人ならざるもの

 千尋は御守りを千切って捨てた。そして、肉体の変貌が始まる。

 人間の霊気、魂が精霊のそれに組み変わる。見た目には特にこれといった変化はない。けれど、全身に人間の頃とは比べようもない程の力が漲る。その証拠に爆発を体で浴びても傷一つ付かなかった。服が少し切れた程度だ。

 これなら桜緋を助けることができる。しかし、倒れている兄も放ってはおけない。千尋は漲る力を信じて賭けてみることにした。

 虚空に掌を向け、無造作に振る。すると、この空間を作り上げている結界に裂け目ができた。しかも、丁度いいことに荘司が目の前にいるではないか。

 荘司は結界を維持しているために消耗し、疲弊し切っている水黎と梅妃を抱えていた。


「千尋君!? その姿は……」


 霊気の変質を一目で察したのだろう。驚愕で目を見開いている。


「荘司さん、僕のことは今はどうでもいいんです。千景を……兄を頼みます」

「待ってくれ、自分が何をしたかわかってるのか!?」

「わかっていますよ」


 千尋の至近距離で爆発が起こった。右頬の皮が一瞬吹き飛んだが、それも精霊の再生能力で瞬く間に復元される。

 精霊となったことで性格も少し変わったらしい。普段なら常に胸にある焦りや恐怖といった感情が全く湧かない。

 極めて冷静な千尋の様子に千景を預けられた荘司は悔しげに顔を歪めた。封印を破ったことで完全に精霊となってしまったらしい。何を言っても無駄であることは明らかだ。

 荘司の心境を察しているのか、千尋がそっと告げる。


「……頼みました」

「わかった。千景君のことは心配しなくていい。俺が責任を持って預かる。……千尋君も必ず無事に戻ってくるんだ。いいね」

「はい。では、閉じます」


 千尋はもう一度手を振って結界を元通りに閉じ直した。これで力尽きた兄を心配する必要はなくなった。

 無事に戻る。その言葉は既に意味をなしていない気がする。しかし、生きて帰るという意味では、まだ価値があると思いたかった。

 千尋は仄白い霊気を纏った自らの掌を見つめる。もう、元の状態には戻れないだろう。人間の藤原千尋は死んだ。そう言って差し支えない。

 この戦いを終えた後、どうなってしまうのか。

 そんな不安が一瞬、脳裏をよぎったが、それは今考えても仕方ないことだ。今は、自分が成し遂げたいことに執着するだけである。


「桜緋」


 爆風が千尋の髪を乱す。その瞳には、虚無に近い闇が映っている。目的に執着する人でなしの光だ。けれど、家族を想い、仲間を案じ、友人を救わんとする千尋の根本は何も変わっていなかった。

 千尋は地面を蹴り、刃で地面に縫い付けられた桜緋のもとに向かう。道を阻むように発生する爆発を拳で吹き飛ばし、それに伴い砕けた骨は一呼吸のうちに元通り再生する。


「璃桜!」


 薄ら笑いを浮かべて悶絶する桜緋を見下ろしていた璃桜が千尋の声に顔色を変えた。顔を上げると頭上に影があった。


「チッ、面倒なのが出やがった」


 舌打ちして腕を交差し、防御の体勢をとる。同時に、千尋の踵落としが直撃した。踵の一点に霊力を集中させ、璃桜の腕を粉砕せんと力を込める。璃桜も霊力を開放して抵抗してくる。


「ッ、お前……人間、やめたのか」

「だから何だ」

「此奴……っ」


 千尋の性質が変化したことに気づき、璃桜も対応を変えた。こちらもそれなりに消耗している。不本意だが、舐めてかかれば殺られかねない。

 腕に霊力を集中させ、一気に放つ。衝撃波を叩きつけた。


「クッ……」


 千尋は体を捻って回転しながら距離を取り、桜緋の傍に着地した。回し蹴りで桜緋の腹に突き刺さった刃を取り払う。刃が霊気となって霧散すると、桜緋の腹から鮮血が溢れた。


「ぐうっ……」


 激しい苦痛に呻きながらも桜緋が薄く目を開けた。そして、一目で何が起きたのかを察し、腹の底から声を出して絶叫した。


「う、う、う……うああああぁぁぁぁああああッ!!」


 地面に転がっている自分の前に立つ千尋。桜緋を璃桜から庇うように立っている。

 その気配は人のものではない。

 圧倒的な力。それは人間では到底手にすることのできないものだった。


「千尋ぉ……お前……」


 桜緋が泣きながら呻く度、腹に穿たれた傷口からドバドバと鮮血が溢れ出る。口からも血を吐いて、桜緋はひたすら泣いた。

 傷の痛みではない。

 千尋が超えてはならない一線を超えてしまった。千尋が、こちら側に来てしまった。それだけはさせまいと誓っていたのに。自分の至らなさが、彼を人間から外してしまった。

 桜緋は絶望に泣き叫んだ。哭いて、叫んで、口に込み上げる何もかも全て吐き出した。

 すると、目の前に立っている千尋が微かに笑ったような穏やかな声を出した。


「そんなに泣かないでよ、桜緋」


 幼子に泣かれて困っているような、そんな口調だった。


「これは僕が選んだことだから。桜緋に泣かれたら、悲しい」

「馬鹿か、お前は!」


 自分の身に起こってしまった現象を理解していないのか、この馬鹿は。

 千尋を見上げて桜緋は怒鳴る。声を出すと、口の端から血泡が飛んだ。


「お前は、戻れないんだぞ! もう、二度と……人間には!」

「だとしても、僕は皆を救いたいと願った」


 以前、暴走して一時的に精霊化した時と同じように千尋は冷え切った声音で告げた。桜緋を振り返り、傍らに膝をつく。その隙を突いて璃桜が手に短剣を創り出し、千尋の背後を狙う。


「千尋!」


 桜緋が慌てて声を上げるも、千尋は璃桜の方を見ることもなかった。指一本動かすことなく、自分と桜緋を守る結界を築いていた。

 千尋は淡々と、これからのことを口にする。


「まずは、その傷を治そう。あと、この爆発をどうにかしないと。このままじゃ、外のひめと水黎が保たない」


 千尋は桜緋の傷口に手を当てて霊力を注いだ。傷が塞がり始めたのを認めると、立ち上がって両手を天に掲げた。そして、大気に霊力を無造作に放出し始めた。

 その様を見ていた璃桜が若干青ざめた。


「姉さんとの因果だ……繋がりが、奴の霊力を底なしに高めてやがる」


 永い時を超えた因果が千尋の精霊としてのポテンシャルを異常なほどに引き上げている。おそらく、今の千尋は桜緋を超える力を持っていた。

 この結界内で多発していた爆発が千尋の霊気が結界を覆うと収まっていく。完全に爆発が収まると、千尋は手を下ろして璃桜の方を見た。

 冷酷な光を宿した目から放たれる視線が璃桜を貫く。


「これで舞台は整った」


 璃桜は背筋に鳥肌が立つのを感じた。これは恐怖ではない。興奮だ。

 静寂を取り戻した戦場で千尋と璃桜という異質な存在同士が睨み合う。

 千尋の手の中に霊力で生み出した細身の刀が現れた。璃桜も合わせるように、手に持っていた短剣の刀身を伸ばす。

 まだ回復し切れていない桜緋が呟く。


「千尋……?」


 千尋は桜緋を振り返り、微笑む。


「行ってくる」


 最後の戦いが、始まった。

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