決着
浄化の光をも自らの糧にしようと足掻く邪気の肉片の様が、和葉の瞳に映っていた。これぞ、まさしく地獄絵図だ。
和葉の絶望と驚愕に満ちた声に促されて、楓雅も顔を上げた。そして、和葉と同じように目を見開く。
「こりゃ……魂消たな」
「楓雅……」
和葉が今にも泣きだしそうな情けない声を上げて楓雅の胸に縋りついた。こんなことは初めてだ。楓雅に醜態を晒すことも、修祓でここまで追い詰められ、不安になることも。それほどに、和葉は先程の一撃に全てを込め、全てを賭けていたのだった。
楓雅はそんな和葉を安心させようと抱き締めながら、必死に頭でどうするか考えていた。正直なところ、これは頭で考えてどうにかなるものなのか。しかし、それでも打開策を考えるしかない。考えることすら放棄したら、また自分らは敗北を喫するだろう。
「私の霊気はもう残ってないのに……!」
目尻が裂けそうなほどに見開かれた目。その端からは透明な雫が溢れている。それは今にも零れ落ちそうだ。全力を振り絞って、それでも敵わないと悟った少女の声音は、底なしの絶望に彩られていた。
その泣き笑いにも似た表情を見て、楓雅は全てを察した。
永い時を経て続いてきた憎しみの連鎖。この始末は、やはり自分がつけるべきなのだ。自分でなければ、こいつは祓えないのだ。
失態は自分で片を付けなければならない。
ただの慢心かもしれない。自惚れかもしれない。けれど、それでも、いま自分が手を下さねば、腕の中の娘は絶望に堕ちる。そんなことをさせるわけにはいかない。
「……俺が祓う」
「本気なの?」
和葉が目を丸くする。
楓雅はその反応に苦笑せざるを得ない。
「おいおい。俺は精霊だぜ?」
元々、邪気祓いは俺の本業だ。
あくまで不敵に笑う楓雅に、和葉は同じような笑みを返すことはできない。これまでの経験を考えたら、これは楓雅でも祓えるか微妙なところだろう。
しかし、そんなことは口にできなかった。楓雅は笑っているが、その瞳の奥には決して揺るがない覚悟の光が宿っている。
精霊としての誇りを賭けて、楓雅は祓うと言っているのだ。
「……わかったわ」
そう言って、恐る恐るといった様子で和葉は楓雅の右腕に触れた。もう何度も、お互いに触れあってきたはずなのに、こんなに緊張しているのはなぜだろうか。その腕に抱かれることも、頭をわしゃわしゃと撫でられることも、当たり前のことだというのに。不思議に思いつつも、和葉は自らの額を逞しいそれに押し当てて、祈るように呟いた。
その声も、普段ではとても考えられないほどにか弱い。
「お願い」
その言葉を口にしてから、和葉はようやく悟る。これが、なんの意地も張っていない自分の本心だということを。
むろん、それは楓雅もすぐに気づいた。
楓雅は空いている左手で、和葉の頭を優しく撫でながら頷いた。
「……ああ」
ここまで真摯な願いを受けて、失敗するわけがないだろう。
精霊は人の心から生まれる。人の願いこそ、力の根源といっても過言ではない。
この願いに、必ず自分は報いる。
「危ないからな。少し離れてろ」
くっついている和葉をそっと離して、楓雅はある程度の距離をとった。そして、馬手を軽く振るう。すると、楓雅の霊気が和葉を包み込み、結界を成した。
「楓雅!」
「霊気使い切ってるときに刺激は少ない方がいいだろうからな」
霊的に疲弊している状態の和葉に、精霊の荒れ狂う霊気は恐らく障る。邪気だけでなく、自分からも和葉を守る必要があった。
結界に包まれた和葉が、不安そうにこちらを見ている。
「大丈夫だ。あと少しだからな。任せろ」
そう言うと、和葉は微かに頷いた。不安そうにしているが、何も言わない。ただ、その目は語っていた。
信じている、と。
楓雅はその視線を背中に受けながら、邪気と向き合った。
生命に飢えた死に損ない。悠久の時を生き、人の魂を貪ってきた化け物。
これも元を正せば人の心から生まれたものだが、これは自分とは反対に人に害を成す。
これを滅することが、自分の役目だ。
掌に霊力を集中させ、愛用の大剣を具現化させる。
霊気の揺らぎに過敏に反応した邪気が、ぎろりとこちらを睨みつけてきた。楓雅もニヤリと笑みを返す。
邪気はまだ再生途中の肉片に過ぎない。そのため、威嚇してきたとしても攻撃はまだできないはずだ。
それでも、のんびりと構えてはいられない。急ぐに越したことはなかった。
両手で大剣の柄を握り、邪気を真っ直ぐ見据える。
「だああああ……ッ!」
楓雅の全身から霊気の奔流が溢れ出し、そして爆発した。楓雅から発せられる霊気の渦が、天高く立ち上る。
楓雅は大剣に苛烈な己の霊気を纏わせて、勢いよく振り下ろした。
凄まじい霊圧による爆風と爆音が辺りを蹂躙する。
楓雅の作った結界の中にいるにも関わらず、和葉は、その凄まじさに圧倒されて目を瞑り、両腕で顔を庇った。結界をすり抜ける爆風が激しく和葉の髪を乱す。横髪がビシビシと頬を打った。
あまりの衝撃に、しばらく蹲ってやり過ごしていたが、爆風が収まってから和葉は顔を上げた。
「楓雅……?」
土埃の中に楓雅の長身が見える。
次いで、舌打ちとともに焦りと苛立ちの滲んだ声が聞こえてきた。
「クソっ……これでもまだ……!」
爆風で舞い上がった砂塵が収まり始め、楓雅が舌打ちした原因が、大きな背中の向こうに浮かび上がってきた。
和葉はもう声すら出さなかった。
力強い霊気の刃を叩きつけられても、それでも滅びない。神代からこの此岸に在り続けてきたものの成れの果て。怨念と憎悪、魂への執着。永遠に近い時の流れの中で蓄えられてきた負の念だ。
人の力だけでも、精霊の力だけでも、倒せない。
和葉は徐に立ち上がり、右手で刀印を組んだ。それを軽く払って、あっさり楓雅が築いた結界を解く。
この結界は和葉を閉じ込めるものではなく、あくまで和葉を守るものだ。霊力が枯渇していても、解除は容易である。
まだまだ霊力は回復していない。しかし、これでもできるはずだ。
霊力を一気に大量消費したために倒れた先程よりも、比較的しっかりとした足取りで和葉は楓雅の傍らに寄った。
それを認めた楓雅が目を剥く。
「おい、大丈夫なのか!?」
「平気よ。さっきよりは幾分まし。少しくらいなら戦えるわ」
「そんな状態で太刀打ちできる相手じゃないことくらい、お前はよくわかってるだろう!」
そんな楓雅の怒鳴り声を和葉は涼しい顔で受け流した。
「わかってるわよ。単独であれをどうこうしようなんて考えるほど、私だって馬鹿じゃない」
そう言って和葉は楓雅を見上げた。
「楓雅、大剣を構えて」
怒られている最中に何を言い出すのかと思いつつも、和葉の表情は真剣そのもの。素直に応じて大剣を構える。
楓雅が大剣を構えたところを見てから、和葉は右の掌を上に向けた。そして、そこに意識を集中させる。
身体の中に収めている霊気。自らの霊力とは異なる、純粋で澄み渡った浄化の力。太刀という形で和葉に託された、巫女と妹の清浄な霊気。邪気の体内で存在を維持し続けたほどの力を持った霊気。それを掌の上に具現化させる。
二人から授かった霊気を太刀という実体ではなく、力の塊として召喚することができるかは正直微妙なところだったが、授かったといっても今では和葉の霊気の一部に過ぎない。難なく体外に召喚することができた。
太刀ではない、剥き出しの力として顕れた霊気は、和葉の掌の上で白い霧のようなものの集合体となって球状に纏まっている。微かに輝いているように見えるのは、霊気の清らかさゆえか。
「……さっきの太刀か?」
「そう」
「なるほどな」
意図を問うことなく、楓雅は和葉の考えを察した。
確かに、これならいける。
「いきましょう」
「ああ。……だが、和葉」
楓雅が念の為に確認しておく。
「俺の霊気に当てられるなよ?」
「どんなに激しくったって、しがみついてみせるわ」
「上等」
召喚した霊気を手に纏わせて、和葉は楓雅が掴んでいる大剣の柄を手を寄り添わせるようにして握った。
「いくぞ」
「ええ」
一瞬、視線を交わす。
そして、渾身の力を込めて二人は絶叫した。
「ハアアアア……ッ!」
楓雅の霊気と和葉の霊気。
二人分――いや、四人分の霊気を斬撃とともに叩き込む。
楓雅の一撃を受けても、まだ燻っていた邪気の残り滓が悲鳴を上げた。
その衝撃波を受けながらも和葉が大剣の柄から手を離し、両手で剣印を組んだ。
楓雅が驚いて声を上げる。
「和葉っ!?」
「大丈夫!」
片手で組む刀印と両手で組む剣印には違いがある。さらに、宗教における印と祓い屋における印では意味合いが大きく異なる。
祓い屋は己の霊気を操るために印を組む。宗教のように、神に祈るためではない。
刀印は霊気を素早く練り上げ放つもの。剣印は霊気を自身の中で昇華させた上で爆裂させるもの。要するに、本気を出すときは剣印を組むのだ。
なぜ陰陽師や僧とはまた違った呪術の形態が生まれたのか、以前和葉も霊気を扱う練習をしていた頃に疑問に思って、何気なく楓雅に訊いてみたことがある。
曰く。
『どこぞの精霊が初めて人とともに邪気を祓う今の形態をやってみようと試みたときに、相手の人間の霊力をどう引き出したものか困ったらしてな。それで、所謂呪術者が用いていた技術を参考にして、無理矢理生み出したらしい。詳しい話は俺も知らない。なにせ、これも噂みたいなもので諸説あるうちの有力説ってだけだ。だけど、俺が思うに、そいつはそれほど、その人間と一緒に戦いたかったんだろうな……』
だから、祓い屋は精霊と人の絆を象徴しているようなものだという。
和葉は富士宮の一族のように祓い屋を生業とするほどではないが、それでも精霊と共に在る者としての矜恃はある。
だから、ここで追撃して、またあれを滅ぼし損ねるという事態を絶対に避けなければならない。和葉は僅かに残った自らの霊力を極限まで高めて叫んだ。
「滅ッ!」
限界寸前の霊気が思い切り解き放たれる。霊力が爆発し、残った邪気を吹き飛ばした。
邪気の断末魔が周囲に反響する中、和葉は激しい眩暈を覚えて地面に片膝をついた。次いで、強烈な吐き気に襲われる。
「ッ……!」
「和葉!」
印を組んだままの姿勢で和葉は吐血した。ここまで来てとうとう霊体だけでなく、肉体にまで無理が影響してきたのだ。
もう意識を保つことすらできないだろう。
そう、和葉は悟った。自分と同じように膝をついて、必死に声をかけてくる楓雅の声も遠くから聞こえる曖昧な音のように感じてしまう。
衝撃波はまだ収まらない。今まさに滅びる邪気の絶叫だけが耳の奥まで届く。恨みの叫びが呪いなって、これからの自分らを縛っている最中なのかもしれない。
けれど、混濁する意識の中でも和葉に響く何かがあった。この胸の鼓動が、弱っていても魂が現状に反して力強く、自分に何かを伝えようとしているような……
和葉の唇が微かに動いた。
「――鎮まり、給え」
「和葉?」
「安、らかに……眠り、給え……」
和葉の瞳は焦点が合っていない。しかし、その眼差しには覚えがあった。
「お前……」
昔、巫女が邪気を斬ったあと、同じような祈りを捧げていた。負の念が消えるように、力で押し潰したあとで真摯に祈る。
楓雅は当時思った。
邪気の体液にまみれながら刃を振るうさまは、とても神聖な巫女には見えない。けれど、その祈りはまさしく巫女そのもの。巫女は、やはり巫女である、と。
自分に向けられる感嘆の視線に気づかず、和葉は呟き続ける。もちろん、それとともに霊力は命を脅かさない程度に少しずつ放たれている。先程とはまた異なる、穏やかな霊気だった。
「悠、久の……安寧を……」
それを最後に和葉はくずおれた。
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