もうひとりの
「璃桜」
そう、千景の身体を奪った者は名乗った。
千尋は眉を寄せた。名乗られても、全く聞き覚えのない名だった。
「璃桜……?」
「そう。俺の名は璃桜」
「お前は何者だっ……どうして、千景の身体を」
「そうそう。この身体、すごく使い心地がいいよ。俺、今まで色々な依代使ってきたけど、ここまで馴染むのは初めてだ。……やっぱり、繋がりってのは大事なもんみたいだね」
最後の方は独り言に近くてよく聞こえなかったが、色々な、という部分をやけに強調していた気がする。
璃桜は苦笑した。察しの悪い弟を見るような目で璃桜は千尋を見ている。
「そうだなぁ……わかりやすく言うなら、魂に陰気を溜め込んでた男の子とか、あれは面白かったけど、あっという間に陰気で魂が満ちちゃってね。居候する隙間すらなくなって、すぐ引っ越す羽目になった。俺が依代を見つける間、ちょっとでも暮らしやすくなるようにずっと獲物を探してる邪気を、わざわざ起こして餌を提供してみたりしたけど、すぐ祓われたしさ。ほんと、生きにくい世の中で困っちゃうよ」
どちらも聞き覚えがあった。それどころか、自分はほぼ当事者だ。
魂に陰気を溜めて邪気化しかけた城ヶ崎後輩。和葉の妹と楓雅の友人である巫女を喰った邪気。
どちらも、自分が関わってきたことだ。
まさか。まさか。まさか。
頭から、さっと血が引いていくのを感じる。震える唇で恐る恐る問いかける。
「全部……今年僕が関わってきた事件、全部お前の仕業だって、言いたいのか……?」
璃桜は無邪気に笑った。
「全部かどうかは知らないけど、そうかもしれないね」
だって、と璃桜は邪悪な笑みを浮かべる。その瞳には油断できない鋭い光が宿っていた。
「俺が目覚めたの、今年の春先だもん」
千尋は悟った。
此奴だ。
全部、此奴が目覚めてから狂い始めたんだ。
春の邪気。夏の邪気。秋の邪気。季節が巡るごとに、定期的に現れる強力な邪気。
全て、繋がっていたのだ。この璃桜という少年の活動に触発されて、起こっていたことだったのだ。
しかし、まだこの少年が何者なのか聞いていない。
千尋が改めてそれを問おうとしたとき、璃桜が呆れ顔になって千尋の背後を覗くように腰を曲げた。
「ねえ、千年ぶり……だったかどうかもよくわかんないけど、久々の再会だってのに、ずっとそのガキの後ろで震えてる気?」
千尋は弾かれたように後ろを振り返った。
桜緋は顔面蒼白で、呼吸も浅く、足は端から見てもわかるほどに、がくがくと震えていた。
千尋が驚いて声も出せずにいると、桜緋は細く息を吸って吐いた。
そして、そっと千尋の前に歩み出た。
璃桜は桜緋を愛しむような優しい目で見つめる。
「相変わらず綺麗だね。姉さん」
***
瘴気が璃桜を慈しむように活性化している。重苦しい空気も、璃桜にとっては居心地の良い揺り籠だった。
桜緋は心の中で情けない己を叱咤した。こういう日が来ることは薄々勘付いていただろう。怯えてはならない。それでも、宿敵ともいえる存在の復活を受け入れたくない自分がいた。
「……自らの肉体を再生できぬくせに、魂だけ覚醒したか。この死に損ないが」
「酷いなぁ。実の弟に向かってそんなこと言う? 普通」
「私達は時を同じくして生まれ落ちただけの関係だ。血の繋がりなど存在しない」
「けど、姉さんはずっと、俺のこと守ってくれてたよね。封印したのだって、俺のためなんでしょ?」
桜緋は璃桜の言葉に文字通り吐き気を覚えて顔を歪めた。
「私の力が及ばなかったまでのこと。できることなら、あのとき葬ってしまいたかった」
「へぇ……俺のこと殺せなかったんだ。実力不足で」
璃桜はからりと笑う。
「本当は、可愛い弟を殺したくなかったんじゃないの?」
「まだ戯言をぬかすか!」
桜緋の霊力が爆発し、刃となって璃桜を襲う。
「桜緋!」
千尋は璃桜の周りの瘴気が瞬時に揺れたのを見逃さなかった。木刀を構えて桜緋の前に躍り出る。
「馬鹿、お前の敵う相手じゃない!」
桜緋が目の色を変えて咄嗟に千尋を守る結界を張ったが、一瞬遅かった。千尋が握っていた木刀が一閃で粉々に切り刻まれた。
千尋は呻いて木片を放す。掌からボタボタと血が垂れた。
大晦日の冷気も相まって、千尋はがたがたと震えた。目の前の奴は、尋常じゃない。恐ろしさで身が竦む。
いつの間にか、周囲に強力な結界が張られている。これは桜緋のものではない。璃桜が張ったのだ。
「
姉さん。俺さ、一応怒ってるから。封印なんかしてくれてさ。だから、ちょっと喧嘩してもいいよね。
そんな言葉を吐く璃桜に、桜緋は冷めた目を向けた。
「……精霊の本能すら忘れ去ったお前を生かす理由もない」
「じゃあ、殺し合いだ! でも、どっちが有利かな」
璃桜の瞳が妖しく光る。
「弱ったガキを連れてる姉さんが俺に勝てるとは思えないけど」
桜緋は返事をしなかった。
璃桜を潰すための霊圧を以て、返事の代わりとした。
***
桜緋も璃桜も接近戦をしなかった。
璃桜は人間の身体を使っているせいで、動きに制限があるのを嫌がっている。桜緋は霊力を駆使しながら、傍らで掌を圧迫止血している千尋に璃桜について静かに語って聞かせていた。
「遥か昔、私が生まれ落ちたとき、同時に生まれ落ちたのが璃桜だ」
霊力の刃と瘴気の刃が互いに相殺して爆ぜる。
「私は桜の陽気を司る精霊として生を受け、璃桜は桜の陰気を司る精霊として生まれた。しかし、桜というのは恐ろしい。陰気を溜めやすいものでな。時の流れや人々の心の移ろいに、過剰に反応して陰気を増産していた」
瘴気が頬を掠めて血が滲むも、桜緋は気にせず霊圧をかけて璃桜を追い詰める。もちろん、千尋には危害が及ばないよう守護の結界をかけている。
「璃桜も最初は普通の精霊だった。邪気から此の世を守る存在として日々を過ごし、私の良き相棒だった。……人間でいう双子の弟のような存在だった。けれど、璃桜は桜の溜める陰気に酷く影響されるようになり、終いには変質してしまった」
此岸を守る者から侵す者へ。変貌した璃桜は暴走し、人間に害を与えるようになった。
冬の凍てつく空気が、桜緋の当時の行いを責めるように肌を刺す。
「私は璃桜を最初、治そうとした。話せば、祓えばわかる。そう思っていた。しかし、その考え方が甘かった」
当時を思い出すだけで、罪悪感で胸が押し潰される。
「お前の前世……義行に璃桜は手を出そうとした。あれの霊力が魅力的で、餌にしたかったのだろう。無論、私は激怒した。私と璃桜は殺し合い、互いに相討ち同然の重傷を負った。そして、私は辛うじて残った霊力を使って、璃桜を桜の陽気の中に封印した。あの子も桜の中で長い時間眠れば、いつか元に戻ってくれると願ってしまった。……結局、ただの無駄だったが」
瘴気ではない、普通の冬の風が吹いた。冷たい木枯らしは、桜緋を糾弾しているかのように、強く身体にぶつかった。
「私はその後、長い眠りについた。眠りから覚めたとき、そのときがちょうど義行が亡くなる朝だった。……そんなことはどうでもいいな。とにかく、私は璃桜を今度こそ殺さねばならない。ずっと隠してきて、すまなかった」
千尋は止血を止めて、桜緋の細い肩に触れた。血はもう止まっている。
「千尋?」
「……感想は、言わないよ」
「……」
「これは桜緋がずっと抱えてきたことなんだ。それで、桜緋はちゃんと自分で蹴りをつけたいと思ってる。だから、今回の件に精霊組合を介入させないよう支部長さんに話をつけた。そうだろう?」
精霊組合が介入すれば、個人の因縁などお構いなしに璃桜は多数の手によって祓われる。それを桜緋は是としなかった。
千尋は微かに笑った。強張っているものの、その笑みは桜緋を支えるに十分なものだった。
「だから、桜緋の好きにすればいい。僕に手伝えることがあるのなら、言って欲しい。何もせず、大人しく殺されないよう控えていて欲しいなら、そうする。……桜緋。僕はどうすればいい?」
桜緋は束の間、目を閉じた。
涙が溢れそうになるのを堪え、頭を振る。
次に目を開けたとき、桜緋は決断していた。
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