懐古の夏

理想と現実

剣士の苦悩

 体育館裏手にある水道で冷水を頭から被っていると、自らの思考までが水道水と同じように冷め、鋭く冴え渡っていく。

 早朝の高校。朝練の生徒すらまだ来ていない時刻だが、和葉は校門を勝手に乗り越えて敷地内に侵入していた。

 半袖のセーラー服に木刀。どこぞのアニメキャラかと指摘したくなるような出で立ちだが、彼女は至極真面目にこの格好をしている。

 和葉の得物は木刀だ。霊力を注いで、邪気を斬り倒す。それが彼女の戦闘スタイルだ。

 そして、彼女は現在、酷く苦悩していた。


「……もっと」


 強くならなければ、と。


 ***


 夏休みまで秒読み状態となった期末明け。堅苦しい試験から解放された生徒たちは皆、夏休みを心待ちにしている。千尋も例外ではなかった。

 放課後の教室に一人残り、冷房の効いた室内で窓からの光景をキャンバスに描きとっていく。強い日光に照らされて輝く緑。夏の大会に向けて練習に励む運動部。


「……あれ」

「どうした?」

「桜緋」


 いつの間にか桜緋が傍らに顕現している。

 夏になったので、桜緋の着物の裾の長さが短くなっている。アニメキャラにあるような膝上丈だ。常に淑やかな着物を纏って、伝統を重んじているのかと思ったら、あっさりと現代的な姿に変わってしまう。古臭い(またはババ臭い)と思われたくないし、動きやすいから夏だけはこの格好をするそうだ。

 眩しいほどに白い脚を剥き出しにして、千尋が座っている席の机の上に桜緋はしゃがみこんだ。そして、千尋の視線と同じ方向を見る。


「……あれ、和葉か」


 学校指定の夏用ジャージを纏い、艶やかな金髪を旋毛で結ってポニーテールにした和葉は、武道場の前で剣道部員に混じり、一心不乱に素振りをしている。振っているのはいつもの木刀ではなく、部活で使うような竹刀だが。

 蒸し暑さで首筋にじっとりと汗を浮かせていても、和葉の真剣な表情が揺らぐことはない。凛としたまなこが、真っ直ぐと見据えているものは何か。それがわかる人間は、そういないだろう。

 休憩と称した他の部活の連中が、剣道部の素振りを水筒片手に見に来ている。男子は皆、鼻の下を伸ばしていた。

 そんな男子高校生達を一瞥し、桜緋は不快感を露わにして、眉間にぎゅっと皺を寄せた。


「どいつもこいつも弛んで……」

「先輩、もう受験勉強本格的にしてるんだろうって思ってたのに。まだ邪気祓いしてるみたいなんだ」

「夏は受験の天王山とか言うのだろう? 詳しくは知らないが」

「そう。だから大丈夫なのかなと思って。二年の僕に言われたくはないだろうけど……」


 桜緋は黙って千尋の言葉を聞いていたが、不意に机の上で立ち上がった。驚いて見上げると、着物の中が見えてしまいそうになるが、膝上丈の裾からはギリギリ中身は見えない。

 桜緋は手を伸ばして、目の前の窓をスパーンと勢いよく開け放った。そして、太腿が露出するのも厭わず、窓枠に右足を乗せて壁に手をついた。そして、思い切り叫ぶ。


「この戯けが!」


 轟くとまではいかないものの、一帯に響き渡るほどの大音声だった。

 しかし、この声は精霊の見える人間にしか聞こえない。こちらを振り返る者は誰もいない。唯一、素振りをしつつ、こちらに軽く視線を向けてきた和葉を除いて。


「小娘、お前は人の子だろう!」


 小娘、などと言っている時点で怒っていることは明らかだ。


「人の子なら人の子らしく、人としての生を優先しろ!」


 怒鳴られているのに、和葉は素振りを止めない。まあ、他の皆には聞こえない説教だから、あからさまに気にしたらいけないのだけど。


「そんな半端な状態で邪気祓いに臨まれても、こちらが迷惑だ!」


 ここで和葉の整った形の眉がピクっと動いた。ちらりと桜緋を見上げ、口が動く。

 口パクだったが、桜緋は読唇術くらい身に付けているので、和葉の反論を正確に読み取った。


「貴女には関係ない、だと……!?」

「桜緋、落ち着きなって」

「私は至極落ち着いている!」

「どう見ても、それ落ち着いてないって!」


 千尋が諌めたところで、桜緋が言うことを聞くわけもなく。

 桜緋は険しい表情で和葉を睨み付け、空いている左手に霊力を集中させた。

 霊気の具現たる桜の花弁が渦を巻き、次いで、しなやかな一本の木刀が顕現した。

 霊木たる桜の木刀。桜緋から絶えることなく注がれる強大な霊力によって、その刃先は仄かに発光している。

 桜緋は手に持ったそれを軽々と扱って振り翳し、切っ先を和葉に向けた。


「和葉、私と戦え!」


 千尋は目を剥いて桜緋を見上げた。何を言い出すんだ。人と精霊が戦うなんて。


「桜緋!」

「案ずるな、千尋。戦うと言っても模擬戦だよ。命を奪い合ったりはしないさ」


 不敵に笑う桜緋に、千尋は恐れのようなものを感じた。じとりと嫌な汗が背筋を流れていく。

 どんなに親しくなろうと桜緋は精霊だ。人間ではない。激しい感情で荒ぶる霊気は、人間を圧倒する。

 ごくりと唾を飲んで、動悸を抑える。


「……よし」


 和葉が頷くのを見届け、桜緋が唇の端を吊り上げた。

 あくまで模擬戦と言っているが、桜緋は本気で和葉を叩きのめすだろう。瞳に映る苛烈な色が、それを物語っている。

 止めたくても、止められる立場ではない。自身の発言力のなさに溜息を吐こうとしたとき、もう一人の立場の弱い男が顕れた。


「おい、桜緋。本気か?」


 楓雅だ。

 てっきり和葉の傍に隠形していると思っていたのに、いつの間にかこちらに来ていたらしい。仁王立ちで爛々と瞳を光らせる桜緋に、溜息混じりで問い掛ける。

 桜緋は楓雅を振り返ることもなく、肩を竦めてみせた。


「当たり前だ。あれは一度ばかり鼻っ柱をへし折ってやる必要がある。そして、その適任者は私だ」

「何故言い切れる?」

「お前は和葉に甘い」


 事実なので、千尋は無言を通した。

 楓雅がグッと言葉を詰まらせているが、生憎庇うことはできない。

 楓雅は比較的常識的な性格をしているし、頼れる兄貴分といった感じの男だ。しかし、パートナーである和葉相手だと、その立場はかなり弱い。危機的な状況下を別とすれば、楓雅は和葉に頭が上がらないと言ってしまってもいい。

 そんな彼が、現在の和葉を窘められるわけがなかった。


「しかし……」

「私を誰だと思っている。お前よりも永く生きている桜だ。小娘相手に加減もできぬほど、大人気ないとは思えんだろう?」

「いざ剣を交えれば、そんなこと頭から抜け落ちるくせに……」


 苦労人だなぁ、と千尋は思った。

 思ったの、だが。


「千尋」

「ん?」


 すっかり油断していた千尋に、桜緋はいっそ愛らしい笑顔を向けた。


「と、いうわけだ。模擬戦の会場が必要になったから、ここの武道場とやらを借りてきてくれ。私は利用の手続きができぬ」


 自分は精霊ひとのことが言える立場ではなかった。

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