喫茶店編 :蝶
先輩が慣れた手つきで建物のドアを押す。ドアが開くとほぼ同時に店内の冷気が漏れ出し、肌の火照りを癒してくれた。店内は僕の想像よりも広かった。1階にはカウンター席が4つと、テーブル席が2つ、後は、2人掛けのソファーが、テーブルを挟んで向かい合わせになっているエリアが2つほどあった。2階にも座れるようだったが、2階がどれくらいの広さなのかはよくわからない。店内は寒すぎない程よい温度に保たれている。体力的にも精神的にも疲弊していたので、その喫茶店はある種のオアシスにすら感じられた。
先輩が店員さんと挨拶を交わして、テーブル席へと向かう。床は部室と同じく木造だったが、当然、軋みなどなく、代わりに靴が床を叩く心地よい音が響いた。僕はテーブルに座ってから今一度、店内を見渡してみた。店内はソファーにしろ机にしろ、カウンターの奥に置かれている調度品にしろ、どれも品のいいものばかりが集まっているように思われた。
「そんなに、キョロキョロとしてどうしたんだい?」
先輩は微笑みながらそう言った。僕はその笑顔が好きだった。先輩の笑顔は普段の端正な表情とはどことなく違う、少年のような無邪気さを持っていた。
「いえ、いい雰囲気のお店だなと思いまして」
まるで、自分が初めて海外旅行に行った時の小学生のように感じられた。
「ふむ、好奇心欠乏症の重度患者の君でもこういうことには、興味はあるようだね」
「まぁ、そうですね」
先輩は何が嬉しいのかはわからないが、笑顔のままだった。僕の心は先輩の笑顔が見られて嬉しいのと、先輩にからかわれる恥ずかしさの中で揺れた。
「君は何にする?」
先輩が僕に尋ねる。僕は机の上に置いてあるメニューに目を通してみた。英語でドリンクと書かれた下に紅茶と書かれた場所があり、その下にいくつもの種類が提示されている。だが、僕は一般的な生活を送ってきたただの男子高校生にすぎない。メニューに書いてある単語の意味をこの場で理解するのはハードルが高かった。そもそも、紅茶に種類があるなんてことを僕は知らない。今日まで、この世界には紅茶という名前の統一された規格を持つ飲み物が存在するのだと、思っていた。
「このお店はダージリンが格別なんだ」
僕が新たに出現した世界の概念に対して、戸惑っていると、先輩が助け舟を出してくれた。
「じゃあ、それでお願いします」
僕たちの注文がまとまってから、水をトレーに乗せた店員さんが訪れた。先輩は店員さんが水を置くとすぐに、ダージリンを2つ注文した。店員さんは、ダージリンが2つでよろしいですね、と注文を復唱した。僕と先輩はほとんど同じタイミングで頷いた。店員さんが頭を少し下げてから、ごゆっくりしてくださいと、言って、厨房へと向かう。
「それでは、ここで、迷い犬の幽霊について現在、我々が知っていることをまとめよう」
注文を終えて店員さんがいなくなるとすぐに、先輩が迷い犬の幽霊の話を切り出した。
僕は話を始める前に、水を飲むことにした。歩き疲れてのどが渇いていたのだ。目の前においてある透明なグラスを持ちあげと、すぐに、氷はグラスにぶつかり、乾いた衝突音を発生させた。冷たいグラスを顔の前まで持って行き、外気と内部の温度差で水滴のついたグラスに唇をつける。口唇の神経を通してグラスの冷たさが脳内に伝わってきた。僕はグラスを傾けて、水を口に含む。冷たい水を飲み込むと、喉を通過し、胃に落ちていくのが感じられた。
ひとしきり、水分を感じた後で、冷たい水滴のついた透明なグラスをテーブルに置いてから僕は話を始めた。
「現在、我々が、知っていることのまとめとしては、迷い犬の幽霊に出会ったという報告がいくつか存在する、ということです」
「ふむ、興味深い。続けてくれ」
テーブルの上に肘をついて顔の前で長い指を組んだ状態の先輩が、僕に言った。
「その中でも、最近、ネット上の某巨大掲示板で、迷い犬の幽霊の写真を撮ったというものがいました」
「それは、非常に大きな手がかりになりそうだな。当然、君のことだから、写真のダウンロードはしてあるということだね?」
先輩が僕に尋ねる。僕は返答として、頭を縦に振る。
「それで、これがその写真です」
僕は自分のiPhoneにダウンロードした写真を先輩に見るせために先輩にiPhoneを渡した。iPhoneを受け取った先輩は、顎を手で触りながら画面を見つめた。画面を見つめている先輩は、3度、頷いてからiPhoneを返却した。
「なるほど、一見普通の柴犬のように見えるが背中に大きな黒い羽のような模様がついているな」
「まぁ、ネットの情報ですから、あまり信憑性は高くないと思われますけど」
ネット上の情報をすぐに信じた先輩が少し心配になったので、僕は補足を入れた。だが、先輩は、いや、ネットといえども、馬鹿にはならんよと、言って僕の進言には取り合わなかった。
その時、ちょうど、店員さんがダージリンを運んできてくれた。店員さんはカップとティースプーンの乗ったソーサーをトレーから器用に持ち上げて、僕たちの前においてくれた。僕は目の前に置かれたダージリンを見つめた。限りなく透明感のある茶色の液体がピンクの花柄のあしらわれた白いティーカップの中を満たしていた。ティーカップは飲み口は広がっているが、カップの中頃で少し幅が狭くなっており、下部では再び幅が広がるという構造になっていた。その構造が、ダージリンに対してどういった影響を与えているのかはよくわからなかった。不思議な構造をしたティーカップからはダージリンの放つ草原の中にいるような、とても心地よい匂いが漂ってきた。実際にダージリンと対面するまで、僕のような一般的な高校生にとっては紅茶なんてどれを選んでも感想は変わらないのではないかと思っていた。だが、ダージリンとそれを受け止める奇妙な構造のティーカップの組み合わせは、予想に反して、とても魅力的にだった。
「そんなに、ダージリンを見つめてどうしたんだい?」
僕がダージリンについての知見を深めていると、先輩に話しかけられた。
「いえ、紅茶ってよく知らなかったので、ダージリンと対面することを通じて、紅茶に対しての理解を深めようかと思いました」
僕が答えると、先輩が再び笑った。やはり、何回見ても先輩の笑顔に心は引きつけられた。
「君は、普通の人が興味を持つようなことに対してはあまり興味を抱かないが、普通の人が興味のないようなことに対してだけは、興味があるようだね」
これまで、自分という人間をそのように見たことはなかった。僕は自分のことを一般的男子高校生だと思っている。ただ、確かに、言われてみると、自分という人間の特性としてそういったことがあるかもしれないと、僕は思った。
「すみません」
こういう場合には、謝っておく方が良いことを経験上、僕は知っている。大人たちが求めるのは、大人たちの生きる社会に都合の良い個性である。彼らは自身に都合の悪い個性というものは、わがままや未熟さという言葉で切り捨てる。そして、彼らは切り捨てるという行為が、自らの想像力の限界を示す行為だということにすら気づかない。
「謝る必要はないよ。むしろ、逆さ。紅茶を飲める喫茶店に連れてきただけで反応をしてくれると、私は、まるで、世界の神秘を知っている特別な人間のように感じられる。実際は、普通の人間に過ぎないのにね」
君といると、よくそういう気分になるし、そういう気分は私にとって数少ない楽しみでもあるんだ、と最後に先輩は付け加えた。
僕たちの間には店内のBGMとして流れているショパンのノクターンと、カウンターでコーヒーを沸かす音だけが満たしていった。不意に、先輩の長い指が紅茶のカップの小さな取手を掴んだ。先輩が、ゆっくりと、紅茶のカップを持ち上げて、ゆっくりと唇をカップにつけた。そして、少しだけカップを傾けて、口内でダージリンを受け止める。一瞬だけ間を空けて、先輩の喉が動く。先輩のカップを満たしていたダージリンの一部は喉をすべりおりて、食道を通過し、いずれは、胃に到着することになるのだろう。
僕も自分の手には小さすぎるカップの取手を掴んで、紅茶のカップを持ち上げた。口の前にカップがやってくると、先ほどよりも鮮明にダージリンの香りが鼻腔を刺激した。ダージリンの香りは、僕に自分が新鮮な緑に囲まれた場所にいるような錯覚を与えた。静かにカップに唇をつけてダージリンを少しだけ味わう。不思議な味がした。少し苦いような気もするけど、ただの純粋な苦みではなく熟成された奥深さを持った苦味だった。
僕は先輩の様子を伺った。先輩は紅茶のカップを見つめながら、カップの飲み口を親指で優しく撫でていた。先輩は今、何を考えているのだろうかと、僕は思った。迷い犬の幽霊のことか、それとも別のことだろうか。その答えは、当然、先輩にしかわからない。
喫茶・"ジュ・トゥ・ヴー"を出た後で、僕と先輩はNの証言をもとに駅前周辺を探索してみた。だが、僕たちが迷い犬の幽霊と出会うことはなかった。駅前周辺の探索を終えた時には夜になっていたので、僕は先輩のことを家まで送迎した。その際、先輩から明日の夏祭りに参加しないかという提案があったので、当然ながら、承諾した。
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