花吹雪

血潮

「これは……」


 結界の外で意識を失ったままの千景を抱え、結界を支える二人の精霊の様子を注意深く見守っていた荘司が変化に気づいた。

 巨大化していた結界が縮小していく。さらに、弾けないよう細心の注意を払っていた二人が瞳に強い光を宿した。立っているのもやっとだった二人の足に力が入る。


「結界内の霊気が安定を取り戻した。これなら問題なく維持できるわ」

「……桜緋よ」


 気合を入れ直した水黎とは対照的に梅妃は悲しげだった。

 中で誰がどのように戦っているかは霊気の様子から簡単に窺える。


「これで良いのかえ?」


 ***


 不気味なくらいの静寂が辺りを覆っていた。

 傷の治癒がまだ終わらない桜緋は、塞がりかけた傷口から血が滴るのも気にせず、失血と霊気不足で重い体を持ち上げた。精霊になっているとしても、千尋の生まれは普通の人間だ。通常の精霊と同じように肉体が戦闘に耐えられるかはわからない。璃桜との交戦など危険過ぎた。


「何故。動けない」


 千尋の霊気が体に纏わりついている。これは璃桜から守る結界でありながら、桜緋の動きを封じる性質もあるようだ。


「千尋!」


 桜緋が怒鳴ると、璃桜と対峙していた千尋が吐息をついた。


「動けたら、傷が塞がってなくても首を突っ込むだろう?」

「当たり前だ!」

「霊気も枯渇してる。……今は僕に任せて」

「千尋!」


 拳で地面を殴りつけるが、千尋はもう桜緋の方を見ていなかった。


「俺は姉さんとの片を付けたいんだけどなぁ」


 璃桜はふざけた口調で唇を尖らせる。まるで、不満丸出しの子供だ。

 すると、それを聞いた千尋の全身から霊気が迸った。この戦場を築いている結界が煽られて大きく軋む。


「桜緋と戦いたいなら、その前に僕を倒せ」

「へぇ、そんな大口叩けるようになったんだ。人間って精霊になると偉そうになるんだな」

「そっちは、じきに無駄口が叩けなくなる」


 千尋の姿が掻き消える。


「ッ、隠形か!」


 ここには爆発を収めるために放たれた千尋の霊気が充満している。気配を探ろうにも、充満した霊気がそれを妨げる。


「……なら」


 璃桜は手に持った剣を横に振った。その軌道に璃桜の霊気が注がれ、衝撃波となって空間を激震させる。璃桜は嗤いながら剣舞を披露し、無作為に衝撃波を放つ。


「炙り出してやる!」


 姿が見えずとも、斬撃はいずれ当たる。


「千尋!」

「姉さんは何もできないだろう⁉ 引っ込んでろ!」


 璃桜の言う通り、桜緋は千尋の結界に守られて璃桜の斬撃は当たらず、そして戦いに手を出すこともできない。


「くっ……」


 歯がゆくて仕方なかった。

 刹那、何もない空間から鮮血が噴き出した。突如、白い戦場が赤い血に染め上げられ、濡れていく。


「そこか!」


 璃桜が噴き出す鮮血に向かって距離を詰める。剣を構え、相手が隠形していても確実に仕留める。歪んだ笑みを浮かべた璃桜は勝利を確信して出血点に飛びついた。

 璃桜が千尋が隠形しているであろう空間を斬りつけようとしたところ、千尋が隠形を解いた。肩のあたりから激しい出血をしている。しかし、その目は一切動じていなかった。顕現した千尋の手には刀がある。それは嬉々として迫ってくる璃桜に切っ先が向けられていた。

 千尋は自らが味わっている苦痛を表情の奥に隠し、無言で地面を蹴った。瞬足だった。

 璃桜に避ける判断をさせる間を与えず、自分に向かってくる璃桜に立ち向かい、的確にその胸を貫いた。深く、刃を背中まで貫通させる。千尋の手には、肉を貫き、臓器を抉り、骨を砕く感触がはっきりと伝わっていた。けれど、その衝撃は精霊となった千尋の心には大して響くことはない。邪な存在を斬ることに対して、罪悪感など全く感じない。

 しっかりと肉体を貫いたことを感じ取ってから、千尋は璃桜の体に深く突き刺した刀を横に振り払った。璃桜の左半身は輪切りにされ、そこから血液と肉片が噴く。

 その凄まじい激痛に白目を剥いた璃桜は反射的に吼えた。

 結界内はどこもかしこも血に染まり、一帯に璃桜の咆哮が轟く。地獄そのものがそこにはあった。血に塗れながら、両者は斬り合うことを止めない。どちらかが、どちらかの息の根を止めるまで。

 斬られた肉体を再生しながら、璃桜はまだ至近距離にいた千尋の左腕を肩ごと斬り落とした。これには千尋も呻き、一拍置いて絶叫する。傷口から新鮮な霊気が溢れ、すぐさま再生に取り掛かる。

 この地獄絵図を見ていたのは結界内にいる桜緋だけではなかった。外部で結界を支え、無数に出現する魑魅魍魎を狩っていた者達にも、その光景は見えていた。といっても、彼らに見えるのは白い球体だった結界が中から赤く染まっていく様だけだ。

 水黎は両手を掲げて結界を維持しながらも思わず目を背け、梅妃はまっすぐそれを見つめ、唇を噛み締めていた。荘司も険しい表情で結界を見上げている。


「千尋君……」


 その時、荘司に抱えられていた千景が身動ぎした。


「っ……ち、ひろ」

「千景君⁉ 目が覚めたか。具合は? まだ霊力は全然回復していないだろう。無理に動くんじゃない。俺の近くは大丈夫だから、じっとしているんだ」

「……千尋は」



 うっすらと目を開けた千景は声を出すのがやっとといった状態であっても、荘司に掴みかかり、弟のことを問い詰める。

 荘司が現在の千尋の状態と結界内で起こっているであろう内容を話すと、千景は絶望したように目を見開き、ぐったりと項垂れた。次いで、震えだした。

 荘司は千尋が人間ではなくなったことを嘆いているのかと思ったが、喉の奥から絞り出された次の言葉を聞いてそれは違うと悟った。


「桜緋……ッ」


 千景は嘆きや悲しみではなく、激しい怒りで震えていた。


「千尋を守るって……そう言ったじゃないか……! 封印を決して破らせない、千尋に人間としての生を全うさせるって……それなのに、この事態ってどういうことだ……ッ! お前は、今そこにいて、一体何をやっている……桜緋、答えろッ!」


 その魂からの叫びは身動きの取れない桜緋に届いていた。

 千景も千尋ほどではないものの、桜緋との繋がりがある。千景は昔の璃桜と夢の中において接点があったらしいが、それはきっと千尋と桜緋の関係に引きずられたためだろう。璃桜と千景の関係は、桜緋と千尋の因果があったからこそ生まれたものだ。しかし、千景だって千尋同様、桜の精霊とのえにしを持って生まれてしまった子供ということには変わらない。だから、そんな子供の叫びは桜の精霊に深く届く。

 結界の外で、荘司に大人しくするよう押さえられた千景が渾身の力を込めて叫ぶ。


「これは、お前と璃桜の戦いだろう! お前が動かないでどうする! 俺は……ッ、貴女を信じるしかもう弟を取り戻す方法がないんだ! 頼む、俺の声に応えてくれ、桜緋ッ!」


 その言霊に込められた僅かな霊力が結界内にするりと入り込み、桜緋を守り、縛っていた結界に触れた。結界は千景の霊力に触れられるとガラスが砕けるように軽快な音を立てて弾け飛んだ。


「千景の言霊が結界を解いた⁉」


 肉体と霊力も殆ど回復していた桜緋は素早く立ち上がり、目の前で繰り広げられている殺し合いを見つめた。桜緋の衣装は爆発などに巻き込まれたせいで、もう布の切れ端同然になっている。擦り切れた襟首を無意識に整え、緩み切って切れかかっている腰の紐を締めた。そして上げた顔には、再び覚悟が映っていた。


「今度こそ、この戦いを終わらせる。そして、千尋を必ず人間に戻す!」


 深紅の瞳が瞬く間に緋色に染まり、そして強く輝く。

 桜緋の圧倒的な霊力が小柄な肉体から溢れ出した。


「桜緋……?」

「なんだっ……」


 死闘を行っていた二人も思わず動きを止め、桜緋の方を見る。

 桜色と緋色の光を纏った桜緋が厳かに告げる。


「終わらせる。この身に宿る全ての霊力を使って!」

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