前世の君

 肉体。魂。

 個人を形づくるもの。


 嗚呼――――


 藤原千尋は堕ちていく。

 堕ちて、堕ちて、堕ちて……遠い過去へ、彼は堕ちていく。


 ***


 元服して三年。

 十四になったといっても、義行の性状は元服前の童だった頃からあまり変化はなかった。

 昔から気弱で、しかも、しょっちゅう体を壊した。おのこらしくないと、父から叱られた回数は数えきれない。母にも心配をかけっぱなし。

 職場でも、欠勤と早退の常習扱いで頼りにされない。後から入ってきた年下連中の方が、昇進が速いという始末。

 うちは摂関家の遠縁で、姓は藤原だが出世はあまり見込めない。しかし、幸いにも義行が生まれた二年後に女の子(義行にとっては妹)が誕生し、うちよりも裕福な家の長子を婿に迎えるという婚約が成されたので、当分の間は安泰。

 義行がいなくとも、職場も家も困らない。

 要するに、義行少年個人は、哀れ過ぎるほどに不遇だったのだ。自分はとても哀れな人間なのだと、齢十四にして義行少年は思っていたのだった。


「――――はぁ」


 生まれたときから溜まり続けている劣等感と精神的苦痛は、義行に溜息を吐かせてばかりいた。

 頑張れ、自分。そろそろ終業の鐘が鳴るはず。もう少しの辛抱だ。

 そう思いながら筆を動かしていたら、予想通り鐘が鳴った。

 同僚たちは書類仕事で凝り固まった身体を解しながら、道具を片付けて帰宅の準備をし始める。義行も彼らと同じように、筆や硯といった道具を纏めていた。


「なぁ」

「どうした?」

「この間、後宮に入内された女御様、知ってるだろ?」

「おい、お前まさか帝の奥方に手を出そうってんじゃ……」

「違うって、馬鹿。そんなこと考えるわけねぇだろ。そうじゃなくて、女御様お付きの女房がな、そりゃあもう優美でって話でな……」


 同僚たちの会話に入る気もない義行は、彼らの話を耳にしつつも加わることはない。黙々と帰る準備を進めていく。


「……へぇ。それは一回くらいまみえてみたいものだな」

「だろう?」

「だが、すまん。俺はもう捕まっている。他の女は当分遠慮するよ」

「一途過ぎやしないか、お前。確かに気心知れた従妹姫が可愛くて可愛くて仕方ないって気持ちも分かるが、男ならもっと……」

「俺は今のところ、姫しか目に映らないのさ」

「はっ。ったく、惚気やがって……まあいいか。お前もお前なりに女には不自由してないんだもんな。満たされてるのはいいことだ」

「お前みたいに、女との駆け引きを楽しむのも悪いとは言わんさ。まぁ、楽しめよ。何か進展があったら、また聞かせてくれ」

「おうよ」


 荷物を纏め終えた義行は立ち上がり、二人に会釈した。


「では、私はお先に失礼するよ」

「あ、ああ……」

「また明日、義行殿」

「ええ。また」


 大したやり取りもないまま、義行は出ていく。いつものことだ。義行はあまり雑談をしない。無愛想というほどではないが、口数は少なく、友人もあまりいない。内裏で義行が親しく人と話しているところを見たことのある人間は、もしかしたらいないかもしれない。

 そんな義行の後ろ姿を見送っていた同僚の一人が、ふと思い出した。


「なぁ」

「ん?」

「そういえば、義行殿って先日、許嫁ができたとか、そんな話があったような……」

「ああ。そうらしいな。俺も詳しい話は知らないが、何でも妹君の婚約者の親類に、ちょうどいい姫がいたらしいとか……」

「義行殿は、少し雰囲気が暗いからなぁ……」

「全くだ。彼の姫君は結ばれた後に、さぞ苦労されることだろう。気の毒なことだ」


 ***


 止まらない。

 止まらない。

 止まらない。


「千尋、千尋……」


 桜緋はもう、何が何だか分からなくなってきていた。

 一心不乱に、洞のように大きな傷口を引き千切った袂で押さえつけている。じわじわと滲み出す赤。ぐっしょりと重い布。

 瞳から流れる汁はなんだ? ……これは、涙か?

 泣いているのか、私は。泣くなんて、何百年ぶりだろうか。

 嗚呼、でもそれでも。

 血は、止まらない。


 ***


「千尋……」


 夢殿に降り立ってすぐ、は察した。

 急ぐ必要がある、と。


 ***


「ただいま」

「お帰りなさい、お兄様」


 玄関に顔を出した妹は、相変わらず明るい表情をしている。お日様のように、にこにこして、雲のように、ふわふわした可愛い妹。

 根暗で陰気な自分とは大違いだ。


「母上は」


 くつを脱ぎながら訊くと、妹はこれまた明るい声音で答える。


くりやで夕餉の支度をなさってるわ」

「そっか」

「ちなみに、お父様はまだ帰ってきておられないわ」

「そ」


 いつもなら母の手伝いをしているはずの妹は、なぜか今日は自分の出迎えをしていた。何がしたいのだか。

 何の用もなく、単なる気分で兄のお出迎えをするような子ではあるまい。何か裏があるはず。


「……まだ夕餉ができるまで、少し時間があるわ。ねぇ、お兄様お願い」


 書き仕事ばかりで重くなっている腕に、容赦なく妹が飛び付いてきた。やけに甘えた声を出しながら。

 ほら、何か企んでいる。


「私の部屋に来て? 見せたいものがあるの」

「はぁ……分かったよ。けど、先に着替えさせてくれ」

「はぁい」


 部屋で待ってるから早く着替えてきてね、と言い残して廊下を小走りに駆けていく妹。途中の厨で走っているところを母に見つかったらしく、妹の叱られている声が微かに玄関まで聞こえてきた。あれでも、もうすぐ裳着をして婿を迎えるのだ。母も心配が尽きないだろう。

 無邪気で愛らしい妹なのは構わないのだが、貴族の姫にしては元気すぎるところが少々問題だった。

 義行は頭を掻きながら、出仕用の直衣から狩衣に着替えようと自室に向かった。

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