目覚め

 くすんでいた桜緋の肌が艶を取り戻し、閉ざされていた瞼が微かに震える。

 さっきまでは全身から陰気を放っていたが、今では普段の霊気に近い澄んだ気を放ち始めている。一目で桜緋が覚醒しようとしていることがわかった。

 名を呼べば、目を開けるかもしれない。千尋は直感でそう思った。

 言霊は強い。言の葉に乗せて名を紡げば、紡がれた名を冠する者はに戻ってくるだろう。


「桜緋」


 千尋は慎重に横たわる少女の名を呼んだ。

 刹那、桜緋の霊気が爆発した。


 ***


 苦しかった。

 悲しかった。

 辛かった。

 自分が自分ではなくなる恐怖。

 何かに汚染されていく自己。

 自分はいつか消えてなくなるのだろうか。


『そうだよ』


 だから、さっさと諦めな。諦めろ。

 さぁ、堕ちてしまえ。

 もう一人の自分の声に少年は頭を抱えた。


 ***


 花吹雪が視界を覆う。季節外れの桜が激しく舞い踊り、周囲に澱んでいた陰気を一瞬で霧散させた。

 花弁が収まると、横になっていたはずの桜緋が宙にふわふわと浮かんでいた。制御もなく本能のままに霊力を爆発させた勢いで、肉体が浮き上がってしまったらしい。ふわふわと浮いている桜緋は、薄く目を開けている。瞼の隙間から覗く瞳は、先程までと違って強い光を孕んでいる。今の桜緋は、普段の桜緋だった。桜緋は、ゆっくりと降りてきてソファの上に腰掛けた。気だるそうに背もたれに体を預けているものの、その顔色は意識を失っていたときよりもずっといい。


「大丈夫?」

「大丈夫なら、こんな事態にはなっていない」

「だよね」

「……すまない。今のは八つ当たりだった。元々は私の落ち度だ。隙を突かれた」


 桜緋の霊気は先程より多少は回復したものの本調子ではなかった。普段よりも弱弱しい霊気を放っている。しかし、その眼光は鋭い。

 それでも、この事態を招いたことを申し訳なく思っているようで、桜緋は千尋や後ろに控えている美里達に頭を下げた。


「桜緋や。いったい何があったのじゃ」


 美里と後ろに立っている梅妃が問うも、桜緋は額に手を当てて首を振った。


「わからん。眠って霊力を回復していたら潜り込まれた」

「霊気は反応せんかったのかえ? 防衛本能くらい働くじゃろうに」

「ああ……普通ならそうだ」


 桜緋は目にかかった前髪を鬱陶しそうに掻き上げ、眉間に深い皺を寄せた。今回の失態に苛立っているらしい。桜緋の霊気はまだ弱っているものの、苛立ちで刺々しいものになっていた。


「邪気が私の霊体にひどく馴染んだ。原因はわからん。けれど、自我が呑まれかけるほど、あの邪気は私の中に潜り込んだ」

「……身に覚えは」

「ないに決まっている」


 梅妃の身体から微かな殺意が滲むと、桜緋も素早くそれに反応し、牽制するように睨みつけた。

 二人の身体から滲む殺意に石哉が息を呑む。美里も険しい表情で様子を見守っている。

 室内の空気が硬直する中、千尋がそっと口を開いた。


「桜緋」


 不自然に力の入った桜緋の肩に手を置いて、ゆっくりとさする。


「まだ回復し切ってない。そんな風に荒れたらダメだ。霊力が足りないんだから、大人しくしないと」

「しかしな、いちゃもんを放っておいては私の矜恃が」

「矜恃よりも身体だよ。喧嘩するにしたって元気になってから。……ひめも、あまり桜緋に障ること言わないでくれ。もう少し休んでから……」


 千尋が梅妃を咎めると、咎められた側の梅妃がプッと吹き出した。


ひめ!」


 子供だからと馬鹿にしてきたと思った千尋が眉間に皺を寄せるも、梅妃は笑いを堪えながら手を振って千尋の言葉を遮る。


「すまぬ、すまぬ。そうじゃなくての……いや、変わらぬか……随分と大人になったではないか、千尋よ。ついこの間まで狼狽えるだけの小童こわっぱだったではないか」

「……人間そんなすぐに変わらないと思うけど」

「まぁ、確かにそうじゃな。じゃが、わっちも大人げなかったかの。桜緋や、すなまかったの」

「ああ……気にするな。お前の言い分も尤もだ」


 そう言って、大きく溜息を吐く。


「私も油断してはならんということを今回で思い知った」

「ところで、桜緋」


 千尋がずっと疑問に思っていたことを口にする。


「なんで、寝て霊力を回復しようと思ったの? 僕に言ってくれればよかったのに」

「そ、それは……」

「そうね。最近は藤原君からの霊力提供で済ませていたようじゃない。どうして急に自然回復を?」


 美里も不思議に思ったのか口を挟んでくる。梅妃は何も言わない代わりに、視線だけ桜緋に寄越した。

 桜緋は自分に視線が集中するのを居心地悪く思ったのか、目を逸らして首筋を掻いた。そして、大きく息を吐き出した。


「……最近は千尋も祓うようになったからな。霊力の消耗が今までより激しくなった状況で私の霊力まで捻出させてしまったら霊的に障るだろう。そう思って遠慮した」

「桜緋……」


 気まずそうに目を逸らしている桜緋の横顔を千尋はじっと見ていたが、不意にその頭に手を伸ばした。


「いいんだよ、そんな気にしなくて」


 そっと頭を撫でる。艶やかで真っ直ぐな髪が撫でられるのに合わせて微かに乱れるも、千尋は指で優しく髪を梳いてやりつつ、頭を撫で続ける。


「僕はいつも桜緋に助けられてる。それに祓うようになったって、まだまだなんだろ? なら、霊力くらい遠慮しないで持って行って欲しい。霊力の提供は僕が桜緋にできる数少ないお礼なんだからさ」

「む……そ、そうか」


 頭と髪を撫でられ、くすぐったいのか微かに頬が紅潮している。素っ気ない言い方をしていても、照れていることは明らかだ。

 千尋が微笑むなか、美里と梅妃は意外そうに目を丸くしている。桜緋がこんな顔をするとは。普段の気高く隙のない姿しか知らない二人には、なかなか衝撃的な一面だ。

 重苦しかった部屋の空気が少し和んだ気がする。千尋が少しほっとしたのも束の間、桜緋が突然背後の窓を振り返った。


「お、桜緋?」

「誰だッ!」


 向かいのビル。その壁面に黒い何かが張り付いていた。黒いものは室内にいた桜緋の誰何すいかが聞き取れたらしい。跳躍して逃げ始めた。


「逃がすか!」


 霊力が回復し切っていないにも関わらず、桜緋はこちらの様子を出歯亀していた黒いものを追ってビルを飛び出す。隠形してビルの壁をすり抜け、黒いものを追いかける。


「今の桜緋じゃ不安だわ」

「わかっておる。わっちも向かいんす」


 美里の言葉に頷いた梅妃も隠形して桜緋の後を追う。


「僕も行きます」

「私もよ」

「支部長さんはここにいて下さい。何かあった時のために。水黎と石哉も残って」

『ええ。そうするつもりよ』

『了解した』

「……わかったわ。気をつけて」


 隠形して控えていた水黎と石哉が了承すると、美里も心配そうにしながらも応じた。

 千尋も前より腹が据わってきた。梅妃も向かっているし、きっと大丈夫だろう。


「行ってきます!」


 美里は千尋の真っ直ぐな眼差しを信じて、心配を口にせず、その背中を見送った。

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