彼女が剣士になった日
祖父母との暮らしにも、もう慣れた。
最初の頃に比べたら、二人の態度も軟化してきたと感じられるようになってきている。数年という時間がかかったが、それでも祖父母に受け入れて貰えているという事実が喜ばしい。
琴乃も昨年から小学生になり、和葉は春から中学生になった。
「お姉ちゃん、待ってよ」
「なんでいつも私と一緒に行きたがるのよ。友達と行けばいいのに」
「お姉ちゃんだって、私がいないと一人で行くことになるじゃん」
「私は別にいいの」
「えー」
朝は必ず姉妹で登校する。
特にこれといって縛りや理由はないのだが、なぜか琴乃が友達と一緒に行きたがらないのだ。けれど、もう一、二年もすれば琴乃も姉と一緒に登校するなんて嫌だと言うようになるだろうし、和葉は今だけのことだと楽しむことにしている。
「全く……ほら、早くランドセル持ってきて。置いてくよ」
***
和葉は剣道部に所属していた。といっても、偶に顔を出す程度の幽霊部員。普通許されることじゃないだろうが、和葉の腕が良いということと複雑な家庭事情ゆえに、そうそう放課後の活動に参加できないということで、特別に黙認されているのだった。
「本当なら部活なんて入る気もなかったのよ……」
文句を言っても生徒全員強制入部だから、仕方ないと割り切るしかない。そう言いつつも、自分には剣道のセンスがあるらしかった。
顧問から、これで毎日練習に出ていれば大会上位入賞も夢じゃないのに勿体ないと、何度言われていることか。
「センスがあっても余裕がないのよ……」
今日は珍しく練習に参加したので帰りが遅い。琴乃がきっと夕飯を食べずに待っている。だから、早く帰らなければ。
そう思ったときだ。
「あ、お姉ちゃん!」
「琴乃?」
通り過ぎようとした公園から、家で待っているはずの琴乃が出てきた。
「何やってるの、こんなところで」
父親によく似た黒髪を二つに結んだ妹は、姉に駆け寄りながら答えた。
「友達と遊んでたんだけど、待ってればお姉ちゃんが来るかもって思って。待ってた」
一人ということは、その友達はもう帰ったのだろう。当たり前だ。もう七時を過ぎている。
やれやれと和葉は額に手を当てた。
これは確実に帰ったら説教だろう。自分は問題ないだろうが、琴乃は大目玉を食らう。
自分がやらかしていることを全く自覚していない琴乃に、和葉は腰に手を当てて眦を吊り上げた。
「お祖父ちゃん達には、ちゃんと言ってきたの?」
「何が?」
「私を待つから遅くなりますって」
「あ」
「あーあ……知らないわよ、私」
琴乃は和葉以上に、厳格な祖父母に対して苦手意識を持っている。
帰ったら怒られると悟った琴乃の顔から、さっと血の気が引いた。オロオロと辺りを見渡し、門限を軽く過ぎている時刻だと察して、どうしようと言わんばかりに姉の顔を見上げる。
和葉がそっぽを向いたままでいると、ふぇぇと琴乃は情けない声を上げた。
「ど、どうしよう……」
「一緒に帰って説明するしかないわね」
「お、お姉ちゃんも一緒に……!」
「説明なんてしないわよ。なんで私まで」
「お姉ちゃん冷たい!」
姉に見捨てられ、琴乃はこの世の終わりみたいな顔をしている。笑い出しそうになるのを和葉は必死に堪える。
本当はここで門限を破ったことや、こうやって暗い中一人でいて、何かあったらどうするんだといったことを問いただし、叱りつけるべきだろうが、健気に部活で帰りが遅くなった姉を待っていたという動機は悪いものではない。これから祖父母から叱られることだし、姉たる自分くらいは少し大目に見てあげてもいいかもしれない。
和葉はしゃがんで、琴乃と目線を合わせた。まだまだ小さいその手を取り、そっと言い聞かせる。
「私を待っててくれたのは素直に嬉しいわ。ありがとう。……でもね、こうやって一人でいて、知らない人に遭ったり、怖い思いをしたら大変でしょう?」
「うん……」
「今度からはちゃんと、家で待ってて。いい?」
「……ごめんなさい」
「よし。……帰ろう」
「うっ……」
祖父母の怒った顔を想像したのだろう。琴乃の表情が強張る。
それを見た和葉は苦笑交じりに溜息を吐いた。
「はぁ……仕方ないな。私からも言ってあげるから、ちゃんと謝るのよ?」
「うん!」
妹としっかり手を繋いで立ち上がったときだ。
今まで感じたことのない危機感と緊張感が走り、和葉は妹の手を強く握った。
***
「クソッ……どこに消えた、あの邪気は……ッ!」
大剣を担ぎ、楓雅は周囲を見渡した。
数百年ぶりに見つけた、おぞましい邪気。あれだけは、自分が狩る。
今は見失ったが、すぐに見つけて祓う。
あれだけは、俺が殺るのだ。
***
ぞくぞくとした悪寒を感じながら、和葉は琴乃を引き寄せた。
「どうしたの……?」
「黙って、琴乃。何かおかしい」
公園にいたはずなのに、遊具などの周囲にあったものが消えている。
未知の状況に腹の底から恐怖が込み上がる。それでも、耐えねば。自分が怯えたら琴乃も怯える。せめて、気丈に。
「お姉ちゃん……」
服にしがみついてくる琴乃の背をさすり、和葉は辺りに気を配りながら笑ってみせる。
「大丈夫。私がいるんだから」
今日が部活で幸いだった。練習用の竹刀はもちろんのこと、今日はそれだけでなく、修学旅行に行ってきた先輩から貰った土産の木刀まで持っている。得物があれば、どんな相手が来ても、なんとかなるはずだ。いや、なんとかしなければ。
「…………っ!」
背後から大きな影のようなものが伸びてきて、二人を飲み込もうとするかのように覆いかぶさってきた。
「――――ッ!」
琴乃の甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。
和葉は一旦、琴乃から手を離し、素早く竹刀を取り出して、襲い来る影に斬りかかった。
しかし、影は一撃を包み込むようにして受け止め、そのまま竹刀をへし折ってしまった。粉々になった竹の破片が、和葉の頬を掠めて飛んでいく。
「いっ……!」
破片で皮膚が切れ、鋭い痛みが走る。
そして影に腰を掴まれ、無造作に放り投げられた。
地面に強か背中をぶつけ、和葉は呻いた。頭が揺さぶられ、目眩と吐き気に襲われる。
「っ…………っ、琴乃ッ!」
蹲って衝撃を耐えていたが、妹の悲鳴が再び聞こえ、込み上がってくるものを飲み込みながら立ち上がった。
顔を上げると、妹が地面に倒れている。
「琴乃ッ!」
「お姉ちゃん!」
体が地面に倒れているというのに、なぜか妹は影に掴まれている。
一体どういうことだ。
有り得ないと理性が叫ぶ。この状況は何だ。許容範囲を軽く超えている。気を抜いた瞬間、失神するだろう。
和葉は気力だけで影を睨みつけた。土産で貰った木刀を出し、まっすぐ斬りかかる。
「妹を……琴乃を、放せ――!」
「おねえ……」
妹の、涙に濡れて恐怖に歪んだ顔が、影の向こうに消えた。
何の音もしなかった。
けれど、影の中に捕らわれていた妹が次の瞬間には、もういない。
これがどういうことを意味するのか、和葉は敢えて理解しなかった。
「琴乃を返せ!」
和葉の振り上げた両腕を影が捕らえる。そのまま持ち上げられ、影の奥深く、闇の底に引き摺られる。
「放せ、琴乃を、琴乃……っ!」
不思議と怖さは感じていなかった。
琴乃を取り返す。琴乃を傷つけた、琴乃を泣かせた、許さない。それしか頭になかった。
しかし、もがきながら和葉は不意に悟った。
自分も、此奴に喰われる。……妹と、同じように。
そう思った瞬間、体から力が抜けた。
妹のところに行ける。妹の元に、行ける。
和葉の手から木刀が、するりと抜け落ちた。
「琴乃…………」
このまま、あの子のところに。
和葉の心は抵抗を止め、硬直してしまった。理不尽な死を受け入れてしまう。無防備に。
「おい、しっかりしろ!」
和葉を拘束していた影の触手が叩き切られ、体が空中に投げ出される。放られた体躯を、しっかりと受け止める者がいた。
精悍な容貌の青年。手に持った大剣で影を牽制しながら、抱き留めた和葉の無事を確かめる。
「大丈夫か」
「……」
衝撃のあまり言葉を失っているだけだろう。
そう思って、楓雅は片手で大剣を構えた。
「今度こそ、貴様を斃す!」
楓雅が宣言した刹那、影は野太い唸り声を轟かせ、穢れた風が吹き荒れる。
「くっ……」
思わず、目を瞑る。
目を開けると、異空間ごと影は消えていた。
***
楓雅と名乗った男の説明を和葉は理解した。
この世には精霊という存在がいて、人々に様々な形で害をなす邪気を祓っている。
そして、妹は。
公園のベンチに座った和葉は、傍らに横たえられているピクリとも動かない妹を見下ろした。
「……じゃあ、琴乃は」
ぽつっと和葉が呟くと、楓雅が痛みを堪えるような目をした。
そういうことだ。
「あれに……喰われたのね、琴乃は……」
「……そうだ」
肉親を喪った哀しみで泣くかと思ったら、目の前の少女は涙ひとつ見せなかった。
ただ、感情の見えない眼差しを妹の冷たい亡骸に向けている。
「彼女の魂は奴の糧になってしまった。……すまない。助けられなかった」
「……ねえ」
少女が楓雅を見上げた。
喪失に傷つき、ずたずたになった心が瞳から透けて見える。
「……なんだ」
「貴方、あれを狙ってるんでしょう?」
「ああ。あれは俺もずっと追っている。それでも仕留められない」
「……私も、あれを討ちたい」
「……」
和葉は足元に転がっている木刀を拾い上げた。
「私には得物がある。やれなくないはずだわ」
「得物があっても、技術がない。お前の剣技は実戦では使い物にならん」
「なら、教えて。実戦の剣術を。貴方、さっき大剣を使っていたわ。ということは、剣術は一通りできるでしょう?」
「な」
躊躇いも何もなかった。
彼女の中では、もう既に決まっているのだ。あの邪気を斃す。その決意が固まっている。彼女は腹を括っている。早くも、その目は剣士の鋭い光を帯びていた。
少女の固い意志を前に、楓雅は唇を吊り上げた。
この娘……どことなく、似ている。
「……いいだろう。気に入った。今から俺たちは、互いの協力者で相棒だ。……お前、名は?」
不敵な笑みを浮かべて問いかけると、少女はしっかりとした声で答えた。
「志摩、和葉」
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