蔓延する被害

 桜緋は支部長の執務室に入ると、その場で正座をし、そっと頭を下げた。


「お、桜緋?」

「この度は桜が原因の事案を発生させてしまい、誠に申し訳ない」


 それを聞いた美里は苦笑してデスクから立ち上がり、そっと桜緋の脇に膝をついた。


「そんなに気負わないで、桜緋。我々は今回の事案が貴女の怠慢だとは思っていないわ。むしろ、貴女がこうして協力してくれることに感謝してもしきれないわ」

「しかし、これは精霊として赦されることではない。人間が赦しても、私は精霊として私自身が赦せぬ。自らの象徴が瘴気の温床となるとは……」


 桜緋は顔を上げ、美里を見上げた。


「私の失態は私自身で蹴りをつけたい。組合員達に出しているであろう事態収束の命を解いて欲しい」

「何か策はあるの?」

「このような事態は情けないことに。策は用意している」

「なら、その策を伺いましょう。さ、座ってちょうだい」


 ***


「まず、私から言っておきたいことがあるの」

「支部長さんから?」


 美里はタブレット端末を取り出し、地図アプリを起動した。


「今回の事案。規模が尋常じゃないの」

「というと?」


 千景は美里とは初対面だが、軽く自己紹介と挨拶をし終えてから、緊張した様子もなく言葉を交わしていた。人見知りをしやすい千尋とは異なり、千景は誰が相手でも物怖じせず泰然としている。


「本部からの連絡によれば、今回の事案は関東地方全域に及んでいる。しかも、更に拡大中よ。全国の精霊組合が総出で事の対処に当たっているわ」


 美里は地図を指差して、どのくらいの規模か示した。


「関東全域って……」

「しかも拡大中と来たか……」


 千尋と千景が息を呑み、桜緋は唇を噛み締めて呻くように言った。


「これほどに事態が深刻化しているとはな……一刻も早く動かねば……これ以上、私の失態によって人間に迷惑をかけるわけにはいかん」


 ***


 高層ビルの屋上に暗雲が垂れ込めていた。

 それを睨みながら和装姿の男は、傍らにいる歳の離れた幼い妹の肩に手を置いた。


「美月」

「うん」


 陰気と瘴気の渦を感じながらも、美月は気丈に頷いた。隣に立つ兄の左腕にしがみつき、ぎゅっと目を閉じる。

 兄のためなら頑張れる。けれど、怖いものはあまり見たくなかった。

 そうやって怯える妹を連れてきてしまったことに罪悪感を覚えながらも、悠司は目の前で積乱雲の如く荒れ狂う霊気の澱みを見据えた。


「桜の、気」


 低く呟く。

 横須賀にいた、あの精霊の娘。この事態は彼女と何か関係があるのだろうか。

 そんな疑問が浮かぶも、悠司は静かに首を振って余計な思考を頭の隅に追いやった。

 その辺りのことは美里との連絡で確認をとればいい。今は、目の前の澱みを正すことの方が先決だ。


「美月、頼む」

「はい」


 目を閉じた美月の髪が風もないのに不自然に揺らめく。美月の澄んだ霊気が、ゆらゆらと揺れている様が視界の端に映った。

 そして、その身から溢れる霊気は腕を通して全身に流れ込んでくる。

 美月から流れ込む霊気は霊体と共鳴し、こちらの霊力を高める。

 美月は他人の霊力を高める能力を持っている。生まれ持っての才覚は、富士宮の嫡男が持つ圧倒的な力を飛躍的に強化していく。


「……美月、また大きくなったな」

「え?」


 全身を高速で循環する霊力の赴くままに、悠司は空を見上げ、凄絶な笑みを浮かべた。

 美月はそれを見て怖気づき、咄嗟に兄の腕を離しそうになってしまったが、それを許さないとばかりに兄は叫ぶ。


「美月!」

「っ、は、はい!」

「俺の霊力をここまで昂らせるとはな。さすがは富士宮の娘だ。……これからも、精進しなさい」

「……はい。悠司兄さん」


 一回り以上歳が離れた上の兄。並んでいると、最早親子と間違えられることもある。しかし、この長兄の言葉は末っ子である美月の胸に深く届き、長く留まる。道標のようなものだった。どんなに歳が離れていようと、美月にとって悠司は尊敬に値する兄なのだ。

 美月の敬意に満ちた視線を感じながら、悠司は美月がしがみついていない方の腕を上げた。


「満ちよ。満ちて、満ちよ……」


 美月の力で昂った霊力が片手で組んだ刀印に集中し、熱を持ち始める。綺麗に揃えた指先が青白く、霊力によって発光している。

 悠司の強い霊視能力は、この瘴気によって苦しむ人々の声をも捉えていた。まだ序の口の段階であっても、敏感な人々は既に影響を受け始めてしまっている。このままでは、鈍い人間にも危害が及ぶだろう。

 根本的な解決はまだ出来まい。ならば、せめてもの時間稼ぎをせねばらならい。

 悠司は荒れ狂う瘴気を睨みつけ、刀印を振り下ろした。


「滅ッ!」


 その一撃は目の前の瘴気を打ち祓うだけに留まらなかった。

 悠司の高められた霊力は衝撃波を生み、大波の如く一帯に広まっていった。しかも、霊力は勢いを失っても消えることはなく、広く、広く、遠くまで迸った。


「……これで」


 一時的にでも瘴気が祓われたことで、雲の隙間から日が差してきた。その明るさはこの地を覆う瘴気を打ち消す陽気を孕んでいるように感じる。

 悠司は額に手を当てて、眩しそうに瞳を細めながらそっと呟いた。


「関東の時間稼ぎは成せたか」


 ***


 美里は長兄からの連絡に愁眉を開いた。


「そう……祓ってくれたのですか。ありがとうございます、組合長。そして、お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」


 受話器越しに兄が苦笑したのが伝わってきた。


『俺も祓い屋だからな。自分の仕事をしたまで。……あと、桜緋が手を打つならば、俺に異論はない。長生きな精霊に任せるといい。ただ、バックアップはさせてもらう。桜緋が動くとき、組合は邪気と瘴気を祓って援護する』

「わかりました。そのように、桜緋には話をしておきます」

『じゃあ、そっちは任せたぞ。美里』

「はい。失礼します」


 電話を切った美里が桜緋を振り返る。


「桜緋のしたいやり方で蹴りをつけていいそうよ。但し、桜緋が動いている間、組合はバックアップをさせてもらう」

「むしろ、それは有難い。雑魚の相手をしなくて済むのは助かる」

「じゃあ、桜緋と藤原君達が瘴気の大元を叩きに……」


 そのとき、背後の扉が勢いよく開き、ずんずんと外回りから戻ってきた和葉が入ってくる。


「先輩?」

「支部長」


 千尋の呼びかけを無視し、和葉は美里に言い放った。


「私も桜緋についていきます」

「和葉。申し出は有難いが、今回は引いて欲しい」

「っ……桜緋が断るとは意外ね」

「復帰戦で気が昂っているのは察している。だが、今回は私がやらねば意味がない」

「じゃあ、藤原君達を連れて行くのは何?」

「千尋達は私にとってのお前だからだ、和葉。楓雅がお前と共に在るのと同じ」

「……」


 和葉は悔しそうに顔を歪めたが、ふと我に返ったかのように表情を消した。


「……あれ」


 そして、和葉は側頭部を押さえて膝から倒れた。


「和葉!」


 傍らに隠形していた楓雅が咄嗟に顕現し、脇腹に腕を回して抱える。


「どうした、和葉!?」

「……私、なんで……こんなに、気が立ってたのかしら」

「和葉……?」


 憑き物が落ちたような顔で和葉は瞬きしている。

 それを見た桜緋が溜息をつくように言った。


「……桜は人の気を狂わせる。邪気とやり合い過ぎたな。瘴気に意識が呑まれていたらしい」

「……っ、気持ち悪い」

「少し休んだ方がいい。桜の気は恐ろしいからな。歴戦の者でも油断してはならない。……美里、他の組合員にも伝えてくれ」

「わかったわ」

「じゃあ、私達は行く。援護を頼む、精霊組合」

「承知したわ。ご武運を」


 桜緋が隠形して踵を返すと、千尋と千景もその後に続いて部屋を出ていった。

 吐き気を訴える和葉を横長なソファに寝かせてやりながら、美里は呟いた。


「桜に呑まれるのは、あの二人だけに留めようってことなの、桜緋」

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