浄化の光

 和葉と楓雅が決戦に臨もうとしていた頃、桜緋は千尋の家から出て、精霊組合に顔を出していた。富士宮の兄妹が一つの部屋に勢ぞろいしているせいか、普段はそれなりの広さに感じる部屋が狭いような気がする。


「随分と大所帯だな」

「仕方ないだろう」

「子が多ければこうなるのも道理じゃろうて」


 思わず顔を強張らせる桜緋に部屋の端に控えている石哉と梅妃が溜息混じりに応じる。

 水黎が振袖を襷掛けにして茶菓子などの世話を焼いている姿は見慣れ過ぎて、もう精霊ではなく、富士宮家に仕える女中か何かだと思えてくる。

 桜緋は見かねて荘司の湯飲みに茶を注いでいる水黎に声をかけた。


「水黎、お前それでいいのか?」

「嫌ではないから」

「そうか……」


 本人が真顔で言っているから、きっとこれでいいのだろう。いいのだろうが、それでも桜緋は何だか解せない。この兄妹は精霊を何だと思っているんだ。

 そんな桜緋の心中を知る由もない美里は、前からこういう時のために台所に置いておいた鎌倉銘菓の茶菓子を摘まみながら小首を傾げた。


「けれど、桜緋がなぜここに? 行くにしても、楓雅たちの方だと思っていたのだけど」

「少し、お前たちの長兄に聞きたいことがあってな」

「兄さんに?」


 今はオフであるため、悠司のことを普段は公私を分けて組合長と呼ぶ美里も、気軽に兄さんと呼んでいる。

 桜緋の挑戦的な視線を受けた悠司は口をつけていた湯呑から目線を上げ、卓の上に手に持ったそれを置いてから静かに問う。


「……場所を変えた方がいいか?」

「そうだな。美里、屋上を開けてもらえるか」

「ええ、構わないけど――」


 そう言って立ち上がろうとした美里を荘司が手で制した。瞬きする姉に荘司は笑みを見せる。


「俺が行くよ。姉さんはここで美月と一緒にいて」

「いいの?」

「屋上なんて暑いところ、男が行けば十分だ」

「そう……」


 姉に対してこう紳士的な態度をとる弟も珍しいだろう。

 荘司はにこにこと笑顔で屋上の鍵を棚から取り出して廊下に出た。廊下の奥にある普段は使わない非常用の階段を指さして二人を振り返る。


「屋上はこっち」


 ***


 男二人分の足音を響かせながら非常階段を上り、最上階に到着すると荘司は薄い鉄板のような屋上に出るための非常扉に鍵を差し込んで素早く回しながら、それを押し開けた。

 真夏の蒸し暑い空気と灼熱の日光に晒されて男二人は顔を顰めて目を細めたが、桜緋は全く動じなかった。

 屋上には日陰というものがほとんどなく、どんなに嫌でもカンカン照りの太陽の下に出るしかない。荘司が首元に浮いた汗を拭いながら桜緋を振り返った。


「で、兄さんに何の話かな」

「お前は本当に姉想いな奴だな。大方、私が美里の頭痛のタネになるような話をすると察して自分が行くと言い出したのだろう?」


 質問に答えず、ふっと苦笑する桜緋に荘司も同じような表情を返した。


「まぁね。和葉ちゃんの一件がまだ片付かないうちに次の話を耳にしたら、おそらく姉さんは過剰に気にするだろうから。……でも、和葉ちゃんのことが解決しないうちに次の話題を出すって、君は何を考えてるんだい?」

「あいつらは大丈夫だ。私たちが、そんなに気を揉む必要もない。だから、次の話をしても問題はない」

「あれだけ楓雅が一人で行くのに反対した君がそう言うとは。驚きだね」

「私も奴の覚悟を信じることくらいはする。それだけの話だ」

「……本題は」


 ずっと黙って会話を聞いていた悠司がここで口を開いた。桜緋と荘司も表情を引き締める。

 桜緋は頬に触れる横髪を耳にかけて、悠司を振り返った。


「聞きたいことがある」

「どのような」

「お前は和葉を攫ったという異質な邪気の霊気が見えたのか」


 桜緋の問いに悠司は考え込むように眉を寄せて長い指で自身の顎をつまみ、努めて慎重にこう答えた。


「……それなりに見えたが、そちらの期待に応えられるかまではわからない。具体的には?」

「その邪気に……」


 桜緋は途中まで口にして、そこで一度口を閉ざした。何かに怯えるような目をして辺りに視線を走らせ、込み上げる恐怖を抑え込もうと右手で自身の左腕をぎゅっと掴んだ。

 悠司から視線を逸らしたまま、静かに問いかけの続きを紡いだ。

 蝉のうるさい鳴き声で掻き消されてもおかしくないくらい、桜緋の声は弱々しかったが、辛うじて二人は彼女の言葉を聞き取った。


「精霊の霊気は含まれていたか?」


 悠司はそっと首を振って否定した。


「いや、混ざっていたのは人の霊気だ。精霊のものは感じられなかった」


 すると、桜緋は微かにほっとしたような表情を浮かべて呟いた。


「そうか……」

「何か気になることが?」


 悠司が無感情に、あくまで形式的に問いかけたが、桜緋は仄かに穏やかな微笑みを引っ込めて、いつもの仏頂面に戻り、ひょいと肩を竦めた。


「いや、様々な状況を想定しただけだ。精霊が邪気に敗北したことにより侵食されて、自我まで汚染されている、とかな。たとえ邪気に成り下がっていたとしても、元々は同じ精霊だった、元同志と戦うことを厭うのは当然だろう?」

「……そうだな」


 悠司は桜緋の説明に淡々と応じたが、荘司は僅かに眉を寄せて桜緋の目を見つめた。そんな単純なことで、桜緋があんな迷いを見せるとは思えない。今の言葉は真意ではない気がする。

 けれど、それを訊いたところで答えてくれるわけがない。荘司も言いたいことを口にすることはなく、無言で頷くに留まった。

 二人が納得していないことを見抜いているのか、桜緋は二人の気を逸らすように爪先で軽く地を蹴って飛び上がり、空中に己が身を投げ出した。

 ふわふわと気ままに真夏の湿気た空気の中を浮きながら桜緋は天を見上げた。


「妙に嫌な予感がする。得体が知れないというか、厄介事が起こっているというか。……楓雅と和葉が戻ってからは、少しずつ調査を進めた方がいいだろう。いきなり動いては向こうが警戒するだろうからな。刻一刻と変化する動向を見極めて、そのときの最善を尽くすべきだ」


 桜緋の言うことは尤もで、富士宮の男二人は険しい表情を浮かべて、その言葉に同意した。


 ***


 和葉と楓雅が臨戦態勢に入ったことに邪気も目敏く気づいたらしい。穢れた瘴気の塊を大量に、しかも連続で撃ち込んできた。

 爆弾のような無数のそれが頭上から降り注ぐ。

 和葉はほぼ反射的に、召喚した太刀を一旦体内に戻してから楓雅の太い首に両腕を伸ばした。楓雅も瞬時にその意図を察した。和葉が抱き着きやすいように腰を折り曲げて首筋を差し出し、それと同時に和葉の細い腰に腕を回してしっかりと抱く。そして、和葉が首に腕を回したか確認する間もなく、大きく跳躍して矢のように降り注いでくる瘴気を避けた。

 この一連の動作を行うにあたって、二人の間に会話はなかった。このような修羅場を何度も潜り抜けてきた二人だ。お互い言葉にする必要もない。

 邪気から距離を取って和葉を地面に下ろし、楓雅は唸る巨体を油断なく睨みながら問いかける。


「どうする」


 和葉は太刀を再び実体化させ、膝を曲げて体勢を低くしながら一言で答えた。


「突っ込む」

「無茶苦茶だな」


 あまりの正攻法に思わず苦笑すると、不機嫌そうに和葉が睨みつけてきた。


「ここまで来たら真っ向勝負するしかないじゃない。今更小細工しても仕方ないでしょう」

「……確かにな」


 これは最終決戦だ。強敵だからといって小細工を弄するよりも、正面からぶつかった方がいい。これまでの長い因縁を断ち切るのだから。

 もちろん、簡単には倒せないだろう。それでも、和葉は真正面から行く気なのだ。正面からやらなければ意味がないと。

 その気持ちは楓雅も同意できる。


「背後と援護は任せろ」

「ありがと」


 普段と変わらない軽い口調に、穏やかな笑顔。和葉が努めてそうやっていることがわからないほど楓雅は鈍感ではない。和葉の顔色は元々色白だが、今は白を通り越して青白い。

 楓雅は邪気の懐にどのようにして入り込もうかと、隠し切れない焦りを滲ませながら思案している和葉の頭をよしよしと撫でた。

 和葉は驚いたのか、一瞬息を詰めた。しかし、すぐにホッと息をついて、今度は自然に微笑んだ。


「ありがとう、楓雅」

「俺を信じろ。怖がるなって言う方が無茶かもしれねぇが、お前が思うままにやればいい。そうすれば、きっとやれる」

「ええ、そうするわ」


 貴方がそう言うなら、信じましょう。

 和葉は両手で太刀の柄を握り、低い体勢で構えた。そして、自身の霊圧を足裏に集中させ、思い切り霊気を逆噴射した。和葉の身体が猛烈な速度で前方に移動する。端から見ると吹っ飛ばされているようにしか見えない。しかし、霊気の逆噴射は慣れてしまえば、空を飛ぶことだって可能な技術だ。ただ、自身の霊気を大量に消費することから、霊的なタフさを要求される。和葉も普段は、あまり積極的に行わない。だが、今回は別だ。

 細やかに丁寧に、かつ大胆に霊気を操り、邪気の懐に潜り込む。途中、邪気が瘴気を撃ってきたものの、そのくらいは太刀ですぐさま叩き斬った。


「はぁ……はっ」


 相手の懐に潜り込むだけで、かなりの力を消費してしまった。

 息を乱す和葉を邪気が触手を振り上げて狙うも、振り下ろされる前に楓雅がすかさず大剣で叩き斬った。


「大丈夫かっ」

「ええ。どうにか」


 邪気のぶよぶよとした表皮からも瘴気が噴き出している。これをずっと吸っていたら、また倒れてしまうだろう。和葉は周りに簡易的な結界を張って、慎重に邪気の急所を探った。

 無論、それを許すほど邪気も甘くはない。しかし、懐に潜り込んだ和葉を振り払おうとする邪気の動きを楓雅が牽制している。簡単には、和葉を引き剥がすことはできない。

 和葉は暴れる邪気の表面に濃い瘴気を耐えながら取り付き、しばらくすると瘴気が澱んでいる箇所を見つけ出した。


「あった!」


 空いている方の手で表皮を掴み、容赦なく太刀を突き刺す。そして、力の源であろう箇所を体液と瘴気に塗れながら丸く抉りとる。

 ビシャリと音を立てながら肉塊が切り落とされると、邪気は激痛と憤怒に悶え、雄叫びを上げた。


「っ……楓雅!」

「やったか!?」

「あとはとどめを刺すだ……っ!」


 だけ、と言おうとしたが、それは邪気に右足首を掴まれたことで阻まれた。


「しまった……!」


 左足で右足を掴む触手を蹴りつけるも、あっという間に宙吊りにされ、乱暴に振り回される。


「ぐっ……」


 急遽肉体を守るための結界を張っても、振り回されることによる脳震盪までは抑えられない。頭に血が上り、意識が吹き飛びそうになるのを必死に堪える。


「和葉ッ!」


 楓雅が目の色を変えて、和葉を捕らえた触手を叩き斬り、宙に投げ出された痩躯を抱き留める。


「大丈夫か?」

「ええ、ありがと。大丈夫だから、降ろして」


 振り回されたせいで軽く眩暈がしているが、そんなことを気にしてはいられない。和葉はふらつきながらも楓雅の腕から降り、自力で立って太刀を構え直した。


「いけるか?」

「ここまで来たら、一撃で仕留めるわ」


 和葉が抉った邪気の傷口はまだ塞がっていない。自然に癒えるまでは再生能力がある邪気でも、もう少し時間がかかるだろう。傷を塞いだとしても、抉られたことによって失われた力は戻らない。

 今なら祓える。和葉は、そう直感した。

 そして、構えた太刀の切っ先辺りにチリチリと燐光が舞い始める。


「ハァッ……!」


 自らの霊力を高く、鋭く研ぎ澄ませ、それを神秘的な光を宿した刃に乗せて、気合いと共に解き放つ。薙ぎ払った刃から閃光が迸り、邪気の肉体をばらばらに破壊した。

 和葉自身の霊力と太刀に込められた清浄な霊気が、永い時をかけて穢れに穢れた邪気を無限に浄化し、肉片の一つも残すことなく滅ぼしていく。


「っ……」


 巫女と妹が自らの霊体を用いて生み出し、遺した太刀。一閃しただけで、霊気を根こそぎ持って行かれた。

 霊力を思い切り奪われた和葉は、貧血を起こして膝から崩れ落ちた。


「和葉!」


 とっさに抱き留めて、大丈夫かと切迫した様子で問いかける楓雅に和葉は淡く微笑んだ。


「ちょっとこの太刀、扱うの大変みたいだわ……霊力、ほとんど持って行かれたみたい」

「そうか……」

「心配しないで。平気よ」

「それでも、よくやった」

「ごめんなさい、止めは貴方にさせるべきだったのに」

「いいんだ」


 お前と巫女と琴乃の三人で祓ったようなものだからな。俺はそれで満足してる。

 楓雅が守りたかった者と楓雅が共に在る者。彼女らが討ち果たしたのだから。それだけで、楓雅は満足だった。


「……待って、そんな……冗談でしょう?」


 不意に、和葉は肌が粟立つのを感じた。

 瞳を目の前に据えて、思わず言葉を失う。意識が暗転しなかっただけ、まだましだ。それだけ、絶望的な現実を突きつけられたのだ。

 霊力を使い切って満身創痍の和葉は、ただ眼前の光景を目に焼きつけることしかできなかった。

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