意地の模擬戦

 武道場の利用手続き自体は簡単だ。体育教官室に行き、先生に事情を説明して、書類を書いて鍵を受け取る。それだけのことだ。

 しかし、どう説明すればいい。

 三年の志摩と桜の精霊が意地を賭けた模擬戦をするので、武道場を使いたいのです。

 ……なんて、言えるわけがない。

 それらしい理由を、でっち上げなければならなかった。

 千尋なりに色々と考えた結果、こう言うしかなかった。


「志摩に剣道の稽古をつけてもらうって……おい、藤原。お前、他に当てはなかったのか? 志摩は受験生だろう」


 先生の苦言は尤もだ。

 千尋は苦しい言い訳を口にしてやり過ごそうとする。


「それはわかってますけど、冗談で言ったら本人が快諾してくれまして……」

「快諾したぁ?」


 先生の反応が予想よりも悪い。本人の了承があると言えば、あっさり鍵を渡してくれると思っていたのに。


「あの、先輩に何か問題が……?」


 余計なことを訊いている自覚はあるが、訊かずにはいられなかった。

 先生は苦々しい顔で答えてくれた。


「受験生としての自覚がいささか足りないと思っただけだ。まぁ、本人がいいと言っているなら、こちらに止める権利はない」


 そう言って先生は、ほれ、と鍵を渡してくれた。

 和葉は成績優秀な美人だと評判だが、それが揺らぐのも、このままでは時間の問題なのかもしれなかった。


 ***


 いつも気持ち悪いと感じる夏特有の、閉め切られた室内のねっとりとした空気。それに今は恐怖までが追加されていた。

 二人が無言で対面しているだけで、室内の空気が殺気で満ちていく気がする。

 千尋は耐え切れなくなって、武道場全ての窓を開けた。

 夕方でも気温はさして日中と変わらない。射し込んだ西日が和葉の横顔を照らしても、和葉は眩しさに目を細めることなく、頑なな意志を滲ませた視線を桜緋にぶつけた。


「……その強情さは賞賛に値するが、現状に適していないな」


 桜緋が微かに苦笑する。

 しかし、和葉の表情が動くことはない。


「言ったでしょう。貴女には関係ない」

「そうだな。このように向かい合っていて、こう言うのはあれだが、私にお前の事情など関係ない」


 どのような生を歩むのか決めるのは、お前自身だ。私がとやかく言う筋合いはないよ。

 と、桜緋は肩を竦めて肯定した。

 それを聞いた和葉は、不快感を隠すことなく眉を寄せた。


「ならどうして」

「お前が道を踏み外せば、千尋に大なり小なり影響が出る。それは困るんだ」

「あくまで、藤原君至上主義?」

「至上主義なんて大層なものではないさ。……護ると決めたものを、私は護るだけだ」


 和葉の瞳が揺れる。

 そして、羨望と悲哀の混ざった複雑な表情を浮かべた。


「真っ直ぐね、桜緋。ほんと、妬ましいくらいに……」

「お前とて、一つの目的を果たすため、邪気を狩っているのだろう?」


 目的?

 千尋は瞬きして桜緋の方を見たが、桜緋はこちらに視線もくれなかった。桜緋の目が捕らえているのは、悩んで、迷って、足掻いて、躍起になって、疲れてきている和葉だけ。


「若いうちは悩む。自然なことよ。解決しようと、そんな必死になる必要性はない。ゆっくり道を模索すればいい。……そして、一つの目的のために、一度きりの生を浪費することは愚かだ」


 優しげな声だった。

 幼子を諭す母のような、包み込む声音。

 事実、桜緋は諭していた。人の子という、自らよりも遥かに若く、幼く、不器用な存在を。


「桜緋……」

「急ぐ必要はないだろう。強さは、そう易々と身に付かない。身に付いた頃には、お前は人としての最盛期を終えている」


 和葉は瞼を伏せた。

 わかっている。そんなことは。わからないほど、自分は幼くない。いや、この精霊にとっては幼いのだろうが、人としてはもう少しばかり大人であるつもりだ。

 しかし、それでもこれは譲れない。

 和葉が自前の木刀を構えながら瞼を上げた。


「それが答えか、人の子」


 桜緋は怒りも呆れもしなかった。

 ただ、和葉の選択を受け止めた。

 手の中に霊力の木刀を顕現させ、こちらに目を向けてきた。


「楓雅、構わぬな?」


 千尋の背後に事態を見守っていた楓雅が顕現し、桜緋の問いに渋々ながら頷いた。


「……ああ。俺は止められる立場じゃないからな。桜緋がやるなら、それでいい」

「審判を頼む」

「わかった」


 これは単なる剣道の試合ではない。

 命と信念を賭けた戦だ。

 二人から溢れる高圧の霊気が、傍観する千尋にも圧迫感を与えた。呼吸が浅くなり、鼓動は早打つ。


「うっ……」

「千尋、大丈夫か?」


 思わずシャツの胸元を掴んで一歩身を引いた千尋に、楓雅が心配を孕んだ目を向ける。

 千尋は全然大丈夫だよ、と気丈に笑って頷いたが、楓雅はそれでも微苦笑して、こちらに手を伸ばしてきた。千尋の頭上で右手を軽く振る。

 すると、霊圧が一気に軽くなった。乱れていた呼吸や心拍が正常に戻っていく。

 何かの膜に守られているような感じだ。ほっと息を吐く。


「ありがとう、楓雅」

「昔っから鍛錬を積んでいる和葉の霊圧と長命な桜緋の霊圧を受ければ、そうなって当然だ。千尋は身を守る術がないからな。ひとまず結界を張っておいたから、落ち着いて見守ってやってくれ」

「うん」


 二人に視線を戻す。

 身体への影響は緩和されたものの、やはり風のようなものを感じる。霊圧の風だ。

 楓雅がすっと手を上げ、そして一気に振り下ろした。


「始め!」


 掛け声と同時に動いたのは和葉だった。

 一気に間合いを詰め、桜緋を狙う。


「ハッ!」

「甘いな」


 太刀筋を読んでいたのか、桜緋は一歩退いて斬撃を躱す。そして、空いた左手でトンと和葉の肩を叩いた。それだけで桜緋の体が、ふわりと舞い上がる。

 和葉は空中に視線をやり、思い切り床を踏み込んで追撃する。ダンッと荒々しい足音が響き、床材が嫌な音を立てて軋んだ。

 空中で対峙する二人。といっても、刹那の出来事だ。

 桜緋が木刀を振り翳し、和葉の脇腹に打撃を叩き込む。避けようにも、和葉の身体能力では反応が遅れる。なんせ、空中だ。異空間ならまだしも、通常の空間で空中で身動きをとることは不可能に等しい。けれども、和葉はどうにか体を捻った。


「ぐっ……!」


 直撃は免れても、避けきれない。

 重い一撃が和葉に衝撃を与える。

 普通の人間なら倒れ込んだだろう。しかし、和葉はきちんと着地してみせた。そして、痛みを感じていないかのように、次の一手に出る。


「ほぅ……やるな」

「当たり前よ!」


 どれだけの邪気を今まで相手にしてきたと思っているの。

 和葉の戦意を真っ向から受け止めた桜緋は、ひとつ頷いた。そして、苦笑する。


「その真っ直ぐさは美徳だ」


 だが、それゆえに。

 肉薄した和葉の得物を、桜緋は無造作に掴んだ。


「え!?」


 細腕からは想像もつかない腕力。掴まれた木刀は両手を以てしてもビクともしない。

 顔を上げると、桜緋が微笑んでいた。


「だから思考が狭いんだよ、和葉」


 桜緋の左手から霊力の奔流ほんりゅうが掴まれた木刀を伝って、和葉の身体に流れ込む。無論、耐えられるわけがない。


「……ッ!!」


 あまりの激痛に声も出なかった。

 木刀から手が離れ、勢いのままに和葉は跳ね飛ばされた。

 固い壁に叩きつけられる直前で、展開を察して駆け寄った楓雅が体を受け止めてやる。

 体躯を受け止めた楓雅も、重いと素直に感じられるほどの衝撃だった。

 和葉の怪我を確認してから、楓雅は顔を上げて宣言した。


「勝負あり!」


 桜緋が木刀を霊力の波動に戻してから、体内に引っ込める。普段から得物を使わず、肉弾戦を好む桜緋。

 わざわざ木刀を出して挑んだことを不思議に感じていたが、結局いつも通り霊力で押し通してしまった。


「木刀を出すなんて珍しいと思ったら……」

「見た目をそちらに合わせただけだ。私たちの戦いは試合じゃない。だが、模擬戦くらい見た目を気にすべきかと思ったまで」

「それにしたって、桜緋……手加減しろよ!」

「楓雅。どこも折れてないだろう。気にし過ぎだ」

「しかし……!」

「いいのよ、桜緋の言う通りだわ」


 更に言い募ろうとする楓雅を和葉が止めた。

 全身が痛い。痛いけど、どこも折れてはいない。腕や手の関節も大丈夫そうだ。

 桜緋の傍に千尋が寄って行き、手を差し出した。


「霊力、要る?」

「……そうだな。頼もう」


 千尋から霊力を貰いながら、桜緋は楓雅の腕の中にいる和葉を見下ろした。


「わかっただろう?」


 圧倒的な差を。

 道の長さを。


「……ええ」

「だから」

「もっと強くなるわ」


 和葉の答えに桜緋は瞠目した。

 この惨敗で何がわかったのだ。この女は。

 今は人生を優先すべきと思い知らせたはずなのに、真反対の結論を出してきた。

 和葉は自分の手を見つめ、悔しげに呟く。


「私が欲しいのは高い学歴でも楽しい青春でも幸せな人生でもない。……邪気を滅する強さとそのすべよ」


 桜緋の視線が冷たいものに変わっていく。そして、身を翻した。


「……好きにするがいい」


 そう吐き捨てて隠形してしまった。

 千尋がオロオロと和葉と楓雅を見る。

 和葉は顔を上げずに呟いた。


「ここの鍵は私が返しておくから、帰ってくれないかしら。……すまなかったわね、付き合わせて」


 一人になりたいという意味だろう。

 千尋は判断しかねて、楓雅の方を見た。すると、楓雅も頷いて申し訳なさそうに笑った。

 千尋は二人を置いて帰宅の途に就いた。

 和葉の思いつめた顔が脳裏から離れない。

 彼女は何故、あんなに必死なのだろう。

 千尋には、わからなかった。

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