冷たい瑠璃

 千景の様子がおかしい。

 瘴気や陰気、邪気に、目も虚ろになっている。


「千景、どうしたんだ!」


 手から弓を落とし、瘴気達にされるがままになっている。これはどう考えても、まずい状況だった。


「千景から離れろ!」


 千尋は叫んで、木刀を振り下ろし、千景の身体に集まる瘴気を散らすように振り回す。しかし、千景に纏わりついた瘴気は全く離れなかった。

 これでは駄目だ。こんな力じゃ、千景を助けられない。

 胸元の御守りが怯えるように震えた。

 千尋は千景を見たまま、震えるそれを掴んだ。

 これがなければ、自分は兄を救える。これを、この封印を破りさえすれば……


「千尋!」


 鋭く、桜緋の声が飛んできた。

 桜緋はこちらに駆け寄ると、御守りを持っている千尋の手首を掴んで揺さぶった。


「何を考えている!? お前、それをやったら今度こそ人間じゃなくなるぞ! 次は二度と戻れなくなると、わかっているだろう!」

「けど、千景を助けるにはこうするしか……!」

「そうして助かった千景は、自分のせいで弟を失ったと、自分を糾弾しながら今後生きていく羽目になる!」


 桜緋の厳しい指摘で千尋はハッとした。御守りを握っていた手を離し、ゆっくりと下ろす。

 そうだ。自分がいなくなったら、皆が悲しむ。

 そう思って、千尋は唇を噛み締めた。じゃあ、自分はどうすればいい。目の前で侵されていく兄を自分は見ていることしかできないのか。

 すると、桜緋が低く呟くように言った。


「……私がやる」

「桜緋」

「私が引き剥がす。千尋は周辺の瘴気の相手を」

「……わかった」


 妖しい風がざわめいた。

 瘴気の風は辺りを包み、嘲るようにこちらの髪をかき乱す。風が孕んだ桜の香りは酷く心地好いもので、思わず身を任せてしまいそうになるほどに、心身に自然と染み込んでくる。しかし、これを受け入れてはならない。受け入れたら、最後自我を保てなくなるだろう。今の千景のように。

 千景は瘴気に心の隙を見せてしまったのだろう。付け入る隙を与えてしまったのだろう。


「千尋」

「なに?」

「……お前の家族も私が守る。私はお前とお前の愛する者全てを守護する」

「それは僕との因果が大事だから?」

「それもある。……だが、最近は違うな」


 もう遠くなった旧友の穏やかな笑顔が桜緋の脳裏をよぎった。

 去年辺りは千尋とまみえる度に、この顔を思い出して感傷に浸り、千尋と接しながらも、旧友と接しているようないびつな満足感を味わい、それを楽しみに千尋という人間と共に在った。我ながら不純にもほどがある愚行だった。

 しかし、今はもう違う。

 千尋があれの転生であることは、始まりの切っ掛けに過ぎない。そう思うようになっていた。

 千尋が千尋であるから、千尋という人間だから、桜緋は傍に在る、共にいる。千尋個人を大切な存在と感じ、守りたいと思い、願っている。

 千尋が旧友の転生者であることは、もう桜緋の中では大きな要素ではなくなっていた。

 端的に言ってしまえば、桜緋は千尋が好きなのだ。義行という旧友の転生であることは、もう関係ないと言ってしまってもいい。

 だから、転生であるがゆえに――自分との繋がりがあるがゆえに――千尋が人として壊れてきていることに対して、桜緋は責任と罪悪感を抱いていた。


「……ならば、せめて」


 風にかき消されてしまうくらい小さく呟く。

 私はその千尋が愛する家族を守り、救わねばなるまい。


 ***


 心臓に氷塊が押し込まれるような冷たい圧迫感があった。

 何かが無理矢理、この肉体に入り込もうとしている。拒むべきなのに、その意欲が湧かない。

 目の前は闇だった。

 自分の名を叫びながら木刀を振るう双子の弟の姿も、友の家族を救おうと使命感に駆られる精霊の少女の姿も、もう目には映っていない。

 眼前に広がる闇は、街灯のない深夜の大空に似ていた。

 昔、家族で山へキャンプに行ったことがある。そのとき、三人兄弟揃って、こっそり夜中テントを抜け出し、キャンプ場の外まで星空を見に行った。そして、最終的に心配して駆け付けた両親に三人で大目玉を食らったのだが、あの時の夜空に目の前の闇は似ているような気がする。

 緑の匂いを孕んだ空気。茂みから聞こえる虫の声。見上げれば、満天の星空。どこまでも続く広大な自然は、人間の存在など気にせず、全てを包み込むようにそこに在った。

 どこか安心する闇。

 しかし、これは受け入れていい闇ではない。

 そんなことはすぐにわかる。現在の状況から考えて、わかって当然のことだ。

 ……当然とは何だろうか。

 視界を支配し始めた闇は、肉体に入り込む闇は、柔らかくこの身を包み、母のように優しく触れてくる。自分は産まれ落ちた時から弟がいたせいか、母を独り占めしたことがない。

 だから、こんな風に優しく、独占できる温もりは、自分がずっと望んでいたものだった。ずっと、欲しいと心の底で願っていたものだった。これは我儘だと思って口にしてこなかったものの、確かにこれは胸に抱いていた仄かな願望だった。


 いつの間にか千景は、自身を侵す瘴気を快く受け入れてしまっていた。


 ***


 千景の身体に桜緋の霊気が覆い被さるも、瘴気が消えることはなかった。


「っ……受け入れて、いるのか。瘴気を」


 桜緋は右腕を千景に向けて伸ばし、掌を広げた。できれば直接触れて瘴気を引き剥がしたいが、それをするとこちらが侵される。あの瘴気は千景を侵食し始めている。下手に接触すれば、巻き込まれかねない。


「千景、目を覚ませ!」


 声に応じて桜緋の霊力が爆発する。螺旋状に桜緋の腕から霊力の花弁が顕現し、渦となって千景を覆う。


「千景!」


 背後で他の瘴気を斬っている千尋も振り返って兄の名を叫ぶ。

 二人の呼びかけと努力も空しく、千景の首から力が抜け、がくりと下を向いた。

 そして、千景を覆っていた瘴気がバチンと音を立てて弾ける。


「千景……?」


 千尋も瘴気の相手を止めて千景の方を向いた。

 瘴気から突如解放された千景はしばらく動きを止めて脱力していたが、不意に顔を上げた。

 二重瞼の奥から覗く瞳の色を認めた桜緋が息を詰まらせる。


「っ……おま、え……」

「桜緋?」


 怯えたような声を出す桜緋を千尋は不思議に思って振り返る。

 桜緋の顔は真っ青だった。わなわなと唇が震え、今にも倒れそうな酷く血の気のない顔で千景の目を見ている。


「……い」


 千尋は自分の耳を疑った。千景はこんなに高い声を出せない。中学生の頃に声変わりをしてから、千景は落ち着きのある低い声音しか出せなくなっている。女の子にも聞こえる声音が千景の喉から発せられるなんて、本来ならあり得ない事態だ。

 千尋もようやく異変に気づき、怯える桜緋を庇うように前に出て、額に脂汗を滲ませながら努めて太い声で問う。気を抜くと声が震えそうだった。


「お前は、誰だ」


 千景が真っ直ぐ千尋に向き合った。いや、此奴は千景ではない。

 千景の身体を奪って、勝手に使っている、誰かだ。


「俺の……名前?」


 半開きだった瞼がしっかりと持ち上がり、千景のものとは異なる瑠璃色の瞳が露わになる。

 千景の身体を奪った者は薄く笑って千尋の問いに答えた。


「璃桜」

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