一刻の安らぎ

平穏な朝

 千尋も千景も、翌朝普通に目を覚ました。自室の布団の中で。いつも通りに。

 和葉や荘司も同様だろう。

 けれど、少しだけ普段の朝とは違う。枕元に桜緋が立っていた。


「っ」

「おはよう」

「お、おはよう……」


 寝起きに美少女とは、驚くべき最高のシチュエーションであるはずなのに、喜べない。だって、桜緋はひどく暗い顔をしていたのだ。


「どうした? 桜緋」

「……身体は、もう平気なのか」


 質問に桜緋は質問を返した。

 桜緋が素直に答えてくれることなど、滅多にない。不満に感じても、今更だった。


「うん。特に問題は。千景のおかげってやつかな」

「そうだろうな。後で礼でも言っておけ。兄弟で恥ずかしくとも」

「そうする」


 千尋の重傷は千景の霊力によって根治した。霊体にはもう何の問題もないだろう。

 千景があれほどに力を持っていたことは知らなかった。だが、あいつは昔から隠し事が上手だった。兄の優一ならともかく、弟の自分が分かるわけもない。


「千景が祓ってくれたんだよね、あの邪気」

「そうだ。私が殺ると言っておいて、無様なことだ。我ながら情けない」

「仕方ないって。僕が油断して、邪気にやられたのが悪い。僕がやられてなかったら、桜緋が祓ってただろ?」

「いや、無理だった」


 やけに、はっきりと言う。

 千尋は不思議に感じて理由を訊いた。


「どうして」

「私の力じゃ、あれは祓えなかった。力不足」

「……桜緋が?」

「ああ」

「本当に?」

「怒らせたいのか」

「ごめん」


 だけど不思議だった。

 桜緋は、とても長生きな精霊だ。だから、精霊の中でも群を抜いて力が強いと言われているところを、千尋は今まで何度も見てきた。

 そんな桜緋が力不足。解せない。

 千尋が不可解そうにしていても、桜緋本人は納得しているようで、肩を竦めてみせた。


「相性の問題だ。私の桜より千景の陰の方が、相手に効果的だった。威力も含めて、な。それだけの話さ」

「はぁ……そういえば、千景が陰の霊気で邪気を祓ったって言うけど、どういうこと? 陰って、溜め込んだらいけないものだろ? 溜め込んだら、千歳ちゃんみたいになるんじゃないのか?」

「千歳は邪気に冒されたんだ。千景とは訳が違う」

「どんなふうに?」


 桜緋は立っているのに飽きたのか、千尋の勉強机の椅子に腰かけて、くるくると回りながら説明を始めた。ちょっと子供っぽい動作が可愛いなんて、口にはできない。


「千景はお前と同様、少し特殊体質なんだよ。無論、お前に比べたら常識の範疇だが」


 桜緋が、くるん、と一周回って千尋に向き合う。


「千景は自らに陰気を溜め込みやすい体質だ。普通の人間なら悪影響にしかならない体質だが、千景の奴は違う。……彼奴は、その体質を有効に活用する術を身に付けている」

「どうやって……」

「弓道だ」


 千尋はハッとした。そういうことか。

 桜緋も千尋の理解に気づいてはいたが、説明を続けた。


「弓道によって身に付けた強靭な精神力。それを以てすれば、溜まった陰気を自らのものとして扱うことも可能だ。だから千景は使ったのさ。……陰気を矢に込めて、放った。自らの霊力として、放ったんだ。陰は極まれば陽に転じる。マイナスとマイナスを掛けたら、プラスとなるように。千景は、その法則をうまく利用して、あれを祓ったのさ。全く、脱帽だよ」


 千尋も納得ができた。

 そして、羨ましく思った。

 自分の一見厄介な体質を、効果的に利用する。自分も、そんなことが出来たらいいのに。

 そんな千尋の胸中はお見通しらしく、桜緋が椅子から飛び降りて千尋の額にデコピンを喰らわせた。


「いっ……!」

「阿呆か。お前の体質がなければ今回あの邪気を……あの穢れてしまった桜を、私は夢殿に呼ぶことはできなかった。お前の体質も、きちんと役に立っている。変な心配はするな」

「う……分かった」

「そういえば、朝食がまだだったか。すまない、話し込んで。私は少し寝てくる」


 寝る、という単語に千尋はベッドから出ながら反応した。


「精霊も寝るの?」

「霊力をかなり消費したからな。そうだな……あの桜並木辺りで休む」


 窓から桜緋が指したのは、近所の公園を囲う桜並木だった。花の時期はもう終わり、今はもう緑が茂っている。あそこなら、桜の精霊はきっと落ち着いて休めるだろう。


「そっか…………あ」

「どうした?」

「少しくらい、僕の霊力を持って行きなよ。今回苦戦した原因作ったの、僕だし。お詫びってことで」

「だが……」

「平気だって。千景のおかげで霊的に全快してる。ほら」


 差し出された手を取るのを、桜緋は一瞬躊躇った。けれど、千尋の穏やかな表情を見て、その手を取った。

 詫びという言葉に甘えて、いつもより多めに霊力を吸っておいた。


「っ……だいぶ持ってったね……」

「ああ。……じゃ、私は行く。また顔を出す」

「うん、また」


 桜緋は、じゃあと手を軽く上げてから隠形し、去って行った。

 千尋も、さて……と気分を切り替え、着替えを始めた。


 ***


 居間に向かうと、優一が朝食を作っていた。両親は店にいるのだろう。……おや? 千景の姿がない。

 千尋は台所に顔を出して、兄に問うた。


「兄さん、千景は?」

「帰った」

「え?」

「さっき寮に帰った」

「え、千景の学校って当分は休校じゃ……」

「今朝いきなり通知が来たらしくてな。授業は明後日から、部活は明日からだが、寮は今日から開けるんだそうだ。自主練するって言って、朝飯も食わずに行っちまったよ」

「そっか……」


 大元の邪気を祓ったから、みんな回復し始めたのだ。

 それにしても、なんというか。相変わらずというか。

 思わず苦笑してしまう。


「どうした? 千景に何か用事でもあったのか」

「まぁ、そんなとこ。あとで連絡しとく」

「そうか。……ほら、できたぞ」


 優一からおかずの乗った皿を受け取り、千尋はダイニングに向かう。

 食べ始める前に、携帯を取り出して千景に連絡を入れた。


《昨日はありがと。頑張って》


 意外にすぐ返信が来た。


《兄が弟を護るのは当然。これからも気を付けて。桜緋さんによろしく》


 冷静沈着なようで、実は身内想いな熱い男なのだ、千景は。こんなことが世間様にバレたら、また千景人気に火が付きかねない。黙っておこう。

 携帯を仕舞って朝食を食べていたら、次は電話が鳴った。携帯ではない。家の固定電話だ。

 千尋は食事中なので、優一が出る。


「はい。……はい、いますよ」


 優一がこちらを見た。


「魁斗からだ」

「分かった」


 兄から受話器を受け取って出る。


「はい」

「千尋、千歳が回復し始めた」

「ほんと!?」

「ああ。熱が下がって、意識も戻った。脈拍も正常だ」

「よかった……」

「ありがとな」

「え?」

「お前たちが、やってくれたんだろ?」

「あ、ま、まぁね……」

「妹を助けてくれて、礼を言う」

「いいって、そんな畏まらなくても! あ、そうだ。今日暇だし、これから病院行くよ。千歳ちゃんのお見舞いに」

「いやそんな、すぐ退院すっから…………」


 あ、無言になった。これは千歳ちゃんかな。

 しばらくしてから、魁斗がまた出た。


「……来い、千尋。千歳が会いたがってる」

「はいはい。じゃあ、これから行くよ」

「ああ。千歳が待ってんだ、早くしろよ!」

「分かったよ。それじゃ」


 電話を切って、兄に事情を説明しつつ朝食を平らげ、素早く支度をして家を出た。

 久し振りに平穏な日々が、帰ってきたような気がした。

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