12/12 始まりの日・後編

「ほい、おめでとう」

「……おめでとうございます」


 柔らかな間接照明のオレンジ色の灯りの中で、2人はグラスを軽く重ねた。

 グラスの中にはそこそこの値のジャパニーズウィスキーが。

 テーブルの上には、表参道のチョコレート専門店で買った詰め合わせが。

 そして章灯しょうとの目の前にはほんの少し不服そうな顔のあきらがいる。


「何でそんな顔してんだ。そんなに準備不足が悔しいのか?」

「いっ、いえ、別に……」


 早々に伝家の宝刀を抜いてしまった晶は、しまった、とでも言いたげな顔で視線を軽く泳がせた。


「俺はぜーんぜん気にしねぇ。……っつーか、これだって間に合わせみてぇなもんだしさ」


 歯を見せてニィっと笑ったが、それでも晶はまだ気まずいのか、一瞬だけ目を合わせた後ですぐに視線を落とした。そして――、

 手に持っていた薄めの水割りをぐいと呷った。


「……私だって本当はもっとしようと思ってたんです」


 てっきり一気に飲み干すのかと慌てて腰を浮かせた章灯は、彼女が意外にも水割りを半分ほど残したことにホッと胸を撫で下ろした。そしてその後でぽつりと語られた彼女の『本音』に耳を疑う。酔いが回るにしては早すぎる。


「……色々って?」 


 彼女の『しゃべりたい気持ち』を損ねないよう、いまのこの空気に溶け込ませるような、低く落ち着いた声で問い掛ける。


「例えば、章灯さんの好きなものをたくさん作って」

「うん」

「例えば、それなりの恰好をしてみたり」

「うん」

「そしたら」

「そしたら?」


 会話は一度そこで途切れた。

 やはり酔いが回って来たと見えて、彼女の顔はかなり赤くなってきている。しかしそれが果たしてアルコールのせいによるものなのか、はたまた、いまだ語られていない『そしたら』の続きによるものなのか。

 膝の上に置いていた彼女の左手がすぅっと彼の方へ伸びる。今日一日、せわしなく弦の上で踊っていた、そのしなやかな指がゆっくりと彼を招いた。


「……そっち行けば良いのか?」


 その問いに、俯いたままこくりと頷く。さらりと流れた髪の隙間から、真っ赤に熟れたような耳が覗いた。

 わずかな距離を膝歩きで移動し、章灯は晶の隣に座った。肩がほんの少し擦れる。彼の動きが止まったのを見計らって、晶が動いた。

 章灯の右腕に自身の腕を絡ませ、もたれかかる。酔った時に彼女がよくやる行動である。だから章灯は「あぁ、いつものか」としか感じていなかった。


「そしたら、朝までずっと抱いていてくれますか」


「……!!?? あ、朝まで……?」

「そうです。一晩中ずっとです」

「も、もちろん。アキが望むなら! ……頑張る、俺」


 勇ましく宣言しつつも、年々右肩下がりになりつつある体力に、ほんの少し及び腰になる。


 まさかアキがそんな積極的になるとは。結婚記念日ってすげぇ。



 そんな章灯の気持ちも知らず、晶は手に持っていた飲みかけの水割りに口を付け、ごくりと喉を鳴らす。


 ストレートか、ロックで。


 そうリクエストしたはずだったが、それは「疲れてんだから、そんなの飲んだら一気に回るぞ」と、にこやかに却下されてしまった。


 けれどいまではその気遣いが堪らなく有難い。いまでも充分すぎるくらいに酔いが回っているのを実感しているからだ。最近はだいぶ強くなったんじゃないかと思っていたのだが、それはあくまでも『自分基準で』である。特に、ファンクラブイベントというのはとにかく演奏だけしてれば良いというものでも無く、いつものライブとはまた違った疲労感が全身を包み込んでいるのだった。

 だから――、


 だから、いま自分のとっている行動と、それから、つるりと口から滑ったその言葉には、自分の意識などほとんど介入していないのだと、そう言い聞かせる。


 けれど、本当はわかっている。表層ではそう思っていても、深層ではそれを強く望んでいるのだということを。


 触れたいし、触れられたい。時間の縛りなんて無ければ良い。それでも朝はやって来てしまうから、仕方ない。


 自分がそんなことを言ったら引かれないだろうか。

 断られてしまうのではないか。


 それに、せっかくの記念日だというのに、日々の忙しさにかまけてうっかり何も準備していなかった。記念日を大事に思わないわけではない。大切な日だと思うし、祝う気持ちだってある。けれど、自分が世の女性達のように部屋を飾りつけたり、自分を着飾ったりすることに抵抗があったのも事実だ。こんな男みたいな色気のない自分が。でもせめて料理くらいなら、多少女らしい恰好をするくらいなら。



 最大限の変装をし、人目を避け、忍び込むようにして婚姻届けを提出したこの日、幸か不幸か彼の腕時計は2分ほど進んでいた。せっかくだからと結成記念日に揃える予定だったのだが、ライブ後の打ち上げだ何だですっかり遅くなってしまい、区役所の夜間窓口に駆け込んだ時、その時計の針は12時ちょうどを差していたのである。かといってもう一年待つわけにもいかず、お互いにがくりと肩を落としながら届けを提出すると、受け取った職員はにこりと笑って電波式の卓上時計を指差し、「はい、12月12日、確かに受理致しました」と言ったのだった。


 だから、自分達の結婚記念日は12日でもあるし13日でもあるのだと、都合良く解釈させてもらうことにした。今日はこの通り何も出来なかったけれど、その分、明日頑張ろう。テーブルの上に乗りきらないほどのご馳走を作って、久し振りに化粧をし、スカートを履く。そうすれば――、


「よし、行こう」


 膝をぽんと打ち、章灯は晶の手を取ったまま腰を上げた。それにつられて晶も立ち上がる。


「い、行くって……どこへ?」

「へ? 俺の部屋」

「どうしてですか?」

「どうしてって……。朝まで抱き合うんだろ?」


 不思議そうに首を傾げ、それがさも当然でもあるかのような口調で章灯は言った。


「いっ、いえ、それはその……ちゃんと準備をしたら……というか……っ。あっ、明日ちゃんとするつもりで……っ!」

「良いじゃねぇか」

「でも、何も無いのは寂しいって……さっき……」

「んー? あぁ、まぁ言ったけどよぉ。でも俺だってアキがいりゃあ寂しくなんかねぇんだもんなぁ。それに」


 ぐい、と腕を引き寄せて顔を近づけると、口角をめいっぱい上げ、少年のような笑みを浮かべた。


「寝かしてやんねぇとも言った。覚悟しとけ」

「か……っ、覚悟とか……!」


 準備がどうとか前振りはあったけど、最初に煽ったのはお前だからな。そう続けてから、章灯は晶と唇を合わせた。


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