♭18 変わること、変わらないこと

 章灯しょうとさんの唇が離れると、彼は「ごめん」と言った。


 これは、謝られるようなことだったんだろうか。

 章灯さんは謝るようなことをしたんだろうか。

 頭の中は混乱している。

 視界がぼやける。

 目が熱い。

 違う。

 泣いてない。

 泣いてない。


 肩の上にある章灯さんの手を振りほどいて、自分の部屋に走った。


 どうしよう。

 気付いてしまった。

 自分は章灯さんが好きなんだ。

 どうしたら良いんだろう。

 どうしたら良いんだろう。

 何で涙が出て来るんだろう。

 何で泣いてるんだろう。

 大丈夫だろうか、章灯さんにはバレていないだろうか。


 さっき何を話したのか、ほとんどもう記憶になかった。


 翌朝、どうしてかいつもより早くに目が覚めてしまった。

 身支度を済ませ、リビングに章灯さんがいないことを確認してから手早く朝食を作った。


 頭の中は、どうしようどうしようとそればっかりだ。


 何となく、この家に居づらいと思って、昼食を準備する時間まで当てもなくぶらぶらと歩き、喫茶店でケーキを食べた。


「何してるんですか」


 そろそろ良い時間だと思って家に帰ると、自分の部屋の前で座り込んでいる章灯さんがいた。

 あまりにも衝撃的な光景に、気まずさやら何やらが一時的に吹き飛んだ。


 コーヒーを淹れてリビングに運ぶ。章灯さんの隣に座ると、何やら気まずそうにぽつりぽつりと話し始めた。


 どうやら章灯さんは自分が出て行ったと勘違いしたらしい。


 そんなこと、あるはずがない。自分がギターを置いて出て行くはずがない。


 しかし、そんなことで腰って抜けるんだなぁ、と思った。


 章灯さんは『まず』と言ってから話し始めた。

 ということは、まだ話すことがあるのだろうか。


「俺は、お前が好きだ」


 章灯さんは身体をこちらに向けて、じっと自分の目を見つめて言った。


「俺は、女なら誰でも良いとかそういうんじゃなくて、アキにしたかったから、したんだ」


 章灯さんの顔は真っ赤になっている。


 どうしよう。


 章灯さんも自分を好きだという。


 どうしたら良いんだ。

 自分には、女らしいことなんて出来ないし、章灯さんが望むようなこともおそらく出来ないだろう。


 気持ちは、嬉しい、でも……。


 どうして良いかわからず、カップを持ってキッチンへ行く。

 章灯さんもそれを追いかけるようにしてキッチンへやって来た。泣くほど迷惑だったのかと問いかけられる。


 違う。

 迷惑なんじゃない。迷惑じゃないけど、何て言ったら良いんだ。


 こういう時、どうするのが正解なんだろう。


 ティッシュを顔に当てながらしゃがみ込むと、章灯さんは自分の背中をさすってくれた。そして、確認したいから、違う時だけ首を振ってくれ、と言う。

 YESかNOかの質問だったら、答えられる。


「迷惑では……ないんだな?」


 YESなので、首は振らない。


「気持ちに応えられないっていうのは、他に好きなやつがいるってことか?」


 NOだ。そんな人はいない。


「えーっと、アキは俺のこと……好きか……?」


 これは昨日気付いた。YESだ。

 だから振らない。


「でも……それって……俺の『声』だけ……とか……?」


 それは、違う。声だけじゃない。

 NOだから首を振る。


「なぁ、アキ。別にさぁ、俺はアキに特別なことをしてほしいわけじゃねぇんだ。キス以上のことだってさぁ、そりゃしたくないわけじゃねぇけどさ。でもアキが良いって言うまでそこは我慢する。俺はさ、アキが毎日美味い飯作ってくれて、良い曲作ってくれてさぁ、ライブとかで笑顔見せてくれれば、それでもう結構満足なんだよ」


 世の中の恋人たちが一体何をしているのか、自分にはいまいちわからない。

 章灯さんの言う『キス以上のこと』というのも、保健体育の授業以上のことは正直わからない。そんなことを話す友人なんていなかったから。


 しかし、ご飯作って、曲を作って、ライブで笑顔って、そんなのいままでと何ら変わりがないじゃないか。


「変わらなくて良い。昨日も言ったろ、無理に変わらなくたって良いんだ」


 でも。


「俺は、男の恰好してるアキでも、女のアキでも構わない。お前と一緒にさぁ、これまで通りやっていきたいんだ。別に恋人なんてかしこまった言い方しなくてもさ、アキがそう思ってくれるならそれで良いんだよ」


 でも。


 どうしたら良いんだろう。本当に、どうしたら良いんだろう。

 自分は何で泣いてるんだろう。

 何で止まらないんだろう。


「嬉し泣き……とか?」


 嬉し泣き……。

 そうかもしれない。だって、こんなのは経験したことがない。

 いま抱いているような感情も。それに伴う、この涙も。


 今度は謝ったりしない。


 そう言って、章灯さんはまた唇を重ねてきた。

 顔が近付くのは恥ずかしいが、この感触は嫌いじゃないと思った。


 章灯さんの唇は、柔らかく、温かだ。

 胸の奥がじんわりとする。小さい頃の何かを思い出しそうになって、喉が詰まるような感覚を覚える。


 自分を取り囲んでいる分厚く固い氷の壁が、ゆっくり溶けてしまうような気がして怖くなる。

 無防備になるのは恐怖だ。

 何かで塞がないと。何かで隠しておかないと。


 それがもし、章灯さんだったら、と思う。

 もしこの人が、自分の弱さを、至らなさを、覆い隠してくれたら、外敵から守ってくれるとしたら、どうだろう、と思う。

 

 1人は気楽だと言い聞かせる一方で、1人は嫌だとずっと叫んでいた。


 一緒にいてくれるだろうか、この人は。

 ずっと一緒にいてくれるだろうか。


 自分でも驚くほど、他人に執着してしまっている。

 自分の変化が恐ろしい。

 自分の感情をうまく操作できない。扱いきれない。暴走するかもしれない。

 もっと変わっていくのだろうか、自分は。


 変わるのだろうか。

 変えられるのだろうか。


 変化への戸惑いと、形容しがたいこの心地よい感触とを天秤に掛けたら、果たしてどちらに傾くのか。

 そんなの、わかりきっている。


 ああ、それほどに、私は。

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