♪52 turn on the love

「コーヒーでも飲んで落ち着いてからいま話すのと、いっそ昼食を食べてしまってから話すのどちらが良いですか」


 何とかソファに座った章灯しょうとを見下ろしてそう言うあきらは、呆れているような怒っているようなそんな顔をしている。


「早い方が良いから、いま話す」


 情けなさでうな垂れた状態でそう言うと、「コーヒー淹れます。それまでに少し落ち着いて下さい」と言って立ち上がり、晶はすたすたとキッチンへ向かってしまった。

 その後ろ姿をまじまじと見つめる。


 身に着けているのはシンプルな黒いロングTシャツと細身のジーンズだが、肩幅もぴったり合っているし、腰にくびれがあるデザインだ。この家ではもうすっかり『女』だ。

 

 程なくしてトレイの上に赤と青のカップを載せた晶が戻って来た。テーブルの上にトレイを置くと、ソファと床とどちらに座ろうかと悩むようなそぶりを見せている。章灯が少し横にずれると、頭をぺこりと下げて隣に座った。

 とりあえず隣に座ってくれたことに安心した。青いカップに手を伸ばし、一口飲んでふぅ、と息を吐く。


「……えぇと、まず、部屋の前にいたことについてから話すんだけど、さっき帰って来たらいつも飯の仕度してる時間なのにアキがいなかったからさ。その……昨日の今日だし、もしかしたら出て行ったんじゃないかって思って」


 晶が座ったのが隣で良かった、と章灯は思った。この位置ならわざわざ横を見ない限り顔を見なくて済む。情けなすぎてとてもじゃないけどいまは顔を見れない。


「ドアを開けた時にもし部屋がすっげぇ綺麗だったりしたらさ、何つーの、『立つ鳥跡を濁さず』みたいな感じでさ、本当に出てったんじゃないかって思って。だけど、開けたらいつも通りで、ホッとしたら――」

「腰が抜けた、と……?」


 ああ、コレは顔を見なくてもわかる。確実にいま呆れた顔をしてる。そういう声だ。


「ごめん、何か……情けねぇやつで」

「いえ、まさかあの部屋を見て『ホッとして』腰が抜ける人がいるとは思いませんでした」


 晶はそう言うと見るからに甘そうなコーヒーに口をつける。


「『まず』と言って話し始めたということは、まだ続きがあるんですか」

 

 ……ついに来てしまったか。

 腹ぁ括れ、俺!


「あのな……昨日のことなんだけどな……」


 そう言って、ふぅ、と大きく息を吐く。


「昨日謝ったのはさ、お前の気持ちも確認しないでしちゃったからでさ。んで、顔見たらやっぱり何か泣いてたし。まぁ、お前は泣いてねぇって言うんだろうけど」


 晶からの反応はなく、赤いカップを持ったまま微動だにしない。章灯はコーヒーを一口飲んだ。


「それと俺は、お前にちゃんと言ってない」


 そう言うと、カップをテーブルに置いて膝の上に肘をつき、両手で顔を覆った。


「何をですか」


 晶の声がはっきりと聞こえる。


 これはきっと、俺の方を向いている。だったら俺もちゃんと目を見て話さないと駄目だ。


 章灯は顔を覆っていた両手を離し、左隣に座っている晶を見た。やはり晶は章灯の方を向いており、視線が重なった。珍しく晶は目を逸らさなかった。


 ここで逸らしたら、俺の負けだ。晶との勝負ではない。自分自身との勝負である。


 章灯は身体ごと左を向き、ソファの上に左足だけを乗せた。それを見て晶も持っていたカップをテーブルに置く。


「俺は、お前が好きだ」


 目を逸らさずにはっきりと言った。言った後で耳が熱くなるのを感じる。

 晶も目を逸らさずに真っ直ぐ章灯を見つめている。しかし、晶の表情は変わらない。



 あぁ、やっぱり俺の思い過ごしだったのかな。

 でもここまで言ったんだから、最後まできちんと言わないと。



「俺は、女なら誰でも良いとかそういうんじゃなくて、アキにしたかったから、したんだ」


 顔が熱い。

 たぶん、ゆでダコみたいになってるんだろう。

 でも、もう退けない。


 勢いに任せて一息で言い、息継ぎをしようと言葉を切った瞬間、うっすらと目の端を赤くさせた晶が、変わらない表情のまま口を開いた。


「もう結構です」


「――え?」

「もう充分伝わりましたから、結構です」


 そう言うと晶はまだ少しコーヒーの残る赤いカップをトレイに乗せて立ち上がった。


「私は、章灯さんの気持ちに応えられません」

「アキ?」

「でも……、ありがとうございます」


 晶はそう呟くと、章灯の顔を見ずにすたすたとキッチンへ向かってしまった。


 まさかこうもあっさり振られるとはな、と肩を落としかけた時に気が付いた。いつも通りの彼女ではあったが、その瞳は確かに潤んでいたのだ。

 

 章灯はテーブルの上のコーヒーを一気に飲むと、空のカップを持ってキッチンへ向かった。


「アキ、何でお前また泣いてんだ」

「……泣いてませんよ」


 そう指摘すると、見間違いでは済まされないような量の涙が既に頬を伝っており、晶は慌てて袖で涙を拭う。


「その状態で泣いてないはさすがに通用しねぇだろ。そんなに迷惑だったのかよ」


 章灯はため息をつきながら手に持っていたカップをシンクに置くと、マグネットで冷蔵庫に取り付けられていたティッシュ箱を外して晶に手渡した。


 晶は俯き加減でそれを受け取り、調理台の上に置いて数枚抜き取った後、顔に押し付けるようにして涙を拭いとった。そしてそのまま両手でそのティッシュを持ち、両目を隠すようにあてがったままぽつりと呟く。


「……違うんです、迷惑とかじゃ……なくて」


 晶の唇は震え、とても話しづらそうだ。おそらく、ティッシュの下ではまた涙が溢れてきているのだろう。


「本当に……、どうしたら……、良いのか……」


 どうにかそこまで話すと晶はその場にしゃがみこんでしまった。ティッシュを目に押し付けたまま下を向いている。


 章灯は晶の前にしゃがんで背中をさすった。小刻みに身体が震えている。泣いているのだ。


「アキ、困らせてごめん。ちょっと確認させてくれないか。その、しゃべらなくて良いからさ、違う時だけ首を横に振ってくれれば」


 優しく背中を擦りながらそう言うと、違う時だけ、と言ったにもかかわらず晶は頷いた。


「ありがと。でも、違う時だけで良いんだぞ。えーっと、迷惑では……ないんだな?」


 晶は身体をこわばらせたまま動かない。


「気持ちに応えられないっていうのは、他に好きなやつがいるってことか?」


 晶は控えめに首を横に振る。その反応に胸を撫で下ろす。


「じゃ……、どういうことなんだ……。これ、何て質問したら良いんだろうなぁ……。参ったな」


 そうぽつりと呟く。


「えーっと、アキは俺のこと……好きか……?」


 晶は一度ぴくりと肩を震わせたが、首を横には振らなかった。空いている手をぐっと握る。


「でも……それって……俺の『声』だけ……とか……?」


 その可能性もありえると思い、おそるおそるそう尋ねてみるが、晶はゆっくりと首を振る。ふぅー、と息を吐いて握りしめていた手で額の汗を拭った。


「……ぶっちゃけ、俺もうこれだけで胸いっぱいなんだけどなぁ」


 そう言うと擦る手を止め、晶の頭を抱え込むようにして抱きしめた。


「なぁ、アキ。別にさぁ、俺はアキに特別なことをしてほしいわけじゃねぇんだ。キス以上のことだってさぁ、そりゃしたくないわけじゃねぇけどさ。でもアキが良いって言うまでそこは我慢する。俺はさ、アキが毎日美味い飯作ってくれて、良い曲作ってくれてさぁ、ライブとかで笑顔見せてくれれば、それでもう結構満足なんだよ」


 さらさらとした晶の髪に頬を付けると、ふわりとシャンプーの香りがする。

 同じものを使っているはずなのに、それが好きな女から香ってくるというだけで、どうしてドキドキするのだろう。


「……それだと……いままでと変わらないじゃないですか」


 晶はそこでやっと口を開き、小さく震えた声で言った。


「変わらなくて良い。昨日も言ったろ、無理に変わらなくたって良いんだ」

「でも」

「良いんだ。俺はそのままのアキが良いんだから」

「でも」

「俺は、男の恰好してるアキでも、女のアキでも構わない。お前と一緒にさぁ、これまで通りやっていきたいんだ。別に恋人なんてかしこまった言い方しなくてもさ、アキがそう思ってくれるならそれで良いんだよ」

「私で……、良いんですか」


 晶の声は震えている。


「アキが良い」

「どうしたら良いか……。わかりません……、こういう時」

「……いま泣いてんのは、何でだ? 嫌で泣いてるんじゃないんだろ? わからなくて泣いてんのか? それとも――」


 そう言って身体を離し、目を覆っている両手をつかんでゆっくりと剥がした。晶の目からは涙が溢れ、鼻の頭が赤くなっている。


「嬉し泣き……とか?」


 その言葉にハッとした顔をして、目を伏せ、眉間にしわを寄せた。


「……か、かもしれません」

「んじゃ、わかってんじゃね? きっと、少なくともお前の身体はさ。嬉しいって表現してんじゃねぇのかな、無口な主人の代わりに」


 章灯は手を伸ばして調理台の上からティッシュ箱を取ると、新しいティッシュを数枚抜き取って晶の涙を優しく拭き取った。


「気持ちに応えられないの意味がやっと分かったわ。何つーか、自分が不器用すぎるから、彼女っぽく出来ないってことだろ」


 休みなく流れる涙を丁寧に吸わせるようにして拭きながら言うと、晶は目をぎゅっとつぶって小さく頷いた。


「お前は本当に言葉足らずだよなぁ……。別にアキにその辺のラブラブカップルみたいな反応を期待してねぇって。第一、そういうのが好きだったら、お前に惚れてねぇだろ」


 そう言うと、晶は眉間にしわを寄せたままゆっくりと顔を上げた。章灯は晶の額に右手を当て、そのしわを伸ばすように親指で軽くさする。


「そういうの全部引っくるめて好きになっちまったんだよなぁ。参った」


 苦笑してため息交じりに言うと、右手で前髪を掻き上げるようにして後頭部に回し、昨日と同じ触れるだけのキスをする。


「……今度は謝ったりしねぇからな」


 唇を離してニィっと笑うと、晶は頬を赤く染め、少し困ったような顔をして再び目を伏せた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る