剣士の家庭

 帰宅した後も鬱屈とした表情でいるわけにはいかない。和葉は自宅の扉を開けた瞬間、受験生の自分に戻った。


「ただいま」


 和葉の家は、ごく一般的な一戸建てだ。特にこれといって、常軌を逸した点はない。

 薄暗い廊下を進み、リビングに入る。


「お帰り」


 ソファに座って夕方のニュース番組を見ている父を見つけ、和葉は瞠目した。


「お父さん、帰ってたの」

「ああ。少し休みを貰った」

「そう」


 短く、乾き切った父娘の会話。

 和葉の父は海上自衛隊に勤める自衛官だ。普段は船に乗っていて、不在にしていることが多い。こうやって、迎えてくれることは珍しい。


「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは?」

「買い物に行ってる」

「そう」

「受験勉強はどうなんだ?」

「まあまあよ」

「そうか。無理はするな」

「うん」


 そんなやり取りをしてから洗面所に向かい手を洗った。少しだけスッキリした気分で洗面所から出てきたとき、祖父母が買い物から帰ってきた。

 スーパーの袋を二つほど持った祖母が玄関に入ってくる。


「あら……和葉、帰ったの」

「うん。……なんだか、お腹空いちゃって。早めに帰ってきた」

「そう。なら手伝いなさい」

「はい」


 孫と接する祖母というのは、大抵は笑顔で優しく、穏やかなものだろう。

 しかし、和葉と接する祖母の表情は硬い。嫌っているといったら、いささか語弊があるが、温もりというものはとても感じられなかった。

 和葉はそれを気にしていない。それが当たり前だから。いつものことだから。むしろ、温かい祖母なんてものを和葉は知らない。


「和葉」

「お祖父ちゃん」

「まだ車に荷物が残っている。取りに行きなさい」

「はい」


 祖父に車のキーを渡されたので、和葉はサンダルをつっかけてガレージに向かった。


 ***


 夕飯は祖母と二人で冷やし中華を作った。父のいる食卓は三ヶ月ぶりで、色々な話ができて楽しかった。いつもは家族三人揃っても、無言で黙々と食事を摂るしかない。父がいるだけで、家の中が普段よりも遥かに明るかった。

 父はあまりお喋りではないが、穏やかな人で話が上手い。本人は至って静かに話しているのに、内容が面白くて周りが思わず笑ってしまう。そんな周囲に感化されて、父も唇に笑みを乗せる。

 ……きっと母も、こんな人だから結ばれて一緒になりたいと思ったに違いない。

 食事を終えると、和葉は父と一緒に仏壇の前に座った。立てられている写真は二枚。一枚は、太陽にも負けじと快活に笑っている女性。もう一枚は、あどけない無邪気な笑顔でピースサインをしている幼い女の子。――和葉の母と妹である。


「……もう、五年になるのか。琴乃が逝ってから」


 ぽつんと呟いた父に、和葉もぽつりと呟きを返した。


「お母さんなんて亡くなってから、もう八年になるわ」

「……早いな」

「うん」


 悲しくないといえば嘘になる。けれど、悲しみに暮れる時期はもう過ぎた。父と自分は二人の分まで生きている。だから、大丈夫。


「半年もすれば受験本番だろう。既に疲れてるだろうが、頑張ってこい」

「うん。ありがとう、お父さん」


 和葉は明るい笑顔を父に見せてから踵を返し、軽快な足取りで二階へと駆け上がっていった。


「和葉……」


 妻も下の娘も早くに逝ってしまった。自分と共に遺された和葉。和葉は自分の娘だ。最愛の妻との間に生まれた子だ。その笑顔の奥にある傷痕がわからないほど、自分は不出来な父親ではない。痛みを堪えるような眼差しを、階段に向けたまま娘を思う。


「……やはり、まだ辛いんだな。和葉」


 ***


 一応、和葉も将来の見通しくらいは考えている。今のところ、経営学か経済学辺りを勉強して、ビジネスに強い人間になりたいと思っていた。公認会計士かファイナンシャルプランナー辺りになるのがいいかもしれない。

 国公立志望なので受験科目数は多い。文理系共に、これといった苦手分野はないが、量が多いので苦手がなくても苦戦する。

 和葉は、これから追い込みの時期になっても塾にも予備校にも通うつもりはない。父に負担をかけたくないし、祖父母にこれ以上迷惑をかけるのも悪い。祖父母のことは嫌いじゃないが、昔からどこか距離感があるので、あまり要望等を言いたくなかった。

 一人自室に篭って机に向かい、熱心にシャーペンを動かしていると、視界の端に写真立てが映る。


「お母さん……」


 写真の中の母は必ず陽気に笑っている。

 母は、とても快活な人だった。常に父を明るく照らして、本当に仲が良かった。

 この日本人には珍しい金色の髪も、母から貰った。母方の祖母はイギリスの人で、自分はいわゆるクォーターだ。母の髪は自分のよりも、もっと透き通った金色で、とても綺麗だった。こうやって写真で見てもわからない美しさというものがあった。

 勉強には邪魔だからと束ねているのに、零れ出たものが何本か横からサラリと垂れてきた。それを掻き揚げたとき、母に似てきたなと父から言われたことがある。自分は母に似て、妹は父に似ていた。

 大好きな母をうしなったときは、言葉で言い表せないほど悲しかった。それでも、泣きじゃくる自分よりも幼い妹を励ましながら、懸命に姉らしくしようと頑張っていた。

 しかし、そうやって互いに互いを支え合っていた妹と突然死別したとき、和葉の中で何かが壊れたのだ。

 今の和葉を生んだ原因。和葉が強さを求める理由。邪気を嫌悪するきっかけ。全ての始まり。――妹が目の前で、邪気に喰い殺されたのだった。

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