきらが、さすがにここまでのはかなり久し振りだろうと思うほどに緊張している。


 そんなに怖がんな。何もしねぇって。


 そう声をかけてやれば良いのだ。それだけでもきっと彼女はほんの少し肩の力を抜くはずだ。わかってる。わかってるんだけど。

 

 反則過ぎるだろ! どうしてお前は要所々々で俺の理性を試してくるんだよ!


 本音を言うと、手を出したい。いや、その前にもっとじっくり『女の』晶を見たい。そして散々視覚で堪能したあとは五感の全てで晶を感じたい。


 恐る恐るちらりと隣を見る。

 彼女は数分前と変わらぬ赤い顔で、膝の上に乗せた握りこぶしを凝視している。遠目ではモザイク柄に見えたのだが、近くで見るとそれは様々な青で埋め尽くされた小花柄であった。滅多にお目にかかれない女っぽさに胸が高鳴る。


 ――落ち着け、落ち着くんだ章灯しょうと! あぁもうくっそぉ、しったげめんけぇ可愛いなぁ、おい!


 思わず秋田弁が出てしまう。おまけに先程からシトラスの香りが鼻孔をくすぐりまくっている。


 誘ってんのか? むしろこれは誘ってんのか? そうなんだな、アキ?


 酒は強いはずだったのに、今日一日の疲れと空腹の状態で一気に流し込んでしまったせいか、かなり酔いが回ってしまっている。いや、年のせいもあるかもしれない。


 先輩達が口を揃えて言う「30過ぎたら急に弱くなって」という言葉が頭をよぎる。確かに昔ほどの量は飲めなくなってきているのだった。


「あっ、アキ……その……」


 ほぼ手付かずの菓子に手を伸ばす気にも、炭酸の抜けきった温いビールを飲む気にもなれず、章灯は思い切って口を開いた。小さく晶が震えたのがソファを介して伝わってくる。


「おかしく……ないですか」


 章灯の続きを待たずに晶がしゃべった。しかし顔はまだ俯いたままである。


「ぜっ、全然っ! 全然おかしくない! むしろ可愛い! すっげぇ可愛い!」


 勢いよく晶の方を向いて声を張り上げ、心の中のやましさを気取られないよう、それを掻き消すかのように両手をぶんぶんと振る。そんな章灯の姿にさすがの晶も顔を上げ、何度もまばたきをした。


「だっ……だから、その……もうちょっとよく見させて。出来れば……立って」


 そう言って立ち上り、晶に手を差し出す。彼女は一瞬ためらったが、おずおずとその手を取った。自分の手に晶の手が重なったのを確認してからそれを優しく握り、軽く引く。晶は抵抗することもなく立ち上がった。


 すらりとした白い肌に映える青。それは8月の抜けるような青空ではなく、さらさらと静かに流れる清流のようだった。


 章灯は晶の手を握ったまま呆けたように彼女を見つめていた。一言もしゃべらなくなった章灯に、晶は不安げな表情である。


「あの、章灯さん……」


 沈黙に耐えきれず、晶はその名を呼んだ。普段は1時間でも2時間でも黙っていられるというのに、何だかこの空気は落ち着かない。

 しかし、その続きが彼女の口から語られることはなかった。


 ふわりと鼻孔をくすぐる同じシャンプーの香り。

 緊張のせいで冷えていた身体を温めるシャツ越しの体温。

 次の言葉を探すために半開きになっていた口に差し込まれる舌の感触。


 恥ずかしい。抗いたい。

 その先が怖い。逃げ出したい。


 いつもの章灯ならそのサインを感じ取った時点ですぐに止める。

 そのサインは控えめにではあるが出していた。けれど彼がそれを止める気配はなく、むしろ激しさを増していくようである。


 晶は緊張がピークに達し、糸の切れた操り人形のように膝からがくんと崩れ落ちた。……が、章灯が強く抱きしめていたのが幸いし、彼にもたれかかるような体勢で止まる。


「ごっ、ごめんっ! 大丈夫か? アキ!」


 章灯の腕にしがみついてはいるものの、膝にはほとんど力など入っていない。章灯は彼女をゆっくりとソファに座らせた。


「だ……大丈夫です。ちょっと……びっくりしただけで……」


 晶はそう言って薄く笑って見せたものの、顔は青ざめている。章灯は慌てて台所に向かい冷蔵庫から晶用の鉄分ドリンクと経口補水液を取り出し、再び駆け足で彼女の元へ戻った。


「ごめん! 本ッ当にごめん!」


 章灯はドリンク剤を呷る晶の向かいに正座をし、土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。


「頭を上げてください、章灯さん。もう大丈夫ですって」

「いや! もう、本当にごめん! あんまりにもアキが可愛かったもんだから、つい!」

 

 言ってない。確かに何もしないなんて言ってない。だけど、これはやりすぎだ。俺の自制心は一体どこに行っちまったんだ。

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