出逢い

「ほら見て、お兄様」


 妹が唐櫃から取り出したのは真新しい狩衣だった。深い緑色で、落ち着いた印象の狩衣だ。

 受け取った義行は、しげしげとそれを眺めた。


「へぇ……綺麗にできてるじゃないか」


 つくろい物を始めたばかりの頃は、衣の形にすらならなかったというのに、随分と腕を上げたものだ。これなら結婚したあとも困ることはないだろう。夫の衣装を仕立てるのは妻の役目だ。


「そうでしょう、そうでしょう!? 私、衣を仕立てるの上手になったでしょう!?」

「あまり大きな声を出すと、はしたないって、また母上に叱られるぞ」

「うっ……でも、上手でしょう?」


 妹は少し声を小さくしたが、それでも褒めてくれと言わんばかりに兄に詰め寄った。

 義行は小さく息を吐きつつも、ひとつ頷いた。


「……そうだな。前よりずっと上達したと思う」

「やった! じゃあお兄様、それあげる」

「は?」

「聞こえなかったの? あげるわ、その衣」


 思わず聞き直してしまったが、妹の返答は変わらない。それにしても、あげるって……簡単に言い過ぎではないか?

 義行は妹に、念のため訊いておく。あとになってから、やっぱり返してと言われるのが最も困るからだ。


「本当に僕がもらっていいのか……? だって、これは章平あきひら殿のために縫ったんじゃないのか?」

「え? それは練習用よ。章平様には、これからちゃんと作るの。当たり前でしょう?」

「あ、そう……じゃあ、有り難く……」


 練習、と作成者が断言する物をもらったという事実は、なんとも言えない気持ちになる。が、これ以上は考えないでおこう。その方が幸せだ。

 それに、妹の将来の夫たる章平は、このような落ち着いた色の衣より、もう少し明るい色合いの方が似合う気もする。

 妹手製の狩衣を持った義行は立ち上がって踵を返した。


「僕は夕餉まで部屋で仕事してるから。母上に伝えておいてくれ」

「ねぇ、お兄様」

「なに?」


 振り返ると、不満そうというか、不安そうというか、心配そうというか……不肖の兄を案じる顔をした妹がいた。


「私と章平様は文も頻繁に交わしているけど、お兄様は大丈夫?」

「……婚約破棄はされてない。問題ない、と思うけど」

「はぁ……お兄様」

「……」


 それ以上言うな、そう目で訴えても無駄だった。


「そんな婚約者、私なら見捨てるわ」


 容赦ない言葉。義行は眩暈を覚えて、ふらりとよろめき、柱に体を預けながら妹を睨み付けた。


「うるさい、侑子ゆうこ


 ***


 千尋は苦笑が隠せなかった。

 これが、過去か。知るはずもなかった過去。知ることはなかったはずの過去。

 今の方がマシだと思いたい。

 記憶の旅は実に楽しいが、だんだん寒気が増していた。

 酷く身体が寒いけれど、禁断の旅はやめられない。


 ***


「こちらへ」

「はい」


 侑子から狩衣をもらった翌日、義行は自身の許嫁を訪ねていた。

 決して妹の非難に屈したわけではない。だが、妹の言葉に何も感じなかったわけでもない。

 確かに、自分は許嫁に対して何もしていない。婚約が取り決められた日以来、会ってもいない。

 いささか自分に非があったと、さすがの義行も思ったのだった。


「本日はどうなさったのですか、義行様」


 前を行く女房が振り返ることなく、朗らかな口調で問い掛けてきた。

 年若い女房で、義行より少し年上くらいだろうか。十八歳にもまだ満たないに違いない。もしかしたら、姫付きの女童めのわらわとして幼いうちにこの邸に迎えられ、成長した後は女房として仕えているのかもしれない。


「えっと……」


 何と答えればいいだろうか。

 妹に発破をかけられたとは、口が裂けても言えない。

 しかし、女房は義行の返事など求めていなかった。あくまで一人で話していく。


「義行様の御来訪に姫様は驚かれていますが、それ以上に大変お喜びになられています」

「はぁ……」

「姫様には御兄弟がおられません。話し相手も、ご両親を除けば私くらいしか……」

「……」

「義行様」


 女房が義行を振り返る。


「姫様を、宜しくお願い致します」


 ***


 姫の部屋がある東対屋ひがしたいのやに入ったところで、女房が足を止めた。


「姫様!」


 本来、貴族の姫は人前には出ない。夫や家族、家人の前なら問題ないが、義行は婚約者であってまだ夫ではない。堂々と廊下で迎えるというのは、褒められたことではなかった。

 女房の叱声に、庭を見るようにして用意した円座わろうざの上に座っていた姫――慈子よしこは振り返って、穏やかに笑った。


「義行様、お久し振りにございます。案内あないご苦労様、菫」

「そういう問題ではございません! きちんとお部屋でお迎えを……」

「あら。せっかくの桜を御簾越しに見ろと言うの? もったいないわ。それに、こんなに綺麗に咲いているんですもの。将来の旦那様と一緒に見たいものじゃなくって?」

「姫様ぁ……」


 あくまでのんびりとした口調で、自分の意見を貫く慈子。

 この菫という女房も、こうやっていつも言い負かされてしまっているのだろう。額に手を当てて、やれやれと言わんばかりに息を吐いたものの、無理矢理に慈子を部屋に戻すことはせず、優雅に一礼した。


「……分かりました。冷えませんよう、お気をつけて」

「ええ。分かっているわ」


 自分の局に下がっていく菫を見送り、慈子は隣に置いた円座を指した。


「義行様、こちらに」

「え、ええ……」


 近すぎる距離感に緊張しつつ座ると、いい匂いが鼻を擽った。控えめな、それでいて品の良い甘い薫りが、ふわりと香る。

 なんだろうと一瞬考えて、すぐ答えを悟った。顔面に熱が集中するのを抑えられない。

 慈子だ。慈子の衣。厳密に言えば、慈子が衣に焚き込めた香の匂い。

 慈子本人の匂いも混ざっているなどと考えてしまってはもう体中の血が沸騰しそうだ。


「満開ですね」


 そんな義行の動揺を気にしていない、いや気づいていない慈子は庭を舞う桜を、うっとりと眺めている。

 すると、思い出したように慈子が義行の方を見た。


「そういえば、章平様と妹君様はいかがですの?」

「あ、ああ……仲良くやっているみたいです。今も、章平殿に衣を縫っていますよ」

「まぁ。それは、うっかり口を滑らせて章平様に言ってしまわないようにしないと」

「なぜです?」


 義行が首を傾けると、慈子は瞳を優しく細めて答えた。


「妹君様はきっと、内緒で衣を仕立てて、章平様を驚かせようとなさるはずですから。私なら、そうします」

「そういうものなのですか……」

「そういうものなのですよ。女子おなごというものは……」


 慈子との出会いも、妹の婚約者たる章平の仲介で成し得たものだ。

 章平は二十歳はたちになる青年で、内裏内でも有能な若者として重宝されている。人柄もよく、内向的な義行にも気さくに接するような好青年だ。

 慈子は、そんな章平の又従妹なのだ。

 遠縁だが、歳が近しいということで二人は仲良く、本物の兄妹のように育ったらしい。そして、まだ結婚相手が決まっていない幼馴染を思って、章平は義行との結婚話を慈子の元へ持って行ったといったところだ。

 慈子自身、義行との婚姻を嫌がる素振りはなく、包容力のある深い優しさを義行に向けている。

 未だに戸惑っているのは、義行だけなのだった。


「義行様」

「はい?」

「次の桜も、一緒に見ましょうね」

「そ、そうですね……」


 ふんわりとした笑顔が眩しくて、義行は返事をしたものの視線は合わせられなかった。


 ***


 帰り道。

 川沿いの桜並木を歩いて自邸へ帰る。

 はらはらと花弁が舞う中を、ゆっくりと歩く。

 日は沈み、辺りは薄暗い。

 だが、歩みを早める気にはならなかった。

 自分に自信が持てない。自分の存在を肯定できない。

 そんな暗い感情が心の奥に根付いているのだ。生まれたときから、ずっと。

 生来の性格は変わるものではない。ゆえに、付き合っていくしかない。

 そう、義行は思っていた。


「人間。私の傍で、そんな辛気臭い顔をするな。気が澱む」


 どこか不遜な態度。高圧的な口調。だが、声音は聞き惚れてしまうくらい澄んでいる。

 声のした方を見ると、桜の枝に小柄な少女が腰かけていた。

 髪と瞳の色は異質で、人ではないとすぐに分かった。けれど、纏っている衣は意外に人間らしい。白の単衣に緋袴、その上に桜色の袿を一枚、軽く羽織っている。


「お前だ。私の愛しい花を見ても物憂げな顔を変えんとは。腹の立つ奴め」


 どうやら怒っているらしい。可愛らしい顔立ちが険しくなっている。

 だが、何かに気づいたようで、まじまじと義行を見下ろした。


「……お前、やけに雰囲気が暗いと思ったら、その身に陰気を纏っているのか? そんなに陰気を寄せていては気分も悪いだろう。そら――――」


 ぱん。

 と、ひとつ拍手かしわでを打った。

 すると驚いたことに、さっきまで重たかった気分が少し晴れた。心の奥に溜まっていた黒いものが、払いのけられたような。ふわっと、心が軽い。こんなにも気分が楽なのは、おそらく初めてだ。

 義行は色々と考えた。この子は何だ。人ではない。あやかしか? だが、それにしては明るい気がする。妖とは普通、陰湿なものだろう。なら……

 義行は一つの仮説を立てて、口を開いた。


「君は……神、か?」

「神?」


 少女は目を丸くして、次いで吹き出した。肩を震わせながら、それでも笑いを堪えているらしい。


「か、かみっ……そんな、立派な存在と間違われるのは初めてだ……ッ」

「なら、何となら間違えられたんだ?」

「そうだな……」


 少女は込み上げる笑いを噛み殺しつつ、顔を上げて答えた。


「妖だとか、人魂だとか、美化しても天女だったな」

「あー……」


 確かに、天女の方がしっくりくる。しかし、それも違うのだろう?

 では、この子は何なのだ。


「じゃあ、君は何なんだ?」


 そう問われた少女はニヤッと、不敵な笑みを浮かべた。

 桜の花弁が舞う中で、少女は挑戦的に、誇示するように、胸を張る。


「私は、桜の精霊だ」


 その時の凛々しく気高い少女――桜緋の顔を、義行は生涯忘れることはなかった。

 義行と桜緋。少年と少女。人間と精霊。

 二人の、初めての出逢いだった。

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