華と刃

 爆発した桜緋の花弁が邪気たちの視界を奪い、攻撃するための隙を作った。

 千尋は躊躇いながらも駆け出し、木刀を握り締めて正面から斬りかかった。


「おい、正面から行く奴があるか!」


 桜緋の声が千尋に届いたときには既に遅く、邪気たちが牙を向いて正面攻撃を仕掛ける千尋を待ち構えていた。


「う、うわっ!」

「伏せろ!」


 大人しく言うことを聞いて頭を庇いながらしゃがみこむと、地面を蹴り上げて跳躍した桜緋が邪気たちの前に躍り出て、その小さな拳で千尋を襲おうとしたそいつらを、思い切り殴った。邪気たちがその威力で吹き飛ぶ。

 桜緋は長年の経験で自然と身につけた独特の格闘術を用いて、襲いくる邪気たちを圧倒していった。身に纏った小袖が派手に乱れても全く気にすることはなく、拳と両足に自らの霊力を集中させながら、邪気たちの勢いを着実に削いでいく。

 爛々と光る紅い瞳が見据えるのは、目の前の敵のみ。己と己の守るものに害なす天敵を容赦なく粉砕する。


「千尋!」


 しばらく呆気に取られていた千尋は、桜緋の呼ぶ声で我に返った。


「とどめを!」


 桜緋は最後だけ千尋に託した。

 これまでの鍛錬の成果。ここで見せてみろ、と桜緋が目で言い放つ。

 千尋は既に屍のようになって、ぴくぴくと痙攣している邪気たちの前に立って、木刀を構えた。千尋の霊力が不安定ながらも木刀に注がれていき、その切っ先が仄かに発光し始める。

 霊力の量を意識しながら、千尋は木刀を振り上げた。


「……えいっ!」


 そして情けない掛け声と共に、一気に振り下ろす。

 しかし、千尋は自分のことで必死のあまり忘れていた。

 邪気は消される瞬間を大人しく待っているようなものではないことを。

 振り下ろした霊圧の刃が届く前に邪気が再生を終え、攻めに集中し過ぎている千尋に飛びかかる。無論、千尋は反撃される可能性など微塵も想定していない。


「うわっ……」

「チッ、往生際の悪い奴め!」


 驚いて木刀を落としてしまった千尋が尻もちをつき、その無防備な首筋に邪気が狙いを定める。得物を落としてしまった千尋は顔の前で腕を交差させることくらいしかできない。

 桜緋は舌打ちしながら千尋の前に飛び出し、ブンと腕を真横に振った。邪気の大きく開かれた口に腕を突っ込み、咥内からはらわたまで強引に腕一本で引き裂いた。

 桜緋の細い腕で真っ二つに切断された邪気が悲鳴をあげる。

 ぼとぼとと音を立てて肉塊と化した邪気が地面に落ちた。痙攣しながらまだ動くそれらを見下ろし、桜緋は無言で腕を翳した。


「消えろ。妄執どもが」


 桜緋の掌から霊気の塊が撃ち込まれ、ようやく肉片も綺麗に消滅した。

 異空間が崩壊し、本来の風景に戻る。人気の少ない寂れた公園だ。金具の錆びたブランコは音を立てて揺れ、風に乗って肌寒さが忍び寄る。

 千尋は桜緋の方に視線を向け、ハッと息を呑んだ。

 桜緋の着物の袖は両方ともズタズタになっていて、そこから覗く白い腕は傷だらけだった。切り傷は深いものから浅いものまであり、肩の方まで裂傷は続いているように見える。


「桜緋、その傷……」


 桜緋は自分の傷を見下ろし、淡々と告げる。


「このくらい問題ない。すぐに治る」


 大したことはない。そんな風に言っているが、桜緋の腕はだらりと下がったまま、ピクリとも動かない。まさか、神経の方までやられてしまっているのだろうか。それなら、たとえ精霊でもこんな平然としていられないはずだ。


「動かせないくらいの怪我じゃないのか?」

「傷自体は神経に及んでいない。どれも傷の深さは肉で止まっている。だが、邪気の瘴気に神経がやられているらしい」

「それって大変じゃないか……!」

「瘴気なら問題ない。全身を侵される前に浄化すればいいだけの話だ」


 桜緋は肩を竦めてから霊気を両腕に高速で循環させ始めた。

 いつもは全身を緩やかに流れている霊気を瘴気に侵された両腕に集中させ、神経を麻痺させている毒素を体内で浄化する。腕の内部に凝っていた瘴気を素早く浄化させ、それだけに止まらず肌に刻まれた傷も一気に治していく。みしみしと音を立てて傷ついた肌が再生し、ズタズタになっていた着物の袖も元通り復元された。

 治ったばかりの両手を確かめるように開いて閉じ、大きく肩を回してから桜緋は満足そうにうなずいた。


「……ああ。問題ないな」


 そう言って、ふと桜緋は自らの霊気で生成した木刀が地面に転がったままだということを思い出し、千尋の足もとに転がっているそれを拾い上げる。


「あ……ごめん。それ、落としちゃって……」

「構わんさ。初陣だったからな。怯むのも仕方ないことだろう。……ただ、強いて言うなら」


 桜緋は未だに尻もちをついたままの千尋をげんなりとした顔で見下ろした。


「お前の師としては、もう少しそのへっぴり腰をどうにかして欲しいものだな。これまでも修羅場を潜り抜けてきたことはあるというのに、修行後の初陣だからといって気負い過ぎだった。気合はこれまで通りでも十分だよ」

「……」


 自分の姿を見下ろして、千尋は両手で顔を覆った。あまりに正論過ぎる。

 桜緋はそんな千尋を見て、やれやれと言うように小さく息をつき、手に持った木刀を霊気に戻して体内に収めた。念のため周囲の空気に邪気の気配がないか確かめてから桜緋はへたり込んだままの千尋に手を差し伸べた。


「さぁ、獲物もいなかったんだ。一度戻って出直そう」

「ああ。そうだね」


 ***


 精霊も人と同じように夢を見る。しかし、それは夢であって夢ではない。

 精霊は霊気の流れを眠りながら直に感じているのだ。


 桜緋は千尋と彼の自宅近くで別れ、一人になった後は気に入っている桜の木に向かい、その上で横になった。千尋の前では気丈に振る舞っていたが、あの傷を一気に再生するのは結構骨が折れたし、何より霊力が急激に消費された。千尋に足りない分の補填を頼んでもよかったが、初陣のせいで彼の霊気にもそれなりに乱れが見られた。あの状態の千尋から更に霊力を吸い上げるというのは酷な話だろう。

 よって、自身の象徴から自然の気を吸収して、霊力を回復することを選んだ。時間はかかるが、千尋の負担にならない。千尋の前で師を気取って大口を叩いておきながら弱った姿をさらし、彼にこれ以上霊的な負荷をかけるよりは賢明な判断だろうと桜緋は思う。

 隠形しながら眠りにつくと、自身の霊気が辺りの霊気の中に溶け込んでいくような錯覚を覚える。

 深く広い闇の中を自身の霊気が揺蕩い、此岸の全てを見通すような感覚を持って霊気の世界を泳ぐのだ。そして、圧倒的な自然界に呑みこまれていくことが心地よく思え、自身の深くまで浸透していく自然の気を快く迎え入れる。自身の中にじんわりと入ってくる異なる霊気を馴染ませ、己のものとして一体化する。

 膨大な霊気が自身の頬を撫で、着物の内の体躯をなぞり、肌から浸み込むように入ってくる。


「……ぁ」


 穏やかな温もりの合間に絶妙な快楽を与えられながら、桜緋は深く眠りに落ちている。


「ん……な、に……?」


 深く眠っているときに自我が目覚めることは滅多にない。いつもならば、思考が生まれるということは覚醒の前触れという意味である。

 しかし、まだ霊気は回復しきっていない。もう少し眠らねばならないはずだ。それなのに、なぜ。

 疑問に思った桜緋の体躯が突如大きく仰け反った。体躯といっても自然界の霊気を漂う霊体だが、本体に手を出さられるよりも霊体に異常をきたす方が、ずっと応えるのだ。

 実際、木の上で一人眠っている桜緋の本体も、呻き声を漏らしながら酷く魘されていた。


「なん、なの……これっ」


 体内に入ってくる自然の霊気に、異物が混じり始めた。それが体内を巡ると、霊体に大きな負担がかかる。自分とは相容れないものが体内に入ったらしいが、それが何であるかまではわからない。


「っ、痛ったい……!」


 千本の刃で刺され、切り裂かれるような鋭い激痛が体内を駆け巡り、桜緋は堪え切れずに悶絶した。

 夢ならば覚めてしまえばいい。けれど、この夢はただの悪い夢ではない。自身の霊体を自然の霊気に溶け込ませているために見る夢だ。自分は今、霊体である魂と、肉体である本体が分離している状態だった。この夢から無理矢理覚めたときに霊体が上手く本体に戻れるか、わかったものではない。下手をすれば、霊体を損傷して、最悪その場で消滅するだろう。


「っ……とにかく、今は」


 異物を体外に排出しなければ。

 いつものように自分の霊気を桜の花弁に具現化させ、それを大量に放出する。そうすることで、霊気ごと異物を体外に追い出す。消耗が激しくなるが仕方ない。

 桜緋の霊体の周りに無数の花弁が一気に現れ、本人が味わっている苦痛を表現するかのように渦となって吹き荒れる。

 桜緋は微かに瞼を上げ、その渦を見上げた。

 そして、その色を見て絶句した。


「これは……まさか……!」


 普段から見る桜色の花弁だけではない。

 薄紫に染まった花弁が、その中に混じっているではないか。桜緋を嘲笑うように、薄紫の花弁は桜緋の花弁と共に激しく舞い踊る。


「……そんなにも」


 桜緋はそれらを見上げたまま、誰かに問うように、ぽつりと呟いた。


「そんなにも、私と一緒になりたいのか……?」

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