剣士の家族

 二人はとても幸せだった。

 何を失っても、どんな苦労をしても、二人でいられるのなら、手を取り合って共に生きていけるのなら、それだけで満たされていたのだ。


「ねぇ、あなた」


 二人で眠りに就く、この瞬間が言い表しようのないほどに幸福で。けれど、隣に横たわる妻が、くいっと寝間着の袖を引いてきたので、寝返りを打って彼女の方を向いた。妻は首だけ捻って、こちらを向いている。体ごとこちらを向くことができないのだ。


「どうした?」

「今ね、動いたの」

「そうか」

「ね、触って触って」

「おいおい……」


 苦笑しつつ、促されるままに、ぽっこりと出てきた彼女の腹に触れると、父親だとわかったのか、胎の子がポコンと妻の腹を蹴った。もう夜だというのに、腹の中で我が子は一丁前に夜更かしをしているらしい。妻も無論、気がついてパァっと満面の笑みを浮かべた。


「ほら、ちゃんとわかるのよ!」

「そうみたいだな。すごいものだ」

「んふふ……」

「……お前は本当に、いつも嬉しそうだな。ずっと不思議なんだが、なぜなんだ?」


 悪阻に苦しんでいた時期は、だいぶ窶れてしまっていたものの、それでも彼女は毎日笑顔を絶やさなかった。

 なぜそんなに笑っていられるのか、ずっと疑問に感じていたのだ。

 妻は夫からの質問に瞬きしたが、すぐ穏やかに微笑んで答えた。


「だって……あなたとこうやって暮らして、もうすぐ子供が生まれるのよ?」


 妻が細い手を伸ばし、優しく頬に触れてくる。


「嬉しくて、嬉しくて。本当に……嬉しいのよ。辛いことがあっても、苦しいことがあっても、笑っていられるに決まってるじゃない。あなたと一緒なんだから」


 ……この満たされた日々が、肉親との決別という代償の上で成り立っているとしても。


 ***


「おかあさん」

「なぁに、和葉」


 自分によく似た細い金糸の髪を持った、間もなく五つになる娘がじゃれてきた。じゃれてきたといっても、まだまだ幼い娘は母の体のことをきちんと考えている。大きくなってきた腹に響かないよう、はしゃいだように駆け寄りながらも、身重の体に障らないよう気をつけて、そっと抱きついてきた。そんな優しい娘の頭を撫でたときの、柔らかく、さらさらとした絹のような触感は実に心地よい。


「おとうとかな、それとも、いもうと?」

「そうねぇ……」


 和葉の期待に輝いた瞳の眩しさに、思わず目を細めながら答える。


「どっちだとしても和葉なら、きっと素敵なお姉さんになれるわ」


 ***


 母はいつでも、何があっても、とても元気溌剌としていて、快活な人だった。

 父が仕事で長く家を空けても、寂しさを子供たちに見せることなく、前向きに日々を過ごし、父が帰ってきた時は真っ先に迎えに行っていた。

 明るくて、面白くて、優しい。私も、妹も、母のことが大好きだった。


 それなのに――――


 ***


「おねぇちゃん……」

「大丈夫。大丈夫だよ、琴乃ことの


 妹の小さな手が縋るように、服の裾を掴んでくる。大丈夫と言い聞かせる和葉も不安で仕方なかったが、妹の手前それを表に出すわけにはいかない。

 酔っ払いの運転する車が、歩道に突っ込んできたのだ。まだ日も上っていたというのに、酒を飲んでいた時点で既に品性を疑うが、更に事故まで起こしたのだから最悪だ。

 そして、車が突っ込んできたところに琴乃がいたのだ。ちょうど夕飯の買い物をし終えた帰りのことだった。母と妹と三人で、ただ歩いていた。姉妹で買い物袋を持って、母の手伝いをして。何の悪いこともしていないのに、車は琴乃を目掛けて突っ込んできた。

 咄嗟に母が動いたのだ。突然過ぎて反応できない琴乃を突き飛ばし、車の前に身を投げた母。

 あの赤い水溜まりを、きっと自分らは一生忘れないだろう。母から流れ出る赤い水が、じわじわと水溜まりを作っていく様を、絶対に忘れはしないだろう。


「お母さん……」


 妹の手を自分の手で包み、ぎゅっと握る。

 大丈夫。大丈夫。あのお母さんなら、大丈夫。

 そう、言い聞かせ続けた。

 妹と、何よりも、自分に。

 それでも、人という生き物は脆くて。


 よわい十歳にして、和葉は母を喪ったのだった。


 ***


 突如として母を喪い、父は海に出ている。一時的に身寄りを失った二人の遺児を引き取ったのは、父方の祖父母だった。

 母方の祖父母とは連絡を一切取ることができなかったらしい。そして、和葉は(妹は幼かったので理解できなかった)知ったのだ。

 父と母は駆け落ちして結ばれていたのだと。

 初めて会う祖父母の硬い態度に困惑していたところ、葬儀の最中、参列者の一部が囁いているのを二人で耳にしたのだ。参列者といっても、ほとんど父方の親戚か父の知り合いか、といったところで、母方の親類や母の知り合いはほとんど来ていなかった。


「あの静かな人が、ある日いきなり飛び出して行ってねぇ……ショックだったところに、これだもの……」

「正直、この人って得体が知れないというか……」

「あの人とお子さんには悪いけど、ねぇ……」


 皆、母の悪口ばかり言っていた。

 母が真面目な父を誑かして連れ去ったのだと。父は騙されていたのだと。

 そんなことはない、と叫びたくなった。でも、母を嫌悪する澱んだ空気の中で、声を上げることはどうしてもできなかった。

 込み上げる悔しさで拳を握り締める。どこか不安げな妹が、怒りに震える姉を案じるように見上げてきた。


「おねぇちゃん……?」

「お父さん帰ってきたら、聞こうね」

「なにを?」

「お父さんはどうやって、お母さんと一緒になったのって」


 ***


 堅実な父は意外にも飲み屋街で母と出会ったそうだ。

 酒の影響もあったけれど、それでも、元気の塊のような、この世の全てを明るく捉えられそうな、そんな陽気な雰囲気を持った母に父は惹かれたのだと。

 厳格な父の両親は反対した。そんなところで出会った女など、ろくな人間じゃない。

 父は頑として、母を娶ると言って周囲の反対など聞かなかった。家を飛び出し、母の両親に挨拶だけして、二人は暮らし始めたそうだ。

 何を捨ててでも、一緒にいる。父の一途さと誠実さに母も言うまでもなく惹かれて、今に至るのだ、と。

 まだ子供だからと黙ってて、すまなかった。辛かっただろう。自分が仕事に出ていたばかりに、こんな思いをして。

 そう謝ってきた父に、和葉は微笑んでみせた。


「大丈夫だよ。お母さんが悪い人なわけないもん。それに、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは悲しかっただけなんだよね?」


 お父さんがいなくなって、寂しかったんだよね?

 和葉の言葉を聞いた父は、静かに落涙した。

 父の涙というものを目にしたのは、前にも後にも、その日だけだった。

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