♪53 あのヘタレ

 長田おさだからのシンプルな『SOS』というメールを不審に思った湖上こがみが、返信の代わりに電話をかけたのは13時を軽く過ぎた頃のことである。


「とりあえず、いつもの喫茶店で待ってるから」とだけ言われ、一体何事だと車を飛ばして『喫茶 オセロ』に向かうと、いつもの席で見慣れたでかい男がニヤニヤと笑いながら手を振っていた。

 『SOS』なんて、この喫茶店に呼びつけた時点で99%冗談だろうとは思いつつも、それでも残りの1%で彼を案じなかったわけではない。だからこそ、その表情に安堵した。


 もしかしたら、財布を忘れたとかかもしれねぇな。


 そんなことを考えて苦笑する。

 ウェイトレスの「いらっしゃいませ」に対し、「ホットコーヒー」と返すと、そのでかい男の真向かいに座った。


「何だ、どうしたんだよ。あんな勿体ぶった文面の割に余裕そうじゃねぇか、オッさんよ」


 座るなりそう切り出すと、長田は読んでいた文庫本を鞄の中にしまってポケットからスマホを取り出し、章灯しょうとからのメールを表示させ、ニヤついている湖上の前に置いた。

 

 件名:ご心配おかけしました。

 本文:たぶん、上手くいきました。


「ん~? おい、オッさん、これってどういう意味だ……?」


 不思議そうな顔で画面を見つめた後で顔を上げると、長田は満面の笑みを浮かべている。


「あのな……」


 身を乗り出して話し始めた時、抜群のタイミングでコーヒーが運ばれてくる。長田はその姿勢のままウェイトレスを見上げ、「おねーちゃん、俺にもホットコーヒー」と言った。


「オッさん……、店員さんに『おねーちゃん』って……、本当のだぜ、そりゃ」


 湖上は苦笑しながら運ばれて来たコーヒーに口をつけた。


「――で、何だって?」

「とうとう章灯がやらかしたぞ」


 わざと声を潜めてそう言うと、まだ飲む前だったらしく慌てて口を離した。


「やらかしたって、アキにだろ? 何したんだ、あの野郎」


 ニヤリと笑って忌々しそうにそう言い、改めてカップに口をつけた。

 長田は、このタイミングでキスのことを言えば、おそらく吹き出すだろうと予測し、湖上がカップをソーサーに戻したのを見届けてから言う。


「キス」


 言った後でウィンクをしたが、そんなものは視界に入っていないようだった。湖上は口をぽっかりと開けたまま固まっている。


「――コガ? おーい、コガよぅ」


 身を乗り出して肩を叩くと、湖上は驚いた顔のまま「誰と、誰が?」と言った。


「そりゃ、章灯とアキしかいねぇだろ」


 長田が頬杖をつきながらそう言うと、湖上は震える手で目の前のスマホを指差す。


「あ、あんのヘタレが……! で、これとどうつながるんだ……」

「ん? まぁ、はっきりしたこたぁ書いてねぇんだけどさ、たぶん、アキに告ってOK貰ったってことだろ。あの言葉足らずめ。あいつ、本当にアナウンサーなのかな」

「――はぁ? 何あいつ、告る前にキスしたのか!」


 湖上はやっとエンジンがかかってきたようだ。


「そうらしいんだわ。俺が聞いた話だとさ、何かアキの方でも悪くない反応だったみたいでな。まぁ、そうでもなけりゃあのヘタレがアキにキスなんかしねぇわな」


 そう言い終えたタイミングで長田のコーヒーが運ばれてくる。ウェイトレスに愛想よく「ありがと」と言って手を振り、湖上を見た。


「何だ、意外と冷静だな、おやっさんよ」


 もっと荒れるかと思ったんだがな、と思いながら淹れたてのコーヒーを飲む。


「……かおるがよぉ、最初に彼氏を連れてきたのは確か16の時だったんだよなぁ。――で、2ヶ月もしたらさ、今度は別の男連れてくるわけ」


 頬杖をついて窓を見つめ、ぽつりぽつりと話し始める。


「結局、アイツは何人と付き合ったのか知らねぇけどさ、とにかくコロコロ変わるんだよな。で、まぁ俺もこんなんだし偉そうに注意なんか出来ねぇわけよ。ただな、避妊だけはちゃんとしろって言ったんだよな。それだけは俺、胸を張って言えるから」


 そう言うと遠くを見つめたまま得意気に笑う。


「まぁ……、確かにお前、そこだけはしっかりしてるもんな」

「礼儀よ、礼儀。そしたらさ、郁のやつ『そういうことをしようとしてきたから振ったのよ』って言うんだよ」

「へー、さすが郁はしっかりしてんなぁ」

「――だろ? でも、19になって千尋を連れて来てさぁ。しかも、女装してる状態の。で、この人とは全部済ませたからって言うんだよ。女装した野郎だぞ? 俺、目の前が真っ暗になるって初めて体験したぜ」

「郁……結構あけすけな性格してんなぁ……」

「まぁ初体験ってやつはさ、俺も17の時だったし、年齢的にはこんなもんだろって思ってさ、それは良いんだけど、女装した男だぜ……? ああ、まぁ、そういうわけでさ、俺はアキにもいつかこういう日が来るんだろうなってずっと考えてたわけよ」


 そこまで言うと、コーヒーを一口飲んでため息をつく。


「だからさ、ちょっと安心したんだよなぁ。よかった、アキの方は普通の男だ、って」

「普通って……お前……」


 長田はクックックッと肩を震わせて笑った。


「いや、まぁ普通っつーのは章灯に失礼か。でもさ、章灯なら、大事にしてくれんだろ。あのヘタレ」

「だな、下手したら、マジで結婚するまで手ェ出さねぇかもしれねぇぞ。あのヘタレ」



「――っくしょいっ!」


 やべぇ、いまのくしゃみで起きたりしねぇか……?


 泣き疲れたあきらは昼食を食べると、ソファに寝転がり、あっという間にすぅすぅと寝息を立てて眠ってしまった。

 床に胡坐をかいて晶の寝顔を見つめる。基本的な肌の手入れ以外に余計なものを塗っていない彼女の肌は白く、肌理きめも細かい。


 まだあんまり実感ねぇなぁ。


 自分で淹れたコーヒーを啜りながら携帯を開く。そう言えば長田からの返事はまだ来ていない。もう一度自分が送ったメールを見てみる。急いで打ったとはいえ、ちょっと言葉足らずだったな、と反省し、再度メールを作成した。



 件名:お疲れさまです。

 本文:さっきは急いで打ったので、言葉足らずですみません。アキに告白し、無事にOKを貰いました。

    ただ、いきなり態度が変わったりとかはなく、いままで通りです。



 送信ボタンを押し、携帯を畳んでコーヒーを飲む。

 その無防備すぎる寝顔を見て、我慢するなんて言ったけど持つかな、と思った。




「――お、コガ。章灯からメール来たぞ」


 そう言ってメールを開き、文面を確認する。


「やっぱり、当たってたな」


 長田がニヤリと笑って湖上を見る。湖上は口を尖らせ「だな」とだけ言い、すっかり冷めたコーヒーを一気に飲む。


「そろそろ返信してやるか。おい、コガ、夕飯のリクエストあるか?」

「……お祝いだからな。アキと章灯の好きなもんだろ、こういう時は」

「何だよ、赤飯じゃねぇのか」


 茶化すようにそう言いながらメッセージを作成する。


「……赤飯は『女』になった時って相場が決まってんだよ」


 湖上は頬杖をつき、視線を外してふてくされたように言った。


「問題は今後の曲だよな。変に影響出ないと良いけど……」


 湖上はスマホを操作する長田をちらりと見てそう呟いた。



 件名:お疲れ。

 本文:親父の方は大丈夫だぞ。夕飯は章灯とアキの好きなもんにしてくれって言ってる。アキをよろしく頼む。



 メールを送信した後で、先ほどの湖上の呟きに乗る。


「まぁ、バラードは何曲かあっても良いけどさ。……連続じゃなけりゃな」


 そう言って湖上と同じように頬杖をついた。視線を交わし、同時にため息をつく。

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