魂の在処

「……っ、まずは璃桜を千景の肉体から追い出す。そうしなければ、璃桜に肉体を乗っ取られている千景まで殺してしまうことになる」


 桜緋は千尋を振り返った。


「まだ千景の魂は、あの身体の中にいる。お前は呼びかけて、眠っている千景の魂を目覚めさせてくれ。そして、璃桜から肉体の支配権を千景に取り返す」

「わかった」

「あと」


 桜緋の瞳が微かに揺れる。


「絶対に、無茶はするな。危なかったら、迷わず退け。いいな?」

「……うん」


 千尋の方に身体ごと振り向いた桜緋は千尋の頬を包むようにして触れ、自らの霊気を流し込んだ。

 璃桜は強い。自分と時を同じくして生まれ落ちた精霊であるがゆえに、その実力は自分とほぼ変わらない。千尋を殺めることなど、赤子の手を捻るようなものだ。

 それをわかっているからこそ、桜緋は念には念を入れて、千尋に霊気の加護を与え、ポンと両肩を叩いた。


「……よし」

「じゃあ、行ってくる」

「ああ。あと、くれぐれも」

「御守りの封印を破らない。わかってる」


 千尋が駆け出すと、桜緋は再び璃桜との戦闘に集中し直した。千尋とこうやって話している間も、ずっと意識は璃桜に向いていて、激しい攻撃を防ぎ、同時に反撃も行っていた。

 凄絶な笑みを浮かべて、こちらに攻撃を加えているのは千景だ。見た目は千景である。しかし、桜緋の目にはしっかりと璃桜の姿が映っていた。

 時を同じくして生まれたが故に酷似した容姿。穢れてもなお美しい瑠璃色の瞳。忘れる訳がなかろう。


「……弟、か」


 この道が、己に課された宿命ならば。

 桜緋は真っ直ぐ璃桜を見据え、小さく呟いた。


「私はお前を殺す。もう、躊躇わない」


 ***


 激しい殺意と霊圧の嵐。その中を駆けるというのは骨が折れる。

 千尋は喘鳴混じりの息を吐きながら、絶えず攻撃してくる璃桜に向かって、懸命に走っていた。足が重い。息と共に胃液まで吐き出しそうになる。体にかかる圧力が凄まじい。ほんの少しの距離だというのに、途方もなく遠い。

 視線の先にいる千景は目を見開き、唇の端を吊り上げて嗤っている。いや、見た目は千景だが、あれは違う。気配が人間ではない。魂を封じられ、璃桜の依代――ただの容れ物と成り果てた千景の肉体だ。璃桜の思うがままに使われる傀儡。

 桜緋のかけた守護によって、辛うじて身体を動かせているが、油断すれば、すぐ霊圧に呑まれてしまうだろう。そうすれば、自分は一溜りもない。


「……っ」


 千景の肉体。そこから迸る霊力は璃桜のもので、桜の匂いを纏っている。

 桜の匂い。それは、桜緋も纏っている匂いだ。

 桜緋の身体からは常に桜の匂いがした。仄かに甘く、スっと鼻の奥に通る匂い。桜緋が隠形しても、その匂いだけは喉の辺りに残った。

 しかし、千景の身体から溢れる匂いは酷く異なっている。

 璃桜の霊気から立ち上る臭いは腐臭だった。

 穢れに穢れ、陰に満ちた精霊の霊気。もはや、瘴気だ。だが、桜の匂いは意外にも濃い。むしろ、桜緋よりも甘い、甘ったるい臭いがした。

 甘ったるくて吐き気がする。


「千景……ッ」


 外界とは隔絶された異空間。冬の寒さだけは外界と同じ。

 充満する濃密な霊気。清浄な霊気と穢れた瘴気。それらが竜巻のように渦を巻く。


「目ぇ、覚ませよ……!」


 走っている勢いのせいか。紐で首からぶら下げている御守りが、服の下から飛び出した。

 そして、千尋は聞き覚えのある声を聞いた。


『繋がれ』


 嘘だ。

 あの人は他の場所で瘴気の一掃に奔走しているはず。

 千尋がそう思う間もなく、御守りから光が迸った。荒れ狂う霊気の光の中でも、それは鮮やかに輝く。


「千尋!?」


 桜緋の驚愕に満ちた声を聞きながら、千尋の意識は暗転した。

 千尋の身体が倒れ込んだ先には、同じく驚いた様子の千景璃桜


「おい、なんだ……っ」


 霊気を爆発させて千尋の体を吹き飛ばそうとしたが、それは叶わなかった。

 御守りの光は千景璃桜の身体をも包み込み、閉じ込める。


「これは、一体……」


 桜緋は霊力を収め、唖然とした。

 目の前に現れた霊力の球。見事な球体である。その中に取り込まれた双子。


「千尋の力、なのか……?」


 千尋の霊力は、このくらいの芸当を成せる程に強くなっている。しかし、肝心な本人の腕前がない。力は強くとも、技術が足りな過ぎる。


「わからん……」


 そう呟いても、事態を見守るしかないだろう。手を出したら、何が起こるかわかったものではない。

 だから、桜緋は青白く輝く巨大な霊力の球を見上げることしかできなかった。


 ***


 違和感を覚えたのは、いつのことだっただろうか。

 千尋が桜緋という精霊と出会った頃だっただろうか。それよりも、前だったか。

 曖昧な記憶。そのくらい、当たり前になってしまっていた。

 千景は夢を見ると、偶に恐ろしい声を聞いていた。


『俺に、寄越せ……』


 伸びてくる青白い手。自分を捕まえようと、しつこく追いかけてくる。

 恐怖の追いかけっこ。

 自分は逃げた。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、……逃げ続けた。

 毎晩のように、夢の中で追いかけられた。

 日に日に疲れてくる。

 足取りが重くなって、ついには。


「……捕まっても」


 いいんじゃないか――――?


『ッ……捕まえた』


 肩を強く掴む青白い手の主を振り返る。


『俺とお前は一心同体だ』


 桜緋に、似ているな。

 千景は虚ろな瞳で、他人事のようにそう思ったのだった。


 ***


 千尋が気づくと、目の前は白一色に染まっていた。

 さっきまでの寒さはなく、過ごしやすい温度だ。


「……ここは、どこなんだ……?」


 無意識に胸元に手をやる。

 服の下から出てきた御守りが仄かに発光していた。


「御守りは封印のはずじゃ……」


 千尋が不思議そうに首を傾けたとき、また別の場所でも戦いは繰り広げられている。


 ***


 街中に湧く邪気の掃討に追われている荘司は、和葉と楓雅の二人と組んでいた。

 次から次へと湧く邪気を潰しているが、キリがないことこの上ない。しかも、肌に僅かにでも付着すると、霊力を吸い上げられて体力を削られる。


「なんで一緒なのよ!」

「さぁね、何かのご縁かな」


 苛々を抑えることなく叫び散らす和葉に、荘司はのんびりとした口調で応えて、その火に油を注ぐ。


「私と楓雅だけで十分よ!」

「そう言われても、ここに邪気が集中しているんだ。しかも、ここ学校の目の前だし、早めに祓うべきなのは一目瞭然だろう?」

「ぐぬぬ……言い返せないのが本当に腹が立つッ!」

「そんなに嫌われることしたかなぁ?」

「別に、そんなんじゃない!」

「……ああ、そうか。楓雅と二人の方がいいよねぇ。お邪魔したのはすまないと思ってるけど、流石に仕事だし」

「そんなんじゃないわよッ!」


 図星だったのか和葉は、あからさまに真っ赤になって言い返す。

 荘司はそんな和葉を横目で見ながら、面白いなぁと小さく呟いた。彼女は邪気祓いと楓雅が絡むと感情的になって、見ていて本当に面白い。普段とのギャップが激しい。

 ここは汐入駅の近くにある住宅密集地。小学校や女子校といった学校も密集した土地で、坂と階段が多く、動きにくいことこの上ない。周囲一帯が異空間化してしまっていても、地形はそこまで変わらなかったため、タチが悪い。


「そういえば、荘司」


 和葉を守るように戻ってきた楓雅が荘司を振り返った。


「先程、何か唱えていたが何だったんだ?」

「そうなの?」

「ああ。俺の耳には聞こえた」

「……なんてことはないさ」


 荘司は肩を竦めて邪気の攻撃を避ける。

 坂や石段から溢れる泥のような邪気に霊圧を加えて滅しながら、荘司は微かに苦笑した。


「頑張ってるみたいだから、ちょっと手を貸しただけだよ」


 ***


 ほんのりと温かい御守り。それから漏れる霊気は紛れもなく自分のものだ。

 同様に、周囲からも慣れ親しんだ自分の霊気の波動を感じる。


「御守りから出た霊力が、この空間を作ったのか……? それに、さっきの声……まさか」


 荘司が千尋に与えた御守りはただの封印のための呪具ではない。これは千尋の有り余った霊気を千尋の体内から吸い上げることで、封印という形をとっている。

 そのため、必要とあらば千尋個人では扱いきれない膨大な霊力を、荘司が御守りを介して間接的に扱うことにより、千尋では到底成し得ない術を行使することができる。

 御守りを通して事態を把握していた荘司が手を出して、この広大な結界を作り上げたのだ。


「……要するに覗き見されてるってわけですか」


 千尋は苦笑して立ち上がった。

 自分とは異なる気配が二つある。吸い込まれたのは自分ともう二人いるらしい。


「桜緋の気配じゃない……なら」


 千景と、璃桜だ。二人は同化しているはずだが、もしかしたらここに引き込まれる拍子に千景の身体から璃桜が抜けたのかもしれない。

 なら、急いだ方がいいだろう。璃桜よりも先に千景を見つけなければ。先を越されて、また千景に憑りつかれたら大変だ。

 千尋は周囲を確認しながら、千景の気配がする方に向かって駆け出した。温かい自らの波動が脈打つ白い地面を蹴って、千尋は兄の元へ軽やかに走っていく。

 どれくらい走っただろうか。千尋の息が上がり始めた頃、何もない純白の大地の向こうに、ぽつんと黒い影が見えた。

 それを認めた千尋は小さく呟いた。


「千景……」


 それは、その場に蹲り、噎び泣いている兄だった。

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