軌跡を手繰れ
真夜中の空を飛びまわる三人の精霊がいた。
「まったく。正攻法で見つかるものならば、とうに見つかっておるじゃろうに……」
一人は辟易とした様子で愚痴を零して。
「和葉の霊気だけでなく、邪気の気配すら感じられないとは……いったい、どこに隠れている。普段の邪気より異質なものならば、すぐわかりそうなものだが……」
一人は空中で止まり、微かな気配の残滓を掴もうと精神を研ぎ澄ませて。
「和葉……和葉……!」
一人は焦りを滲ませながら、少女の名を何度も口にしていた。
繁華街の外れにある古びた雑居ビルの屋上に立って、次はどこを探すか考えていた楓雅に上空で待機していた桜緋が声をかける。
「楓雅!」
「なんだ。手がかりでも掴んだか?」
「いや、まったくだ。だから、一度戻るべきだろう。
「いや、もう少し……」
拒もうとした楓雅の言葉を桜緋は容赦なく遮る。
「楓雅、現実を見ろ。今ここで無駄に時間を使って、もしものことがあったらどうする。一旦戻って荘司や美里の意見を仰いだ方がいいということくらい、お前だってわかっているだろう? 焦るなと言うのは酷かもしれんが言わせてもらうぞ。焦るな、楓雅。焦って見つかるものじゃない」
「……そう、だな。すまん」
桜緋の冷静さは、まさに正しさだった。桜緋は一切の私情を切り離して、客観的事実だけを見ている。冷水を頭からぶっ掛けられたような気分になり、楓雅は逸る自身の心を努めて抑えた。
焦ったところで解決はしない。今必要なものは冷静な判断と着実な方策だ。
そこに別行動をしていた梅妃も戻ってきた。
「一度戻るのかえ?」
「ああ。ただただ探し回るより打開策を検討すべきだ」
「そうじゃの。そろそろ夜も明ける。戻るには良い時分じゃろう」
いつの間にか、深い闇が淡くなってきていた。静けさの中に雀の声やバイクの走り去る音、早朝ランニングの足音が混じり始め、朝の訪れが感じられる。
楓雅は二人の言葉に頷いて踵を返した。
三人は一旦支部に戻ろうと、ビルの上から跳躍した。
***
「……戻ったみたいね。お疲れ様。お帰りなさい」
そう言う美里の目の下には濃い隈ができている。おそらく、昨晩は一睡もしていないのだろう。
「まさか、休まなかったのか?」
楓雅がそう訊くと、美里はフッと苦笑した。
「ええ……徹夜なんて学生時代以来かしら。やっぱり応えるものね」
ソファに腰掛けて目を閉じている荘司も眠っているわけではない。意識を研ぎ澄ませて和葉の気配を探しているのだ。こちらも、きっと眠らずに和葉の行方を捜索していたはずだ。
少ししてから荘司は瞼を持ち上げて思い切り伸びをした。
「お帰り、三人とも」
その顔色は美里と同様に悪かった。
「水黎、石哉いるか」
「なに? 桜緋」
「僕らに声を掛けるとは珍しい」
桜緋の言葉に応じて顕現した二人に厳しい口調で言い放つ。
「お前たちはここの守りだろう。祓い屋の二人がここまで消耗していては、いざというときに支障が出る。なぜ徹夜などさせた」
「眠るようには言ったのよ。でも……」
「寝る時間が惜しいと僕らの進言を突っぱねてこうしていたわけだ。僕らとて、最善は尽くした」
「そうか……」
なら、この二人を責めるべきではない。
そう思った桜緋がキッと富士宮の姉弟を振り返ったとき、桜緋の背後にいた梅妃がすっと前に出た。
「阿呆が」
前に出ると同時に放たれた冷ややかな罵倒は、たった一言でも聞いた者を本能的に委縮させる。しかし、桜緋だけは委縮するどころか、あーあ……とでも言いそうな雰囲気で、険しい表情を隠さない梅妃の横顔を見上げている。梅妃も桜緋にとってはただの古馴染みで、別に彼女が怒っても恐ろしさなど微塵も感じない。桜緋の方が精霊としての格も生きてきた年数も遥かに上回っているのだ。恐れる理由はなかった。
梅妃は覇気と怒気を剥き出しにして、くすんだ顔をしている姉弟を見下ろした。
「この戯け。ぬしらは己の立場を忘れたのかや。ぬしらがここの
容赦ない梅妃の説教を二人は無言で聞くしかない。
桜緋も溜息混じりに梅妃ほど辛辣ではないが、それでも冷淡に告げた。
「普段、上に立つ者として振る舞えているとしても、この状況下で正常な判断ができなければ何の意味もない。己の未熟さを思い知れ」
二人の気迫に完全に呑まれてしまった富士宮姉弟。
重くなった室内の雰囲気をどうにかしようと黙って見守っていた楓雅が口を開いた。
「で、徹夜して何か収穫はあったか?」
「特には……」
「残念ながら……」
「言わんこっちゃないの」
「まったくだ」
取り直そうとしたはずが悪化させてしまった。
どうしたものか。楓雅としても、この虫の居所が悪そうな女性陣に声を掛ける気にはなれない。しかも、さっきまで顕現していたはずの二名が消えている。この展開を察して守備に戻ったらしい。水黎あたりがいてくれたら少しは違っただろうに。くそ、逃げられた。いや、自分が逃げ損ねただけか。
そのとき、守備に戻っていたはずの水黎が再び皆の前に顕現した。
「荘司、美里」
「どうした、水黎」
「来客が」
「こんな日に?」
美里が不審感を露わに眉を寄せる。
「組合員か?」
「いいえ……」
水黎が淡々と口にした客人の名に美里と荘司は顔を見合わせた。
***
「お兄ちゃん! お姉ちゃん!」
無邪気な子供の明るい声音に思わず部屋にいた面子の表情が緩む。
「美月、よく来たね」
「久し振りねぇ、美月。また背が伸びたんじゃない?」
美里と荘司も笑顔で妹の頭を撫でた。
そのあとに続いて入ってきた壮年の男はニコリとも笑わず、一言も口を挟むこともなく仏頂面で弟妹が再会を喜んでいる様を眺めている。この男が富士宮兄妹の長兄、富士宮悠司であった。
三十代に入ったばかりの彼は普段から落ち着きのある和装姿だ。生まれつき整った顔立ちも相まって、大変よく似合っている。無愛想でなければ、大変モテることだろう。だが、現実は仕事のことしか頭にない上に愛想が欠片もないことから、どんなに見た目が良くても女性から敬遠されてしまうのだった。
悠司は部屋に入って、すぐ室内を見渡した。そして、数ヵ所に目を留めてから荘司の方を見た。
「……五人、いるな」
「はい、そうです。さすが兄さん、一目で看破しましたか」
「見覚えのない者もいるようだが」
その言葉には美里が答える。
「ええ。荘司に付いてはいないけど、
美里の声に応じて隠形していた精霊たちが姿を現した。
桜緋は顕現すると同時に悠司を一瞥し、興味深そうに瞳を細めた。
「……兄妹の中では群を抜いているな」
「そう言う貴殿こそ、この五人の中では圧倒的な霊力だ」
「名は」
「富士宮家現当主、また精霊組合組合長、富士宮悠司」
「なるほど。お前が、あの悠司か……」
長兄を知っているような桜緋の口ぶりに美里は目を丸くした。
そんな美里に桜緋は当然だろうといわんばかりに肩を竦めてみせた。
「精霊組合という組織は以前まで、あくまで陰ながら存在する集団だった。表の世界には一切認知されない、正真正銘世界の裏側を密かに支えるものだった。だが数年前、新たに就任した組合長は精霊組合の存在を表の世界に晒した。すべての人間に対してというわけにはいかなかったが、国の舵取りを担う者にはこの存在を知らせ、しかも容認させた。おかげで現在の精霊組合は宮内庁の保護の元に活動している組織として財源といった保障が与えられるようになっている。宮内庁の中に
精霊の存在は宮内庁といった公家に近い官庁の中では一程度知られていたが、近代になってから私人の手で作られた精霊組合を知る者はこれまでいなかった。現代になり、私人の力だけでは限界を感じた悠司はツテを使って精霊組合に基盤を与えたのだ。公的に世界の深部を護る組織というレッテルを見事掴み取った悠司は若くても組合の中で組合員の敬意を集めている。
「精霊組合が単なる霊能者と精霊の寄せ集め集団から宮内庁の懐刀になれたのはお前たちの長兄の力だ」
「そんなことよりも」
淡々とした口調で悠司が口を開いた。
「状況はどうなっている?」
その問いを聞いた荘司と美里は表情を曇らせた。
「……残念ながら、何の手がかりも未だ掴めていません」
「そうだろうと思っていた。今回の邪気はあまりに異質。だからここまで出てきた」
「どういうことだ」
桜緋が剣呑さを隠さずに問う。悠司は殺気すら醸し出している桜緋に臆することなく告げた。
「気配が定まらない。……人か、邪気か」
「なに? 人が邪気に憑りつかれたというのか」
「いや、わからない。霊気が俺の目にも映らない。邪気の中でも異分子だということはわかるが、それ以上が見えない」
「それなりに知恵のついている奴とみるべきだろう。我々から逃れるという意思を感じ取れる」
「ああ。同意見だ」
「だが、そこまで手の出しようがないと判断しておきながら、なぜここに来た」
桜緋が不思議そうに訊くと、悠司は美月の方を見て無言で手招きした。すると、美月は次兄と姉の元から従順に長兄の傍に駆け寄る。
美月の頭をゆっくりとした手つきで撫でながら悠司は言った。
「ここに赴けば、邪気の正体は見えずとも攫われた組合員の霊気くらいは、はっきり見えるかもしれないと思ってな」
「それは本当か!?」
楓雅が思わず詰め寄ろうすると、梅妃が肩を掴んで止めた。
「悠司は確信までいっていない。ぬしとて、わかるじゃろう。あまり詰め寄るでない」
「だが……!」
「あまり往生際が悪いと落とすやもしれんぞ」
「お前が誰かの肩を持つとは珍しいな」
「
楓雅も自分と梅妃の実力差がわからないほど愚かではない。梅妃は意外と感情的な面があるのだ。特に、気に入った人間に対しては。
楓雅が引くと、梅妃は悠司を振り返った。
「確か、末の妹御は他人の霊能を高める才を持っておったはずじゃ。妹御の助力を得たうえで対象との距離を縮めれば悠司の目は必ず見通す。そうじゃろう?」
愛しげにすら聞こえる甘い声音で梅妃が言うも、悠司の無表情は揺るぎもしなかった。梅妃も、そんなことは全く期待していないので気にしていない。
「概ね
「大丈夫、だと思う」
ポンと兄に肩を叩かれた美月は緊張で表情を強張らせている。だが、姉兄の役に立ちたいという気持ちは本物だ。緊張していても、瞳はやる気と誠意に満ちている。
「じゃあ、行くぞ」
悠司がそう言うと同時に美月の髪が霊気に煽られて揺れ始めた。荘司が美月の右肩を軽く掴み、自身の霊気を美月のものに同調させていく。同調していくにつれて悠司の髪も揺れる。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫だ、問題ない」
不安そうな美月に短く告げて、悠司は周辺の霊気を見渡した。
意識を集中させると、普段見るよりも遥かに鮮明な霊気の層が目の前に現れた。微かな淀みや歪みすら、今ははっきりと目に映る。
しばらく無言で、悠司は霊気を見据えていた。その瞳は今だけ鮮やかな空色に染まり、視線は虚空を捉えている。
「――――見えた」
その呟きに楓雅が即座に反応した。
「和葉はっ」
悠司はゆっくりと空色の瞳を楓雅に向けて答えた。
「猿島に彼女の霊気が留まっている」
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