逃亡

懺悔の先へ

 千景は自覚していた。

 自分の弱さ。自分の行い。自分の罪。

 しっかりとわかっている。

 自分は負け、堕ちたのだ。

 生まれつきの闇に惹かれやすい体質。嫌でも黒く染まってしまう魂。

 それを自分は克服した。どす黒く染まった霊力を一気に光へと転じる破魔の弓矢。自分はそれを操る者。そう思っていたのに。

 それはただの油断に過ぎず、結果として此の世の厄災とも呼べる魂を引き寄せただけだった。

 千尋を守る?

 自分のことすら、この有様で何をほざく。

 千景は膝を抱えて蹲る。

 背中に伸し掛かるのは後悔と絶望。

 一度穢れに隙を突かれた少年は光を見失い、ひたすら闇を生み続ける。


 ***


 千尋は蹲って肩を震わせている千景を見下ろした。

 兄は黒い塊を纏わりつかせて、ずっとしゃくりあげている。こんな兄を千尋は今まで見たことがない。


「……千景」


 恐る恐る声をかけるも、聞こえていないのか千景はずっと泣いている。

 その身体から溢れるどす黒い霊気は穢れを限界まで吸い込んだ千景のもの。璃桜に身体を使われたことで、こんな状態になってしまった。ここまで穢れを身体に溜めてしまっては浄化は極めて難しい。

 黒い泥、ヘドロのように悪臭をも放つそれ。触れると思うだけで全身に鳥肌が立つ。しかし、これを引き剥がさなければ、千景が正気を取り戻すことはできないだろう。

 千尋は意を決して、兄の身体にこびり付いたそれを思い切り掴んだ。

 刹那、掌に衝撃が走って、千尋は思わず呻き声を上げた。小さい頃、アイスを持ち帰る時にスーパーで貰ったドライアイスに、巫山戯て触って火傷をした時に近い痛みだ。

 そう、つまりはとても冷たかった。

 千景にまとわりついている黒い泥は酷く冷たかった。


「こんなの身体にくっ付けて……」


 千景は大丈夫なのか。

 千尋は急がないと危ないと察し、赤く腫れた掌を気にすることなく、今度は両手で泥を掴む。すると、掌に痛みが走り、指先の感覚がすぐになくなっていく。

 泥の奥の方に腕を突っ込んでいけば、シュウシュウと音を立てて、泥に触れた手首辺りまで赤黒い火傷を負った。それでも、千尋は歯を食いしばって、千景の身体に触れようと更に深く手を突っ込む。

 ようやく千景の身体に触れられた時には、肘の辺りまで火傷が広がっていた。もう、手の感覚は殆どない。

 トンと両方の掌が千景の背中と思しきものに触れた。そして、千尋は戦慄する。

 千景の背中は全く、ピクリとも動いていない。

 息をしていない、ようだった。

 千尋は唇を震わせ、叫ぶ。


「こんなのに呑まれるなよ、千景!」


 千景は昔から陰気を寄せやすい体質だった。自分と双子で生まれたが故に。

 自分と桜緋との間に結ばれた縁に、本当に文字通りのとばっちりを受けた。それが藤原千景である。

 生まれた時から弟のとばっちりを受けて、挙句その体質に振り回されて終わるなんて、そんなことさせない、させる訳にはいかない。


「千景!」


 どうしよう。どうすればいい。

 何度も呼びかけているが、千景は全く応えない。

 千尋は必死に考える。

 そして、ハッと顔を上げた。この結界内にいるもうひとつの気配が急速に近付いてくる。


「璃桜……っ」


 居場所を気づかれた。一人でもこれだけ大騒ぎしていれば、気づかれるのも当然のことかもしれない。

 そのとき、ふと桜緋の顔が脳裏に浮かんだ。

 桜緋なら、こういう時どうする。きっと突拍子もない、一か八かの大博打に出て、それを見事やってのける。

 ここで必要なのは焦りでも、必死の思考でもない。

 閃きと決断だ。


「……あ」


 ここは自分の霊力で作られた結界だ。それなら、多少の無茶をしても、結界から足りなくなった霊力を補給してもらえたりしないだろうか。

 確信などない。むしろ、的外れで命を落とす可能性の方が高い。それでも、ここはホームだ。アウェーではない。

 やってみたいことを思い切って、やってやる。


「千景……」


 目を閉じ、千景の背中から霊気の波動を感じ取る。精霊達の気配を探す時と同じ。

 霊気を探り、波動を読み取り、同調する。

 千景と同じ領域に、自らの意識を沈ませる。

 戻ってこられなくなるかもしれない。それでも、千尋は躊躇わない。

 肉親を甚振られ、そのまま失うなど絶対に嫌だった。


 ***


 千尋が目を開けると、目の前は闇だった。

 どこかふわふわとした感覚は、恐らく千景の意識、すなわち心に直接接触しているせいだろう。

 今の千尋は本体ではなく、意識、魂だけが千景の意識に接続している状態だ。そのため、肉体の方がとても無防備になってしまっている。璃桜に見つかる前に終わらせなければならない。


「……ちひろ」


 頭上から声が降ってきた。

 千尋が視線を上げると、陰気に絡み取られた千景が虚ろな目でこちらを見下ろしていた。濁り切った瞳は、ぼんやりと曖昧な輪郭で千尋の姿を映している。


「千景……!」


 無重力のような不安定さで不思議な感触だというのに、脚で地面を蹴る動作をすれば、ふわりと上に身体が浮き上がる。

 千景は高校の制服であるワイシャツにスラックス姿で、黒い陰気によって全身を雁字搦めに縛り上げられていた。

 ワイシャツの袖口から覗く青白い手首を掴み、千尋は容赦なく引っ張った。すると、引っ張られるまま力なく千尋の前に顔を突き出す千景。

 それを見た千尋はキッと眦を吊り上げ、腹の底から怒鳴った。


「何、簡単に負けてんだよ!」


 闇に包まれた空間全体に千尋の怒号が反響する。


「一度の失敗で折れるな!」


 千景は真っ直ぐこちらを睨む弟を、ぼんやりと眺めた。弟の身体からは強く輝く鮮烈で清浄な霊気が溢れている。自分とは対照的な気高い姿。尚更、こんな自分が醜くなる。


「……お前に何がわかる?」


 どろりと闇に濁った目で千尋を見つめ、唇の端を歪に吊り上げた。


「俺はずっと、お前達の因果に振り回されてきた。振り回されて、終いには利用された。俺はもう疲れた。お前の兄であることも、お前達の因果に付き合わされるのも。桜との繋がりに、俺には何のメリットもない。これ以上、お前達の時を超えた絆って奴に付き合わせてくれるな」


 俺のことなんか放っておけよ。


 唾と共に吐き捨てる。


 お前は、桜緋がいればそれでいいんだろ?


 自嘲気味に言ってやれば、千尋が手首を離した。


「……たれるな」


 千尋が小さく何かを言った。

 だが、それはすぐ大声で繰り返される。


「甘ったれるな!」


 今度は首を掴み、千尋は憤怒の眼差しで千景を見据えた。


「どんなに嫌がっても、抗っても、僕らは兄弟だ。事実は絶対に変わらない。家族はそう簡単に捨てられない。そんなことすら、わからなくなったのか!?」

「俺がここで邪気にでもなっちまえば、兄弟じゃねぇよ!」

「っ……そんなに僕が嫌いか!?」

「きッ……」


 嫌いだ。そう勢いで言ってしまえば、そこで藤原千景という人間は終わっていただろう。人の道を外れ、闇に身を食い尽くされた異形に変貌してしまっていただろう。

 しかし、千景は言えなかった。

 決定的な言葉は口にできなかった。

 それを認めた千尋は凄絶に笑う。これなら、どうにかなる。千景はまだ、堕ち切ってはいない。


「千景、僕は一人じゃ全然ダメだ。桜緋がいても、まだダメだ。……千景がいないと、僕はダメなんだよ」


 千景が目を見開き、周囲に漂っていた陰気が唐突に光り出す。

 ずっと。千尋が精霊や邪気の存在を知る前から、ずっと千景は自分の体質と向き合い、必死に鍛えてきた。だから、眩んだ目を覚ましてしまえば、千景はすぐに。

 黒かった陰気が黄金の陽気に転じ、千尋は千景の精神世界から弾き出された。


 ***


 千尋の意識が肉体に戻ると、既に千景は立ち上がっていた。

 自分よりも遅く気付いた弟に、そっと手を差し伸べる。


「お前の方が起きるの遅いって、おかしいだろ」

「ほんとな」


 苦笑し合って、千尋は千景の手を取り、立ち上がった。


「……ごめん。取り乱した」

「仕方ないさ。璃桜に取り憑かれたら、そうもなる。……けど、千景はどうやって自分の体質を自覚したんだ?」


 ずっと前からの疑問だった。

 精霊を知らず、邪気や陰気だけを幼い頃から知覚していた千景は、一体誰に教わってそれらから身を守る術を学んだのだろう。

 問われた千景は瞼を伏せ、皮肉っぽく笑った。


「小さい頃、俺はよく同じ夢を見た。会ったこともない瑠璃色の瞳を持つ少年が、俺の体質について事細かに語り、どうすればいいのか教えてくれる夢だ」

「瑠璃色の瞳って、まさか」


 千景は静かに肯定する。


「ああ。恐らくは璃桜だ。……今回のことで、やっとわかった。お前は桜緋と繋がりを持って生まれた。なら、きっと俺は璃桜と繋がりを持って生まれてきたんだろう」

「けど、璃桜は闇に呑まれて、精霊としての本能も忘れてる。どうして、千景に助言を」

「多分だが、幼い俺に接触していたのは璃桜の精霊としての部分だったのかもしれないな。最近、夢を通じて絡んできていたのは確実に今の璃桜だったが、あれは違う。……あれは、きっと精霊だった頃の璃桜だ」

「精霊だった頃の、璃桜……」


 桜緋が慕い、相棒として信頼していた璃桜。そんな璃桜が、千景をずっと助けていたとは。

 今では想像もできないが、そうでなかったら千景は早くから邪気を祓う術など持たなかっただろう。


「さて、ひとまずここを出るか。千尋、お前の霊気を強く感じるんだが、まさかお前が張った結界か?」


 切り替えるように千景が周囲を見渡す。空間全体に広がる千尋の霊気に、驚いているようだ。


「まぁ、僕の霊気を使っては、いる。けど、僕が張った訳じゃないから、どう解除するのかは、ちょっと……」


 千尋が困り顔で曖昧に答えていると、千景が急に彼方に目をやった。そして、何かを見つけたのか顔を強張らせ、慌てて千尋を振り返る。


「まずい、伏せろ!」


 その瞬間、青い爆風が二人の身体に叩きつけられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る