太刀振るう巫女
確か、まだあれは鎌倉に幕府ができる前の頃だ。
精霊として生を受けた俺は、その身に本能として刻まれた使命を果たすためだけに、淡々と生きていた。特にこれといって、執着も目的もなく。ただ、邪気を祓い、均衡を保つ者として、そこに在った。
といっても、当時は俺も精霊として若輩者だった。ゆえに、失敗することや苦戦を強いられることも多かったものだ。
***
傷口から血液が噴出する。
「ぐっ……」
熊のような形状をした邪気の爪が、二の腕辺りの肉を根こそぎ抉り取っていったのだ。抉られた箇所は、ごっそりと陥没して大きな穴になっている。だらだらと流れる血液を手で乱雑に拭い、そのまま圧迫して止血する。
精霊の血肉には霊力が詰まっているから、邪気のいい餌になるというわけだ。
洗練され、経験豊富な精霊ならば、血肉を介してでも邪気を祓えるのだろうが、生憎楓雅はまだそこまで至っていない。ただ、餌を与えたに過ぎない。
「くそっ」
利き手を潰されたせいで、得物が上手く扱えない。大剣を握る手が小刻みに震えている。筋肉が悲鳴を上げているのを無視し、楓雅は地面を蹴った。
邪気の懐に刃を突き刺し、そこから霊力を叩き込めばいけるはずだ。
そう思ったものの、肉体は限界を迎えている。
懐に飛び込むまでもなく、楓雅は邪気の放つ禍々しい瘴気に弾き飛ばされた。
「ぐっ……っ!」
異空間の穢れた気も肉体の回復を遅らせる。
通常ならばもう出血が止まっていてもいいはずが、今は止まる気配もない。
思ったよりも失血がひどい。徐々に寒気が全身を襲ってきている。四肢から力が抜け、得物を支えに膝をついた。
「くそ……」
視界がぼやける。目の前が霞みがかって、意識が遠のく。掴んでいなければ、するりと抜けていってしまいそうなほどに、意識は朧気だ。
一刻も早く流血を止めなければ、こちらが喰われる。
立ち上がることもままならず、残された余力で最低限自らを守る結界を張って、弱っていると踏んだ邪気からの猛攻を凌ぐ。
そんな最後の砦さえ、ミシミシと嫌な音を立てているのだから、これは相当まずい状況だ。
このまま押され切って、呆気なく死ぬのだろうか。
そんな悲観的な考えが頭をよぎる。
楓雅は弱々しく笑った。
結界が、もう、保たない。
膜が破れるようにして、結界は引き裂かれた。邪気の鋭利な爪が目前に迫っている。
茫然と、命を奪いに来たそれを眺めていた。
突然、視界が真っ黒に染まった。
何かが吹っ飛んだらしく、激しい地響きと突風が起こる。
「貴方、大丈夫?」
鈴の音を連想する、涼やかな声音が降ってきた。
のろのろと楓雅が顔を上げる。視界を黒く染めたのは、女の髪だった。太腿辺りまで伸びた見事な黒髪。纏っている衣装は巫女のそれ。
楓雅は目を見開いた。信じられない。人間の、しかも女が、なぜここに。
それに、この女は邪気の攻撃を防いだのだ。
さっき吹っ飛んだのは邪気の本体。邪気が苦痛に唸り声を上げている。
この女、何者だ。
「お前、は……」
「喋らないで。傷に障るわ」
肩越しに振り返ってきた女は、柔和な面差しをしていた。しかし、その瞳に宿る光は力強い。
「嫌な気配がすると思ったら、こんな大物がいたなんて」
女の緋袴に何やら布の巻かれた得物が差されている。
女はそれを無造作に引き抜き、巻かれている布を解いた。
鈍く光る刀身。太刀だ。
本来、刀は女が持つには重いだろうに、この女は軽々と扱っている。女はかなり細身に見えるが、鍛えているらしい。
「さ、早く片付けて負傷者の手当をしましょうか」
「待て……!」
無茶だと言うまでもなかった。
女はまっすぐ邪気に向かって走り、小柄な身を活かしてその懐に飛び込む。
そこに辿り着くまでにも、行く手を阻もうと邪気の触手が伸びてきていたが、女は自らに迫るそれらを刀で殴打して退けていた。
懐に飛び込むと、刀の切っ先を天に向け、思い切り邪気の巨体に突き刺した。
邪気から溢れる瘴気と体液に
「消えなさい」
悪戯な子供に対して優しく言い聞かせるような口調だった。しかし、そんな言葉とは裏腹に、女からは凄絶な霊力が迸り、跡形もなく邪気を祓い切った。
異空間が崩れていく中、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた女は、体液に濡れた手を懐から取り出した布地で拭ってから、そっと差し伸べてきた。
「さ、その傷を手当しましょう」
***
女は山間にある小さな社に仕える巫女だった。楓雅は狭い敷地の中にある巫女が寝泊まりしている建物に連れて行かれ、傷の手当をされた。手当といっても、人間のそれとは異なる。血止めは人間と同じように行うが、その後は巫女の清浄な霊気を患部に注がれるのだ。霊気さえ回復すれば、自力で組織を再生できる。
「肉が丸ごと持っていかれてるのに、よく結界を張っていたわね……」
見た目は二十歳くらいだろうか。たっぷりとした黒髪は美しく、巫女でなければ既に男と一緒になって子を成していてもおかしくない。
楓雅は穏やかな眼差しで傷を診ていく巫女の横顔から目を逸らしてぶっきらぼうに言った。
「精霊の肉体は頑強なんだ」
「そうなの?」
「なんだ、疑うのか」
「だって、殺られる覚悟してたじゃない。私が駆けつけたとき」
巫女は瞬きして、小首を傾げた。
わざとじゃない。わざとじゃないとわかっていても、これは応える。
「あのなぁ……」
「精霊にも色々あるってところね。わかったわ」
「おい」
勝手に納得している巫女は楓雅が凄んでも気にする素振りも見せない。楓雅の霊気に鋭さが帯びても気にしないとは、豪胆といえる。
それにしても、この巫女はなぜ邪気を祓っているのだろうか。
確かに、彼女の実力は折り紙付きだ。けれど、わざわざ命を張って祓う必要性はないはずだ。
「お前はなぜ人間の身で邪気を祓っている?」
「皆が心穏やかに暮らせるように、私にできることがあるからやっているだけ」
「……それだけか?」
「ええ」
「……そうか」
「なぁに、気になるじゃない。そんな風に言われたら。言いたいことは、ちゃんと言ってちょうだい」
神事を司る存在たる巫女だというのに随分と砕けた態度だなと楓雅は思った。まあ、本人の性状ということだろう。このくらい人間らしいと、むしろ好印象だ。無感情に淡々と神事だけを執り行う巫女というのは、楓雅としてはつまらない。このくらい表情や感情があった方がいい。
「……いや、人間はもっと身勝手な生き物だと思っていたからな。意外だった」
「人間は身勝手よ。私だって、身勝手で貴方達の使命を奪ってる」
「それでも、その理由は俺達と変わらない。平穏のためだ」
「いいえ。貴方達は世界のために邪気と対峙しているわ。私はあくまで、一部の人間のためだけ。自己満足もいいところよ」
「謙遜のし過ぎは嫌味になるぞ、巫女」
そこまで言ってから、楓雅はしまったと思って口を噤んだ。言い過ぎた。
傷つけてしまっただろうかと不安になったが、巫女は目を丸くしてこちらを見ている。
「巫女……」
楓雅が謝ろうとしたとき、巫女が口元を押さえて吹き出した。
「っ……そう、そうね。確かに、その通りだわ」
「巫女?」
訝しげな楓雅の問いかけに巫女は笑いながら首を振った。
「違う、違うのよ……」
巫女は、ひとしきり笑ってから改めて楓雅に向き合った。
「なんというか……こんな風に誰かと言い合いなんて、したことがなくて。面白くて……ごめんなさい。馬鹿にしてるとか、そういうことではないのよ」
「あぁ……」
そういうことか。
この社は人里から少し離れている。食材の買い出しなんかのときは山を降りるのだろうが、それ以外の理由で巫女が山から出る必要は基本的にない。巫女と人里に暮らす村人達との距離は近いものではないだろうし、こうやって他人と話すことも稀だろう。
「楓雅と話すの、すごく楽しいわ。そうよ。どうせ私以外の人は、この社には住んでいないし。傷が癒えるまで、ここに泊まるといいわ。むしろ、そうしてちょうだいな」
「おいおい、初対面の人外相手に警戒心が足りないんじゃないのか?」
「大丈夫よ。楓雅はひどいことなんてしないわ」
「どこからその信用は湧いてくる……」
「直感」
掴みどころのない女だ。
にこにこと笑っているのに、その瞳にはやはり邪気をも叩きのめす強かさが宿っていた。
「……いや、さすがに泊まりは気が引ける。それに、お陰様でもう霊力は回復し切った。これなら」
軽く腕に力を込めると、抉れていた組織がみるみるうちに再生していく。
「あぁ……残念だわ」
「怪我人が治って残念がるなよ……」
楓雅は頭に手をやって嘆息しながら立ち上がった。
巫女はその場に端座したまま、長身な楓雅を見上げている。
「行くの?」
「ああ」
強気な瞳に悲しげな色が映る。
なんだか悪いことをしている気分だ。そんなことはしていないのに。こうなったら仕方なかった。楓雅は踵を返しながら告げる。
「……また今度、顔を出す」
そう言い残して隠形した楓雅のいた所を唖然として眺めていた巫女は、しばらくしてからハッとして、心底嬉しそうに笑ったのだった。
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