剣士と家族
衝突
巨大で躍動感の溢れる入道雲が、鮮やかな夏の青空を飾る。プールバッグを振り回しながら道を駆けていく小学生と擦れ違う。
観光地鎌倉の賑わいも遠く聞こえる。
和葉は店を出た後、どこにも寄ることなく駅に向かった。まだ帰るには随分と早い時間帯だったが、躊躇うことなく改札を通って下り電車に乗り込んだ。
家族連れやカップル。それぞれが楽しげに会話を交わしている車内で、和葉は一人だ。いや、厳密に言えば一人ではない。だが、今の和葉は、独りだった。
『……和葉』
ずっと傍に隠形している楓雅の心配そうな声に応える気も湧かない。背もたれに寄りかかり、車窓からの景色を眺めている。といっても、それだって何の感情も抱かせない。
『大丈夫か』
黙ってて、と和葉は小さく呟いた。今は、誰の声も聞きたくない。
楓雅は黙るつもりなどなかったが、その声の虚ろさに呑まれ、思わず口を噤む。
和葉を乗せた電車は、ゆっくりと三浦半島を南下していった。
***
西日が眩しい。
横須賀に戻った和葉は、まっすぐ帰らず、いつも素振りを行っている公園のベンチに座っていた。
高校からも家からも程近い、この公園には小さめながら池があり、森がありと自然が豊かだ。そんなところで素振りをすべきではないが、素振りをするときはいつも人のいない時間帯を狙っているので、誰かの迷惑になったことはない。
さっきまでは親子連れや近所の子供が訪れていた。しかし、その人数も日が落ちていくにつれて減っていった。今はもう、和葉一人だけが敷地内に残っている。
普通の人間がいなくなったため、今日一日隠形し続けていた楓雅が、ようやく和葉の前に顕現した。
「和葉」
そもそも和葉は楓雅に今日の同行を求めていなかった。気づいたら傍に気配があって、特に咎める理由もなかったから、そのままにしていただけだ。楓雅は独断で付いてきたのである。
「酷い顔をしてるな……花の
冗談めかした言葉に突っ込む気力すらなかった。
様々な人に指摘され、非難された自分の意志に向き合って、それでもそれを貫きたい自分と対峙して。和葉の心は、いっぱいいっぱいになってしまっている。あと少しでも揺れたら、全てが崩れて壊れてしまいそうだ。跡形もなく。
「和葉……」
楓雅はわかっていた。
和葉は口や態度で何と示そうと、どんなに憎まれ口を叩こうと、鬱陶しそうに顔を顰めても、心の奥底では自分に同意を求めている。お前の好きなようにしろ、俺はお前の意思に従う、支えてやるから安心しろ、と言って欲しがっている。いや、言ってくれると思っている。信じている。自分でも無意識に、無自覚に。
本気で和葉が拒絶するときは、傍にいることすら許さない。だが、今日は一日傍に隠形していても、何も言わなかった。口ごたえはしたものの、突き放しはしなかった。
「……和葉」
迷いで濁った瞳には、一点の光があった。楓雅だけは、自分を支持する。そんな願いにも似た信頼の光だ。
楓雅は和葉の縋るような眼差しを受けて、瞼を伏せた。応えてやりたかった。こんなにも消耗した和葉を見たのは、あの日以来か。恐慌と混乱の中、もがくようにして出会った、あの日以来か。
「……楓雅」
「なんだ?」
楓雅は努めて穏やかな声音を発した。せめて、優しい声で接してやりたい。……何を言うことになっても。
「私、間違ってないわよね……?」
「……」
沈黙を返した楓雅。しかし、和葉は一縷の望みを賭けて、楓雅に問いかける。
「私は仇を討つ。あの子の無念を晴らす。そのために、ずっと今までやってきた。あの子が報われるなら、それでいい。私がどうなったっていい。……そう、思ってるのに」
これじゃいけないって、理性が言うのよ。
何がいけないのか。人生の目的のために生きることの、何がいけないというのか。
迷走している和葉の思考を導くのは自分だと、楓雅は思った。だが、導くということは残酷だ。
なぜなら。
「和葉」
「……俺も、桜緋や荘司に同感だ」
本人の望む言葉ではないからだ。
***
眠っていた。
質の良い獲物を喰らい、満たされた心地で眠っていた。
『……』
――――視線を、感じる。
無感情な、視線。淡白な、視線。ただ、こちらを見ている。
何の目的で?
『……』
そいつは何も言わなかった。言わなかった、代わりに。
自分を心地よい眠りの海から、
不快だ。目障りだ。腹立たしい。
ドクン、と全身に殺意と衝動が駆け巡る。
眠りから目覚めてしまった苛立ちに震えながら思った。
……喰いたい。
***
和葉の瞳が、あまりのショックでひび割れた。お前だけは私の味方じゃなかったのか、と言わんばかりに失望しきった表情が楓雅を追い詰める。
楓雅は顔を背けたかったが、それをしたら、もう二度と和葉と向かい合えないだろう。まっすぐ、その視線を受け止めて、見返す。
和葉は微笑みすら浮かべていた。衝撃のあまり、感情が麻痺しているらしい。
「……楓雅」
和葉の虚ろで淡々とした声。
その声は容赦なく、和葉を想う楓雅を切り裂く。
「私を裏切るの?」
あの日の約束を忘れたとは言わせないわ。
呪いのような、暗い重みのある言葉だった。
楓雅に対する呪いではない。和葉が、和葉自身にかけている呪いだ。
「私と貴方は互いの協力者。……そうでしょう?」
「そうだ。だが……」
「だが、も何もないでしょう?」
反論すら許さなかった。
和葉にとって、あの日の約束は絶対だった。
「私は、あの日からずっと……!」
「それでも、お前はお前だ。……お前は、お前自身のために生きる権利がある」
「権利なんて、とうの昔に捨てたわ!」
「目的のために捨てるものじゃない」
「楓雅!」
理解し得ない。
わかり合えない。
無理だ、と二人は悟った。どちらかが折れない限り、対立は続く。対峙は続く。
「かず……」
「話しかけないで」
楓雅の呼びかけを遮り、立ち上がった。
俯いた和葉の表情は、楓雅の目線からは見えない。
吐き捨てるように、和葉は言い放った。
「もう、私の前に現れないで。……私は、独りでもやってみせる」
楓雅が、その場を去っていく和葉を追うことはなかった。追ったところで何になる。
お互いに激情が落ち着くまで、距離をとった方がいい。
歩いていく和葉の細い背を見据えながら、楓雅はそう思ったのだ。
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