楓と巫女

記憶を重ねて

 和葉と喧嘩なんて、よくあることだ。いつものことだ。なんてことはない。

 そう思おうとしても溜息が零れる。


「いつもの喧嘩と一緒にできるかよ……」


 いつものは、ただの言い合いだ。言ってしまえば、戯れだ。今回のように、互いの意見が真っ向から対立した試しは今までなかった。


「ったく……」


 和葉の頑固な顔が脳裏に浮かぶ。

 琴乃に対する和葉の執着は並外れている。早くに母を事故で喪い、妹は自らの目の前で喰い殺された。執着するなと言う方が酷だろうが、今は亡き最愛の妹のためならば、自分の人生まで擲ってしまう点は問題だった。


「それだけ、自分を許せてないってことなんだよな……」


 当時無力だった自分をずっと責め続け、ひたすらに強さと復讐を求め続けている。

 和葉の危うさは今に始まったことではない。出会ったときから、ずっと危うかった。妹を食い殺された刹那から、和葉の心はいつ壊れるかもわからない不安定さを内包するようになったのだ。しかし、現在が最も揺れているだろう。

 一歩でも踏み外せば堕ちる。そこまで、和葉は追い込まれている。考えたくもないが、彼女が堕ちた場合の損害は、本人の人生設計が狂うだけではない。和葉ほどの霊能者が精神的に堕ちれば、周りに対する被害は無論甚大になる。強い力は諸刃の剣だ。


「踏み止まることができるかは、和葉次第だしな……」


 ありのままの自分を受け止め、前を向くことができるか。そこに全てがかかっている。


「参ったもんだ」


 和葉に最も寄り添っているはずの自分が、何もしてやれないとは。

 情けなさから、本日何回目かわからない溜息を吐き出した。


「辛気臭い顔を晒しておるのぅ」


 背後に顕現した妖艶な美女を振り返り、楓雅は苦笑した。


「仕方ないだろ。長生きの精霊とて、参ることもあるさ」

「まぁ、そうじゃの。否定はせん」

「何しに来た?」

「荘司が娘を気にしておっての」

「そうか……」


 荘司は和葉の現状を正確に理解している。そして、これは彼女自身が乗り越えるべきものだということも。踏まえた上で、案じているのだ。


「……荘司はともかく、俺は何してるんだろうな」

「それはわっちの台詞じゃ。こんなところで何をしておる、いつ堕ちるかも知れぬ、危うき娘を放って」


 眦を吊り上げた梅妃が近寄ってくる。

 楓雅は顔を顰め、逃げるように近くの木の上に飛び上がった。

 太い枝の上に立つと、梅妃が呆れ顔でこちらを見上げてきた。


「ぬし……自分が恥ずかしくはないのかえ?」

「すまんが、女の説教は俺の弱点なんだ」

「ほう?」


 面白いことを聞いた、と言わんばかりに梅妃は唇の端を吊り上げる。


「なんじゃ、小娘に説教される日々に、なんだかんだで応えているのかえ?」

「和葉の説教もきついが、あれよりも強烈な説教があるんだ。お前のような女に説教されたら、あれを思い出しかねん」

「ふむ。そうなのか」


 もっと突っ込んでくるかと思ったが、意外にも梅妃はあっさりとしている。


「……追及しないのか?」

「して欲しいのかえ?」

「いや、そういう訳ではないが……」


 梅妃は大袈裟に息を吐き出して、楓雅の隣に飛び上がってきた。


わっちは、あの娘が危ういというのに、平然とこんなところで油を売っている、ぬしが解せぬ。それだけじゃ。ぬしの趣味嗜好など知ったことではない」

「趣味嗜好なんざ、話してるつもりはないんだが……さっき、和葉を怒らせたんだ。今の和葉に近づいたら、ますます頑なになりかねない。その拍子で道を踏み外したらどうする。俺の手にも余る事態になるだろ?」

「何を悠長な。泣き言など言っとる場合か、この戯けめ。あの娘と喧嘩でもしたことを理由にしておるがの。わっちの目は誤魔化せんぞ。……ぬしは、恐れとる。あの娘に、何かを重ねておる」


 今まで誰も触れてこなかった核心を突かれて、楓雅は口を噤んだ。

 梅妃は黙り込む楓雅を、ちらりと一瞥する。


「ぬしが、なにゆえあの娘と組んだのか。それが、ずっとわからぬのじゃ。あの娘が、ぬしと組んだ理由はわかる。人という生き物は、邪気とやり合うには非力。我々の助力が必要じゃ。じゃが、ぬしは。……ぬしは、あの娘に何かを見た。そうでもなければ、ぬしはあの娘と組む利点はない」


 精霊は人の霊力を糧にするが、それは必ずしなければならないというわけではない。自然回復でも十分に霊力は維持できる。人の霊力を利用すると、便利というだけで。

 梅妃の指摘に、楓雅は大きな溜息を吐き出した。鋭すぎる。遠慮も情け容赦もなしか。

 楓雅はずるずると幹にもたれるようにして、枝の上に座った。

 顔を上げると、梅妃の鋭利な視線が刺さった。


「……昔の話だ」


 そして、俺が今まで生きてきた理由でもある。

 楓雅は遠い記憶を呼び覚ましながら、そっと目を細めた。

 あの女のことを、この数百年の間で一日も忘れたことはない。あの艶やかな黒髪と、鋭い眼光を放つ凛とした瞳。

 澄み渡った夜空を仰ぎながら、楓雅は静かに語り始めた。


 あの、驚くほどに強情な巫女との日々を。

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