姉弟

「おかあさん!」

「無事で良かった……!」

「ありがとうございました」


 今回、異空間が生まれた場所は、ごく普通、一般的な民家の庭先だった。そして、その家の子が、邪気に攫われたのだ。

 荘司に促されると、女の子は駆け出し、母親に抱き着いた。

 こちらで待っていた両親も気が気でなかったようで、二人とも娘の無事に涙を浮かべている。

 荘司は女の子の頭を撫でてやり、そのまま踵を返した。今回の報酬は組合経由で渡されるので、長居は不要だ。

 正規の報酬だけでなく、個人的な礼もしたいという依頼人の申し出を固辞し、荘司はその場を立ち去った。

 駅までの短い道を歩いていると、隠形した水黎が背後から声をかけてきた。


『このあとは?』

「そうだね……」


 引き受けた依頼は片付け終えているし、組合の方には明日顔を出すつもりでいるから、今日のうちに行く必要もない。本音を言ってしまえば、わざわざ書類を片付けに行きたくない。

 よし、早めに帰ろう。

 この商店街にある呑み屋に寄ってもいいが、久し振りに家でゆっくり休みたかった。


「帰る。まっすぐ帰る。帰って寝る。和菓子と酒は今度の休みに買いに行く。決定」

『お前は報告書の提出率が最悪だと、美里がこの間、呻いていたぞ』

「今度まとめて出すさ」


 石哉の指摘に、ははは、と無責任に笑う荘司。隠形して控えている精霊三人は、心から美里に同情した。

 ここから自宅のある衣笠までは電車とバスで四十分ほど。だが、改札を通った瞬間、直感に近いものが、下り線ホームに向かおうとしていた荘司の足を止めた。


『どうしたのじゃ?』

「……前言撤回。これから、もう一仕事向かう」

『どういう心境の変化だ? それに、お前が受けた依頼はもうすべて片付いているだろう』

「自主的な邪気祓いだよ」


 下り線のホームから上り線に向かう。しかし、この次の駅から横浜市だ。横須賀支部の管轄区域を超えている。


『待て、荘司。横浜の管轄を勝手に荒らしては、また横須賀に――美里に苦情が来るぞ。分かっているのか?』

「仕方ないさ。俺の直感に来た時点で決まっている」

『早く行きましょう。……行かなればならない。荘司が動くときは、いつもそう』


 水黎の言うことは尤もだった。荘司は上り線の電車に乗り込み、そのまま北上していった。


***


 精霊組合横須賀支部長は、連日鳴りっ放しの電話と、ひっきりなしに届く相談メールの対応に追われていた。

 もう何日家に戻っていないのか、それすら忘れてしまった。

 短い仮眠を終えて、ソファから起き上がる。目の前のテーブルには、コンビニ弁当やカップ麺のゴミが散乱していた。


「いい加減捨てないと……」


 億劫そうに立ち上がり、散らかったそれらをまとめてゴミ箱に突っ込む。これでも一応、分別はしている。

 デスクに向かい、椅子に座って背後のカーテンを開けた。

 ビルの隙間から届く朝日に目を細め、次いで思い切り伸びをする。


「さて……」


 少しくらいのんびりしたいものだが、生憎今日は特に余裕がない。

 横浜支部から昨晩遅く連絡があったのだ。横須賀支部所属の祓い屋が、管轄を超えて邪気祓いを行った。修祓の腕に関しては問題がないため不問とするが、事前の連絡なしで勝手に動かれると混乱が生じるので注意されよ、といった内容である。

 支部長は携帯を手に取り、電話を掛けた。に。

 全く、本当に。あの子は現場しか目に映っていない。管理職の身にもなってもらいたいものである。の苦労を察して欲しいというか。いや、分かっていて動いているのだろう。あの子は聡い。気づいていないわけがない。

 まぁ……そんな子だから、業界でも名の通った祓い屋に、あの若さで成長を遂げたのだろう。

 そこまで思ってから、苦笑した。身内に甘くなってはならない。身内だからこそ、毅然とした態度で接しなければ。公私混同は厳禁である。どんなに可愛い弟だとしても。

 それに、今日はが来る。早く帰ってきてもらわなければ。

 支部長――富士宮美里は呼び出し音を聞きながら、説教の言葉を考えていた。


***


 は予想以上の大物だった。霊力の消耗も激しい。こんなにも疲弊したのは久し振りだ。

 荘司は昨晩、終電を逃し、横浜駅近くのホテルに泊まった。

 金沢区、磯子区、南区と次々に湧く邪気を祓い続け、結局は横浜支部のお膝元、西区にまで移動してきてしまった。きっと今頃、横須賀に苦情の電話が入っているのだろう。姉には悪いが、邪気を放っておくことはできなかった。

 セットしておいた携帯のアラームが鳴り響き、荘司は起き上がった。随分前から起きてはいたが、ベッドから出る気にならなかったのだ。

 もう八時過ぎだというのに、倦怠感がひどい。未だに昨日の疲労が残っているらしい。


「荘司、大丈夫?」

「……ああ。平気だよ。ありがとう、水黎」


 ベッドの端に腰掛けていた荘司の傍らに水黎が顕現した。

 湖の底を模したような深い蒼の振袖を襷掛けし、ふんわりとした薄水色の髪は長く、太腿に届くほどである。疲れた笑みを覗かせる荘司を心配そうに見つめる花浅葱の瞳は、どんな誤魔化しも許さないという意志を映していた。


「……いや、すまない。少し、きついな」

「もう少し休んでいきましょう」


 そう促したものの、荘司の携帯から着信音が。水黎はキッとサイドテーブルに置かれた携帯を睨んだ。

 すると、テーブルの傍に梅妃が顕現して携帯を手に取り、荘司に差し出した。


「水黎、そう怒るでない。……ぬしよ、姉君からじゃ」


 梅妃の艶やかな芸妓衣装姿は普通、寝起きの男にはいささか刺激的かもしれない。だが、荘司はとうの昔に慣れてしまっていた。白く滑らかな手から携帯を受け取り、通話を開始した。


「ありがと、妃。――――はい」


 数分の会話の後、荘司はベッドから立ち上がった。


「何かあったのかえ?」

「ああ」


 素早く着替えを済ませ、上着を纏いながら荘司は二人を振り返った。


「悪いが、急いで戻ることになった。帰ったら、まず支部長から説教を受けて、それから……を迎える」

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