甘い穢れ
コンコンと外から自室の窓が叩かれた。時間が時間であるため控えめながら、それでも早く起きろと言わんばかりに、少し間をおいて何度も窓が叩かれる。
千尋は寝ぼけ眼で枕元の時計を確認した。まだ朝の五時前だ。
「なんでこんな時間に……」
「千尋、千尋!」
その声は聞き慣れた桜緋のものではない。窓の向こうから部屋を覗きこむようにして、こちらを見ていたのは青い振袖の少女。いつも荘司の傍に控えている精霊だ。
「水黎……?」
生地の厚い深い青色の振袖を纏った水黎が切羽詰ったような顔をして窓を叩く。精霊なら隠形して入れるだろうにと千尋は思うも、すぐに早朝だから気を遣って外にいるのだと思い当たる。
「千尋、寝ぼけてる場合じゃないわ! 桜緋が大変なのよ!」
その一言を聞いて、眠気が吹っ飛んだ。一旦窓のカーテンを閉めて、急いで服を着替える。そして、勢いよくカーテンを開き、窓の鍵を外した。
鍵が外された瞬間、水黎が窓を開けて千尋の肩を掴んだ。相当混乱しているのか、焦っているのか、不安なのか。着替えたばかりの千尋のシャツに大きく皺が寄った。
「桜緋が……ッ」
「説明は後で!」
水黎はさらに続けようとするも、千尋の言葉で口を噤む。確かにその通りだ。今は早朝。和菓子の仕込みがあるためか、一階から人の動く気配はしているものの、二階で大騒ぎして家族がこの場に来るのはまずい。
「っ……来て!」
千尋が差し出された手を掴むと、水黎は小柄な少女とは思えない腕力で千尋の体を部屋から引っ張り上げた。
「説明は移動しながらするわ」
素早く振袖を襷がけにしながら水黎はそう言い、腕を剥き出しにすると千尋の前で大きく振った。
水黎の腕から水流が溢れ、それらが千尋を球状に包み込む。
「むぐっ」
千尋は慌てて息を止める。
「あっ、大丈夫よ。普通に息してて」
あっさり呼吸を許され、千尋は大きな泡を出しながら、ごほっと息を吐き出した。水中なのに息が全然苦しくない。思い切り水を吸い込んでいるはずが、まるで空気を吸っているかのように自然と呼吸ができる。
「その水ごと隠形してるから、人目は気にしなくていいわ」
「家族には、何て言えば……」
「問題ないわ。荘司が手を回すらしいから。気にしないで私についてきて」
荘司は両親が切り盛りしている和菓子店の常連客。顔見知りであるし、どうにか話をしておいてくれるだろう。
千尋はそう納得して、頷いた。
「わかった。早く移動しよう」
そう言ってから、ハッと気づく。
「あっ、窓の鍵……」
窓自体を閉めることはできるが、鍵はかけられない。ここから泥棒にでも入られたら大変だ。
「鍵?」
水黎が窓を振り返り、右の人差し指を突き出した。
指先から細い水流が伸び、それは器用に窓を閉めて隙間から室内に入り、内側から鍵を閉めた。
「はい、これでいいでしょう。さ、行くわよ」
水黎が屋根を蹴った。水黎の体躯が宙に浮くのに合わせて、千尋を包んでいる水も一緒に舞い上がる。周囲を水に覆われていながら、体が簡単に持ち上がる感覚は気持ち悪く、千尋は思わず顔を顰めた。なんだか落ち着かない。
「千尋は自然体でいて。私に運ばれるの慣れないだろうけど、少しの間だから我慢してちょうだい」
水黎は前を見たままそう言い、千尋を連れて降り注ぐ朝日の中を駆けていく。
***
身体が動かない。
無事に霊体を本体に戻すことは叶ったものの、その代償か霊体が本体に戻っても桜緋は覚醒できずにいた。
いや、覚醒できないという表現は誤りか。彼女の目は、きちんと開いている。紅い瞳は此岸を捉えている。
ただ、その瞳は虚空を見据えて微動だにしない。死んだような濁った眼で桜緋は世界を眺めている。
「……くそっ、だめだ」
じっと目を閉じ、桜緋の額に手を当てていた楓雅。眉間に皺を寄せて目を開き、舌打ちとともに悪態をついた。手を離して背後を振り返れば、その様子を見守っていた荘司と美里が落胆のこもった息を吐き出した。
「そう……」
「楓雅の霊力も受け付けないか……」
姉弟は視線を交差させ、どうしたものかと思案する。
すると、隠形していた石哉が荘司の前に姿を見せた。
「和葉が自分がやってみると言い出して、このままでは家を飛び出しかねん。
「わかった。俺が戻る。とりあえず、時間稼ぎをするしかないな。石哉、交代だ」
「お前で無駄だったことを僕がやったところで……」
「ぐだぐだ言うな。それとも、和葉を抑える方に戻るか?」
「ぐっ……」
「水黎が千尋を連れてくるまでの辛抱だろう。気張ってくれ」
「……承知した。和葉は任せる」
「おう。妃も俺と交代でこっちに戻す。……いいよな? 荘司」
「ああ。協力感謝する、楓雅」
荘司がいささか疲れの滲んだ声で礼を言うと、楓雅は軽く右手を挙げてそれを受け、隠形して去って行った。
桜緋が倒れていたのを偶然見つけたのは石哉だった。
荘司に頼まれた仕事を片付け、戻る途中で異様な気配を感じて周囲を探ったところ、桜の木の根元に隠形もしていない桜緋が倒れていたのだ。しかも、桜緋からは邪気の混じった異様な霊気が漏れ出ていて、放置すれば体内に侵入した邪気に桜緋の魂が呑まれかねない状況だった。
石哉は組合に桜緋を連れ帰った。そして、荘司の手によって邪気を体内に一旦封じられた。漏れ出る邪気は周囲の霊気に否応なく影響する。桜緋の肉体には負担だが、そうするしかなかった。
そして、桜緋の中に封じた邪気を精霊が祓うという手段をとることにした。しかし、そこで問題が発生する。
祓えなかったのだ。
梅妃、石哉、水黎。三人の誰がやっても、邪気は桜緋に巣食ったままだった。祓い屋である荘司やその血縁である美里が浄化を試みても、結果は変わらず。
そのため、いま桜緋は荘司の封印によって半ば仮死状態となってしまっている。
受験生である和葉を呼び出すことは躊躇われたため、楓雅を呼んで同じように祓わせてみたものの、やはり桜緋の容体は変わらなかった。
そして、家に残された和葉が痺れを切らせて駆けつけかねない状況になったため、楓雅は和葉の元に戻って行ったのだった。
選手交代を告げられた石哉は、渋々ながら桜緋の首元に両手を当てて霊気を流し始めた。やはり、様子に変化は見られない。
「……桜緋の霊気に邪気が馴染んでしまっている」
「精霊の霊気は澄んでいるから染められやすいとは言うけれど……こんな短時間で邪気が馴染みきってしまうなんて、まるで」
「それ以上は言わないでくれ、姉さん」
術者の言霊ほど怖いものはない。
弟の苦しげな言葉で美里は口を閉じた。
荘司も同じことを考えているのだろう。だからこそ、口にできない。霊力の強い者の言葉は現実になりかねない。けれど、思わずにはいられない。
まるで、邪気のようではないか。
そんな恐ろしいこと、言えるわけなかった。
そのとき、和葉の元から戻ったらしい梅妃が姿を見せた。
「桜の娘はどうじゃ。少しはましに……もなっていないようじゃの。膠着状態かえ?」
「見ての通りだ」
「荘司、そろそろ藤原君の方を」
「そうだね」
朝早くに千尋を家から出してしまった。家族への対応をしなければならない。早朝に末息子が部屋からいなくなったと気づけば、大騒ぎになってしまうだろう。
美里に促されて荘司が部屋を出ていく。
荘司を見送って、美里は改めて硬直したまま横たわる桜緋に目をやった。
「……何か思うこととか、わかることはある? 妃」
「
「そうね……詮無いことを言ったわ」
「よい、よい。
「なあ、妃よ」
桜緋の首元から霊気を注いでいる石哉は背後に立ったまま自分を見下ろしている梅妃を振り返った。
「戻ったなら交代しようとか思わないのか」
「思わぬの。やっても無駄なことはせん」
「僕だって同意見だ!」
「じゃが、焼け石に水だとしても、何もせんよりはましじゃろう。それに、
「このっ……」
「もう、荘司がいないときに喧嘩しないでよ……」
荘司がいなければ、水黎も含めた三人の精霊は衝突と口論が絶えないのだ。荘司の存在が三人を繋いでいるのだと嫌でも実感する。
頭が痛いと美里がこめかみを手で押さえたとき、梅妃が背後を振り返り、唇にうっすら笑みを浮かべた。
「救世主のご到着のようじゃ」
どこか面白がっている響きを含んだ梅妃の呟きと同時に、ようやく到着した水黎が隠形を解いた。
千尋を覆っていた水の膜が霧散し、水黎は袖を束ねていた襷を一気に解く。
「遅くなったけど、千尋を連れて来たわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます