♭16 劣等感

「ネーブルを届けに来たわよ」


 かおるが男の恰好の千尋と訪ねてきたのは3月14日のことだった。


 家は千尋にはバレていたが、そういえば郁には話していなかった。しかし、千尋の方でもまさか肉親が知らないとは思わなかったようで、今月の頭に実家の果樹園からネーブルが届いた際、郁は以前自分が住んでいた社宅へ届けに行ったらしい。

 自分が住んでいた部屋には既に新しい人が入っていた。その人もカナレコの社員だったが、さすがに新しい住所まではわからず、かつて3人で住んでいたコガさんの部屋を訪ねたところ、お前知らなかったのか? と驚かれたという。


 オレンジは大好きだから、持って来てくれたのはありがたい。しかし、わざわざここまで来なくとも、郵送してくれれば良かったのに。


 この2人は苦手だ。

 自分にないものをたくさん持っているから。

 女らしさで女の郁に負けるのは仕方ない。

 でも、女の恰好をしている男の千尋にまで完敗である。

 それに、負けているのは、そこだけじゃない。ありとあらゆる部分で、自分は劣っている。だから、一緒の空間にいるのは辛い。


 重苦しい空気にうんざりしていると、章灯しょうとさんが帰ってきた。

 何でだろう。この人だって同じはずだ。

 この人に勝てる部分なんて、ギターと料理しかない。それ以外は全部劣っている。それなのに、この人は一緒にいても辛くならない。それどころか、何だかちょっとホッとする。


 千尋が自分のことを『晶ちゃん』と呼ぶ。しかも章灯さんの前で。それが不愉快で仕方がない。


「だってさぁ、晶ちゃんおっぱいがあるんだも~ん」


 確かに下着は女物だが、服は男物を着ている。

 そういえば、この間、章灯さんも「『私』と言うな」と言っていた。男の服を着ている時に女だと意識させられるのは嫌なんだろう。


「……だったらいますぐさらしを巻いてくる」


 そう言って自分の部屋に向かい、わざと大きな音を立ててドアを閉める。

 しかし部屋に籠ったは良いものの、さらしを巻く気にはなれず、ベッドの上に寝転がった。


 あそこまで言った以上巻かずには出られないだろうなぁと思っていた時、コンコンとドアがノックされ、章灯さんの声が聞こえる。

 とりあえず、このままの状態で待機と言われ、さらしを巻かなくて済んだことにホッとした。


 程なくして章灯さんは再びノックし、ほんの少しだけドアを開けて、その隙間から紙袋を差し込んできた。どうやらそれはホワイトデーのお返しで、自分に着てほしいのだと言う。

 そういえばさっき千尋が章灯さんと一緒に自分の服を買ったのだと言っていた。


 袋の中に入っていたのは、白いブラウスと黒地に白い線で花が描かれた細身のスカートだった。

 年末にコガさんやオッさんが『それぞれの好み』だと言って買ってくれたものとは何だか雰囲気が違う。


 章灯さんはこういうのが好みなんだろうか。


 そう思うとまた心臓がざわめきだす。でも、千尋が選んだのかもしれない。


 着てみると、自分の体型にぴったりと合っていた。ブラウスはともかく、こんなぴったりとしたスカートなのになぁ、と不思議に思った。


 身に着けてから姿見で全身を映してみる。

 こうやって見ると、女に見えなくもないと思った。

 せっかくだし。そう思って、デスクの上に置いてある化粧品に手を伸ばす。

 

 せっかくの白い服だから、食事中はエプロンをしていた。

 思い切って、誰が選んだのかを聞くと、これは章灯さんが選んだのだと言う。そのことにとてもホッとして、また心臓が大きく跳ねた。

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