呼応

 千尋は水黎に運ばれている間、何度も吐きそうになっていた。


「み、みれ……」

「我慢して! もう少しで荘司達のところに着くから」

「そ、それにしたって」


 抗議しようとした瞬間にも快適とは程遠い激しい揺れに見舞われる。水黎が施した水の膜の中で千尋はバランスを取りながら立っているのだが、ぐるぐると視界は回るし、風に煽られて倒れそうにもなる。別に座っていても特に問題はないらしいが、こんな不安定な足場に座るのも正直おっかない。水黎も急いでいるから、荒々しい運搬になるのも仕方ないことなのかもしれないが、もう少し安定させることはできないのかと思ってしまう。飛行機とは大違いの空の旅。普段乗り物酔いはしないタイプである千尋でも、これはさすがに吐くと思った。

 また、水黎の言う荘司達のところというのは、おそらくいつもの組合支部のことだろう。

 これ以上、下手に口を開くと言葉と一緒に吐瀉物も辺りに撒き散らしてしまいそうな気がしたので、千尋は着くまで大人しく込み上げる吐き気と戦っていることにしようと心に誓った。

 そして、組合に到着したのは、それから約十五分後のことだった。


 ***


 水の膜が消えて新鮮な空気が肺に送られてきた途端、千尋は床に倒れこんだ。四つん這いの体勢で何度も大きく喘ぐ。


「水黎、やりすぎではないかえ? わっぱの奴、真っ青じゃぞ」

「仕方ないじゃない。最速で来たんだから」

「まったく……おい、童? 大丈夫かえ?」


 梅妃が千尋の傍らにしゃがみ、背中を撫でてやる。


「だ……大丈夫」

「ぬしもだいぶ辛酸を嘗めたようじゃがな、本番はここからじゃ。ほれ、見るがよい」

「え?」


 梅妃に促されて顔を上げると、目の前のソファに桜緋が横たわっていた。

 半分瞼が持ち上がっているものの、その瞳はどこを見ているのかわからない。虚ろな瞳は茫然と虚空を見ている。

 千尋は膝で歩いて桜緋の前に出た。着物の袂を引っ張っても、それに合わせて腕が力なく揺れるだけだ。


「……桜緋はどうなってるんですか?」


 意外にも千尋は取り乱さなかった。

 慌てふためくだろうと予想していた美里は軽く目を見張ったが、梅妃の視線が一点に注がれていることに気づき、その視線の先に目をやった。梅妃の視線は桜緋の着物を掴んでいない千尋の左腕に注がれていた。その腕は傍から見てもわかるほど、がくがくと震えている。

 千尋は取り乱していないわけではない。あまりの衝撃で、感情が追いついていないのだ。一見、冷静なように見える千尋の頬を一筋の汗が伝う。


「一言で言ってしまえば仮死状態ね」


 美里が淡々と状況を告げる。


「なんで、そんな」

「桜緋の体内には邪気がいるの。それも、精霊たちで祓えないような」

「邪気はどこから体内に?」

「それがわかったら困らないわ。石哉が桜緋を見つけた時には既に汚染されていたようだから」

「……このままだと、どうなりますか?」

「体内から心身ともに喰い尽くされて消える。最悪、邪気に変貌して私たちの修祓対象になる」


 藤原君はどうする? と美里が問うまでもなく、千尋は桜緋に向き合って言った。


「僕が祓います。そのために連れて来たんですよね」

「一応言っておくけど、私と荘司でも取り除けなかったわ」


 その言葉に千尋は唇を噛み締めたが、振り返ることなく桜緋の胸元に手を当てた。


「今ここで、できるか、できないかって考えて尻込みしてたら、桜緋は消えてしまう。なら、僕はやります。やるしかないんです」


 千尋の霊気が桜緋の中に注がれ始めた。


 ***


 桜緋の魂は邪気に絡め取られていた。

 雁字搦めに四肢を拘束する邪気は縄のような形状で桜緋を締め上げる。首を絞められていても、桜緋は呻き声一つ上げなかった。濁りきった瞳は闇に捕らわれている。肌の色は邪気の浸食によって、灰色にくすんでしまっていた。

 邪気から脳内に流れ込む怨嗟の叫びが桜緋の意志を捕らえて放さない。


 お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。お前のせいで。


 お前のせいで、人間は苦しんでいる。


 お前の優しさ。お前の慈悲深さ。お前の気高さ。お前の甘さが人間を滅ぼす。


 桜緋の瞳が微かに揺れた。


「わた……しが」


 私が、いけなかったのか。


 囁かれた問いかけを邪気が嘲笑う。


 そうだ。そうだ。そうだ。

 ようやく気づいたか。ようやく気がついたのか。

 愚かな精霊。愚かな精霊。

 だが、我らは怒っていない。

 むしろ、感謝している。

 お前が愚かな選択をしたおかげで、我々の力は増した。

 今こうやって、お前を喰らうことができている。


 桜緋はフッと息を吐き出した。


「……そう、か」


 私は優しすぎたのか。私は優しく、甘い。私の甘い判断が、いま己の首を絞めている。

 なんとも滑稽。無様なものだ。


「もう……潮時かも、な」


 泣き出しそうな声で桜緋が呟くと、桜緋の霊気が一気に薄くなった。

 邪気は本来、精霊の清浄な気に弱い。だから、桜緋への浸食は遅々として進んでいなかった。しかし、桜緋の心がくじけたことで、防衛本能が弱体化した。

 この隙に喰らい尽くそうと邪気の浸食速度が上がる。

 激痛が走っているはずなのに、桜緋は何も感じなかった。邪気にすっかり思考を侵され、痛覚まで機能しなくなっているのだ。


「……永い旅路だったが、ついに」


 お前と逢えるらしい。遥か昔に逝った、あの人間の男。転生したといっても、あれは魂を同じとする別人。きっと向こうには、お前の心というものが残っているはずだ。お前と再び言葉を交わせるのなら、ここで逝くのも悪くはない。

 桜緋が満足そうに瞼を閉じる。


「私は、もう……」


 桜緋を構成する霊気が一層薄くなった。

 邪気が歓喜とともに桜緋の核となる霊気に触れかける。


『桜緋!』


 桜緋はハッと瞼を上げた。何事かと思うまでにも、何度も何度も叫び声が耳の奥に突き刺さる。


『桜緋、桜緋! 桜緋ぃ……! 諦めるなよ、桜緋は強いんだからさ……!』


 この声の主を桜緋はよく知っている。


「……ち」


 邪気の浸食が突然止まった。桜緋の霊体から徐々に淡い桜色の気が溢れ出す。弱まっていた霊気が復活したのだ。煌々と一秒経つごとに輝きを増していく霊気は自らを侵す邪気を拒む。


『桜緋!』


 肉体の方にも何らかの変化が現れたのだろう。

 千尋の叫び声が一際大きくなった。

 桜緋はキッと眦を吊り上げ、四肢を拘束し、この身を穢す邪気を睨みつけた。


「失せろ!」


 千尋の呼びかけで普段の桜緋に戻ったのだ。

 霊気を爆発させ、体内に蔓延はびこる邪気を一掃する。

 そして、自らを拘束していた邪気の縄を引き千切り、桜緋は呼び声に応えて手を伸ばす。


「千尋――!」

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